寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』

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 ラテンアメリカ文学についてはこのブログでも何度もレヴューした。とりわけ今年は邦訳の刊行を鶴首して待っていたカルロス・フェンテスの大作「テラ・ノストラ」がついに訳出され、大きな興奮を味わったばかりだ。思うに日本におけるラテンアメリカ文学の紹介はこれまで三つほどのピークがあった。最初はピークというほどでもないが、「百年の孤独」に始まる名作群が新潮社の「新潮・現代世界の文学」シリーズと集英社の文学全集「世界の文学」をとおして堅調に翻訳された1970年代後半から80年前後の時期だ。早川良雄による前者の装丁と深緑色の後者の造本は強く印象に残り、実際にそれらは今も私の書斎の一角を占めている。何度も記すとおり、私が初めてラテンアメリカ文学に出会い、強い衝撃を受けたのは1980年、大学一年の夏にガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ体験であった。それからまもなく日本にもラテンアメリカ文学のブームが到来する。1980年代中盤から90年代初めにかけてラテンアメリカ文学に関する二つの叢書、集英社版の「ラテンアメリカの文学」全18巻と現代企画室の「ラテンアメリカ文学選集」全15巻の刊行はまさに日本におけるラテンアメリカ文学受容の一つのピークをかたちづくるものであった。そしてこの数年、私はラテンアメリカ文学をめぐる三回目の関心の高まりが到来しているように感じる。具体的には水声社の「フィクションのエル・ドラード」、現代企画室の「ロス・クラシコス」といった個性的な叢書を介してスペイン語圏におけるこれまで比較的知られることのなかった作品、翻訳が待たれていた作品が次々に翻訳されている。先日も私は書店でかつて集英社版の「世界の文学」に収録されていたフリオ・コルタサルの「石蹴り遊び」が水声社から復刊されたことを知ったばかりだ。「ロス・クラシコス」の劈頭を飾るホセ・ドノソの傑作「別荘」については既にこのブログでも論じた。本書の著者である寺尾隆吉は「別荘」の翻訳者であり、そのほかにも多くのラテンアメリカ文学の翻訳を精力的に進めている。かつてラテンアメリカの文学といえば、鼓直、木村榮一といった翻訳者で知られていたが、翻訳者も世代が変わったということであろうか。
 日本でもラテンアメリカ文学に一定の受容があったとはいえ、これまでその全体を俯瞰する概説書はほとんど存在しない。唯一の類書は木村榮一の「ラテンアメリカ十大小説」(岩波新書)であろうが、タイトルが示す通り、それぞれの小説についての解説が中心となり、概観というには個別的であり、選ばれている作品のラインナップも今日ではやや古い。マルケスに関しては全集が刊行されているし、バルガス=リョサやルイス・ボルヘス、カルロス・フェンテスといった比較的紹介が進んでいる作家については作品の解説をとおして断片的ながらかなり多くの知識を得ることができるとはいえ、ラテンアメリカ文学を総体として理解するうえで、本書の刊行は画期的といえよう。私も多くの刺激的な知見を得ることができた。本書の意義をひとまず三つの点から論じておこう。
 まず一つはラテンアメリカ文学に歴史的な見取り図が与えられたことだ。本書ではラテンアメリカ文学の前史とも呼ぶべき20世紀以前のラテンアメリカの文学状況から説き起こし、いわゆるラテンアメリカ文学のブームの到来と消長を論じたうえで、未来を展望する時間軸が設定されている。私たちはこれらの小説を刊行された時系列とは無関係に、邦訳された順に読んできたが、本書によって初めてそれらがどのような時間的布置をかたちづくってきたかを知った。私はカルロス・フェンテスが1960年前後にラテンアメリカ文学そのものを牽引する重要な役割を果たしたこと、このブログでも取り上げ、寺尾がどちらかといえば批判的に論及するイザベル・アジェンデの「精霊たちの家」が「百年の孤独」のはるか後、1980年代に入って発表されたことにあらためて思い至った。寺尾に倣ってラテンアメリカ文学の通史を略述するならば、50年代から60年代にかけてアルゼンチンとメキシコの作家たちによって準備されたラテンアメリカ文学のブームは67年の「百年の孤独」の出版を一つの契機として一挙に爆発する。70年代にいたるやフェンテス、バルガス=リョサ、マルケス、コルタサルそしてドノソという五人組は次々に傑作を上梓して黄金時代を迎える。しかし70年代後半よりブームにも陰りがみえ、寺尾が「ベストセラー時代」と呼ぶブームの陰で一種の退廃と衰退が進行する。そして今世紀に入って新しい作家を得てラテンアメリカ文学は新たな展開の途につきつつある。このようなパースペクティヴが与えられるだけでも個々の作家たちについての認識はずいぶん深まる。
 同様の見取り図は空間に対しても与えられるだろう。後でも論じるとおり、ラテンアメリカ文学とは主にスペイン語によって執筆された多国籍文学であり、私たちは作家について確認することはあっても、国籍の違いをさほど気にしない。しかし本書によれば少なくとも初期においてラテンアメリカ文学の成熟を準備した土地はマルケスのコロンビアでも、バルガス=リョサのペルーでもなく、アルゼンチンとメキシコであったという。19世紀後半以降、アルゼンチンがとりわけエリート層の知的教養において世界屈指の国であったという指摘は興味深い。私たちは何の根拠もなく日本が文化や教育の分野でも先進国であると思いこんでいるが、以前より私は海外に行くたびに、少なくとも出版の分野で日本は相当な後進国であるという思いを強くしていた。本書の中に1958年にマドリードを訪れたバルガス=リョサがリマよりはるかに劣る文化的後進性に驚いたという記述がある。フランコ独裁下のマドリードはともかく、今日、日本が文化的なアドヴァンテイジを有していると考えることはナンセンスだ。書店の店頭に積まれたごみのような嫌韓本を見るだけでこの国の文化的劣等性は誰の目にも明らかではないか。アルゼンチンを代表する作家としてはまずボルヘスが挙げられよう。いわゆるラテンアメリカ文学のテイストとは異なる抽象的な小説で知られるモダニズムの極北のような作家が「第三世界」に出現したことは意外に感じられるが、この国の文化的風土の成熟を前提とするならば、何の不思議もない。ボルヘスがアルゼンチン幻想文学の系譜に連なるという指摘は示唆的である。モダニズムと幻想文学、通常であれば一致することがない系譜がボルヘスにおいては確かに結合しており、かかる伝統は(私は未読であるが)ビオイ・カサーレス、そしてコルタサルへとつながるという。それにしてもラテンアメリカ文学とは奇妙な呼称である。「国民文学」という概念が成立するかという問題はひとまず措くにせよ、ヨーロッパであればフランス文学やイギリス文学といった区別は存在するだろう。これに対して、彼の地では主にスペイン語が使用されているという理由によって、国を超えた壮大な広がりに対してラテンアメリカ文学という総称が与えられているのだ。本書を読むとこの理由もいくぶんかは推察することができる。つまり作家たちはそれぞれが属する国を超えた「ラテンアメリカ文学」というブランドを立ち上げることによって自らの小説に付加価値を与えようとした形跡がある。しかしひるがえって何がラテンアメリカ的であるのか。この問いに答えることは難しい。もちろん多くの者にとってそれは「百年の孤独」や「精霊たちの家」にみられる魔術的レアリズムであろうが、この一方でそこには「石蹴り遊び」の実験性や「遠い家族」にみられるゴシック・ロマンも共存している。果たしてそれをひとくくりにすることは可能なのか。後で触れるとおり、ラテンアメリカ文学はヨーロッパを鏡とすることなくしてはありえなかった。(この主題を小説として実現した作品が「テラ・ノストラ」である)アングロアメリカではなく、ヨーロッパとの強い紐帯は作家の多くがヨーロッパに長期滞在した経験をもち、それどころかラテンアメリカで小説家となるうえでは外交官となって時間的な余裕、あるいは身分的な保証を得ることが必要であったという現実も関わっているだろう。この結果、彼らは自分たちの他者性こそを自らの小説の主題とした。西欧に対する他者性という発想から浮かび上がるのはオリエンタリズムの問題であるが、私の考えではラテンアメリカ文学の豊饒さはオリエンタリズムの圏域をはるかに超えている。本書では十分に論じられていないし、新書の紙幅で扱うには大きすぎる問題であるが、ここで暗示されるモダニズム文学とラテンアメリカ文学の関係は今後も様々な角度から検証されるべきであろう。
 以上の問題とも関わっているが、本書を読んであらためて認識された三番目の問題は出版社やエージェントとの関わりである。今日でこそ、作家と出版社、エージェントの関係がしばしば話題となるが、本書で縷述されるとおり、ラテンアメリカ文学のブームは辣腕の出版関係者、エージェントの手によるところが大きい。文学賞や宣伝戦略といった作品の本質とはあまり関係をもたないとみなされている制度や手法をめぐって、きわめて巧妙な戦略がめぐらされ、本国ではなく旧大陸のスペイン、とりわけバルセロナの出版社やエージェントが深く関わっていた点が分析されている。驚くべきことに1970年前後、リョサとマルケス、ドノソは共にバルセロナに移り住んでおり、リョサとマルケスにいたっては1ブロック半の距離に居住して家族ぐるみの交友を続けていたという。1970年にアヴィニョン近郊で開かれたパーティーで今挙げた「ブームの五人組」は顔を揃えた。彼らが全員同じ場に集まったのはこの時だけであるという。かかる蜜月がヨーロッパを舞台としていたことは暗示的だ。腕利きのエージェントの売り込みがあったとはいえ、ラテンアメリカ文学が勃興するうえでは旧大陸の支持、具体的にはヨーロッパにおける出版社との関係が決定的に重要であった訳である。今触れたモダニズム文学との関係でいえば、フランスのヌーヴォーロマンに象徴される現代文学の貧血状態が明らかとなった1960年代にラテンアメリカ文学が注目された地政学的な意味も今後さらに検討されてよかろう。
 ひとまず歴史、空間、制度という面から本書について論じたが、本書はラテンアメリカ文学をめぐるエピソードの集積としても十分に楽しめる。あとがきによれば、本書は著者が大学のサバティカルでマドリードに滞在中、ラテンアメリカ文学のブームの当事者たちと親しく交わる経験をもとに構想されたものであり、確かに当事者でなければ知りえないエピソード、あるいはそれぞれの作家についてのかなり辛辣な月旦が随所に見受けられる。ラテンアメリカの作家たちの関係は常に良好であった訳ではない。ラテンアメリカ特有の軍事政権、独裁政権と作家たちとの関係は微妙な影をそれぞれの作家たちに落としている。ラテンアメリカでは多くの革命と反革命が発生した。チリの9・11、ピノチェットの軍事クーデターがドノソに、あるいはイザベル・アジェンデに与えた影響についてはそれぞれこのブログで論じた。CIAに後押しされたピノチェットの反革命に対しては等しく批判を加えた作家たちも、キューバにおけるカストロの革命の評価においては態度を違える。キューバ革命政府による詩人エベルト・パディージャの逮捕と弾圧に対して正面から批判を加えるバルガス=リョサ、なおも革命へのシンパシーを隠さぬマルケスの間には断絶が生じた。以前、やはり寺尾が翻訳し、このブログでも論じた「疎外と叛逆」の中でも触れられていたが、1976年にメキシコシティで開かれた映画の試写会の場において、リョサは笑顔で駆け寄ってきたマルケスを殴り倒す。ブームの終焉を画する事件であり、現在にいたるまでその原因は明らかにされていないが、キューバ革命についての評価が一因であることは間違いない。それにしても中上健次ならばともかく、ノーベル賞作家同士が殴り合うというマッチョな風景はラテンアメリカ文学ならではといえよう。
 この事件を境としてラテンアメリカ文学は次第に退潮する。マルケスをはじめ何人かの作家たちは政治化して、文学から離れてジャーナリズムや政治的発言へと接近し、多くの作家がこれ以後、回想録を執筆したこともかかる衰微の兆候と寺尾はみなしている。80年代以降も旺盛な執筆力を示すバルガス=リョサとフェンテスを除いて、ブームをかたちづくった作家にかつての勢いはない。そして21世紀に入ってラテンアメリカ文学を象徴する二人の巨人、マルケスとフェンテスが鬼籍に入ったことは知られているとおりだ。結果的に本書はラテンアメリカ文学をめぐる一種の盛衰史として読めなくもない。果たしてラテンアメリカ文学は20世紀文学の特異なエピソードして終わるのであろうか。「新世紀のラテンアメリカ小説」と題された最後の章で、寺尾は新しい才能としてチリのロベルト・ボラーニョについて論じる。2003年に50歳で早世したボラーニョについて寺尾はやや厳しい評価を下しており、まだポラーニョを読んだことのない私はこの判断の当否について論じる立場にない。ボラーニョを含めてこの章で論じられた作家について、私は近いうちに読んでみるつもりであるが、本書ではこのほかにも実に多くの作家、魅力的な作品についての言及がなされている。嬉しいことにはその多くは未訳である。ラテンアメリカ文学の豊かな鉱脈はまだしばらく尽きることはないことを確信しつつ本書を読み終えた。

by gravity97 | 2016-11-01 21:04 | 海外文学 | Comments(0)
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