カルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』

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 ブログの更新がこれほど滞ったのはこのブログを始めて以来ではないだろうか。もちろん本務に関連してかなりの量の原稿を執筆していたことも理由の一つであるが、まずは上の書影を見ていただきたい。ついに刊行されたカルロス・フェンテス『テラ・ノストラ』、1000頁を超える超大作の威容である。この小説については既に36年前に存在を知っていた。大学に入学直後、友人から勧められてガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ際の衝撃についてはこのブログにも何度か記したが、当時のラテンアメリカ文学のブームの渦中、篠田一士がおそらく朝日新聞に書いた記事の黄ばんだ切り抜きを私は未だに所持している。「フェンテスのような作家が、どうしていままで大きく紹介されなかったのか不思議でならない。まあ、いくつかの偶然が重なった結果だろうが、ラテンアメリカ独自の想像力のありかたを、このメキシコ作家ほど根源的につきつめたひとはいない。数年前に発表された『ワレラノ大地』は長大さもさることながら、歴史小説とSFを同時進行させた、その奇想天外の構想にはおどろくばかりである」それ以来、私はこの小説が訳出されることを心待ちにしていた。実際にフェンテスの小説は順調に翻訳されてきた。長編に限っても既に私は「脱皮」「アルテミオ・クルスの死」そして「遠い家族」という三つの小説を読んでいるし、いずれの作品も傑作と呼ぶことを私は躊躇しない。機会があればレヴューしたい名作揃いである。「テラ・ノストラ」の翻訳も進行中との話は仄聞していたから、店頭で本書を見た時は驚きこそなかったが、これほどの分量とは思わなかった。そして翻訳にとりかかってから10年の年月を閲したという訳者のあとがきも十分に理解できる濃密な内容だ。生きているうちにこの作品を日本語で読むことができたことをまずは感謝しなくてはならない。しかしながらこの小説は決して一筋縄ではいかない。このブログの読者であればおわかりのとおり、私は長編を好むし、小説を読むスピードは相当に速いと自負しているが、その私ですらほぼ二月の間、この小説と格闘した。おそらく本書は今年の読書体験の絶頂であり、私としてもこれほど読むことに膂力の必要な小説はプルースト以来だ。
 前置きが長くなった。テラ・ノストラ、我らの大地という小説は「旧世界」「新世界」「別世界」という三部から成り立つ。後述するとおり三部という構成にも重要な意味がある。旧世界とはいうまでもなくヨーロッパ、ハプスブルグ家に連なるスペイン王家、新世界とはアメリカ大陸、フェンテスの母国であるメキシコを意味し、第三部の別世界において舞台は再びヨーロッパに戻り、ローマ皇帝ティベリウス帝の治世から1999年12月31日という千年紀の終わりまで多様な物語が次々に挿入される。本書で扱われるのは空間としてはヨーロッパとイスパノアメリカ、時間としてはヨーロッパの全歴史という途方もない時空であり、ラテンアメリカ文学を代表する作家フェンテス畢生の大作と呼ぶゆえんである。
 この長大な小説の内容を要約することは意味がない。単純な要約を許さない反復と変奏が延々と繰り返されるからである。抽象的な比喩となるが、本書の読後感は文中で言及される鏡で出来た牢獄をめぐる体験に近い。いくつものストーリーが相互に乱反射するかのように少しずつ角度を変えて反復される。鏡の迷宮の中を歩むように次々に姿を変えて反復される物語の流れに身を任せることが本書の醍醐味である。決して読みやすい小説ではないが、この点を認識して、出来事の意味とか因果関係、あるいはメインストーリーを確定しようという試みを早い段階で放棄してしまえば本書を読む愉しみは格段に増す。しかしながら本書をレヴューする以上、内容について語らない訳にはいかない。本書は無数の断章によって構成されている。ひとまず冒頭の「肉、天球、セーヌのほとりの灰色の目」と題された断章で何が語られたかを確認しよう。場所はパリ、時代は特定されていないがおそらくは現代、世紀末的な情景の中で33日と半日前にセーヌ川の水が沸き立つという奇怪な現象が発生する。実はこの小説は円環構造をとっており、最後の章まで読み進むと、冒頭の章は1999年12月というまさに千年紀の終わりを舞台としていることが了解される。隻腕のサンドイッチマン、ポーロ・フェーボは真冬のパリを彷徨し、マダム・ザハリアという門番の老婆が出産する場面に立ち会い、赤ん坊を取り上げる。ポーロのもとには生まれた子にヨハンネス・アグリッパなる洗礼名を与えよという手紙がルドビーコという署名付きで届けられる。生まれた嬰児には背中に赤い十字の印があり、足にはいずれも六本の指があった。なんとも奇怪な冒頭である。しかし例えば33日と半日という単位、隻腕、六本の足指といった身体の特徴、アグリッパあるいはルドビーコといった固有名詞には全て意味があり、この長大な小説の中で幾度となく反復されたことが読み終えた今ならばわかる。冒頭の章と「最後の都市」と題された最後の章のみが1999年のパリを舞台としており、そのほかの章は16世紀のスペインとメキシコを主たる舞台としている。「セニョールの足元」と題された二番目の章以下で本書の中心的な登場人物が明らかとなる。セニョールと呼ばれるのはスペイン国王フィリペ二世、フィリペ二世は実在の人物でスペイン帝国の最盛期にヨーロッパに君臨した偉大な王である。セニョールの父はフランドル出身でハプスブルグ家の血統を引くフィリペ美王、母は狂女王フアナ、さらにセニョーラと呼ばれるイサベルはフィリペ二世の王妃であり、イギリス出身のイサベルはセニョールの従妹にあたる。ここにはハプスブルグ家における近親婚の歴史が暗示されている。宮廷でセニョールに傅く何人かの人物として、セニョールを補佐し、その命を実行する残忍な勢子頭グスマン、宮廷画家のフリアン修道士、占星術師のトリビオ修道士、さらに名前をもたない宮廷付の年代記作家。加えてドン・ファンやセレスティーナといったスペイン文学中で名高い人物。この小説には実在の人物と文学史上の人物、架空の人物が時に姿や名前を変えながら、入り乱れて登場する。
 どのような物語が語られるか。多くがグロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語である。領主たるフィリペ美王は領主権(初夜権のことだ)を行使して、鍛冶職人の婚礼に乱入し、花嫁を犯すように息子のフィリペ二世に命ずる。息子に拒絶されるや、フィリペは自ら花嫁の処女を奪う。セレスティーナという花嫁は自分が悪魔と交わったと感じて自傷行為に及ぶ。王妃フアナはフィリペの死体に防腐措置を施して霊柩車に乗せ、領地をめぐる。男色の罪で若者が生きたまま火あぶりに処される。グスマンが操る猛犬に襲われた狂女王は四肢を切断され、首と胴体だけの姿になって壁龕に身を置く。セニョールはグスマンに対してキリストの正統性に関する異端的な思想を語り、難破した船から現れた美しい若者がセニョーラと交わる。セニョーラは黒魔術を用いて先王たちの死体から人造人間を作り出そうとする。今任意に羅列したエピソードから理解されるとおり、なんとも不吉な物語が相互に折り重なる。時間の継起や因果律を無視して語られるそれらの物語に私たちは幻惑される。まさに無数の鏡によって乱反射する迷宮の中に迷い込んだ思いだ。さらに私たちを困惑させるのは語り手である。多くの物語は語り手が判然とせず、しばしば「そなた」という二人称が用いられることによって誰に向かって語られるかも定かではない。脈絡ないまま繰り返される物語の果て、第一部の末尾でセニョールの寝室に招き入れられた青年が新大陸における自らの体験を語る。彼が語る奇譚こそ第二部「新世界」であり、この部分は一人の話者による直線的な語りであるため、比較的読みやすい。青年はコロンブスを連想させるペドロという老人とともに大西洋を西に向かい、多くの苦難の後、新大陸へと漂着する。彼がメキシコに漂着したことは、現地におけるピラミッドと生贄をめぐるエピソードが暗示している。新世界はキリスト教と文明とは無縁であるが、黄金と財宝に恵まれた土地である。新大陸における青年の謎めいた体験の数々が第二部を構成する。奇怪な幻視に彩られた青年の語りは、彼が流れ着いた16世紀のメキシコと古代メキシコの記憶を往還する。ここでも通常の物語を律する時間性は棄絶されている。本書においては無数の物語が反復されることによって、直線的なクロノスの時間に代わる円環と反復の時間、カイロスの時間が導入される。つまり時間は一方向に流れるのではなく無限に反復するという発想だ。このような時間観が多くのラテンアメリカの小説にも共通する点は興味深い。「新世界」の物語を経て、第三部「別世界」において私たちは再びフィリペ二世の宮廷へと帰還する。新世界をめぐる青年の報告は公にされることなく、青年は国王が建設を進める大宮殿の地下牢に幽閉される。宮廷に集う者たち、「夢想家」たち、そしてドン・キホーテやポンティス・ピラト(キリストが磔刑に処された際の行政長官)といった文学上、歴史上の人物が次々に物語に召喚される。とりわけ秘書であるデオドールスを介して語られる第二代ローマ皇帝ティベリウス帝の性的放縦をめぐる描写は圧巻である。国連職員たちのドライブの悲劇的な結末を描いた『脱皮』にせよ、完璧なゴシック・ロマン『遠い家族』にせよ、これまで私はフェンテスの小説からどちらかといえば抽象的で知的な印象を受けてきた。これに対して本書ではグロテスクな性愛のイメージが横溢するエピソードに圧倒される。同様のグロテスク・リアリズムは本書の最後で全身に膿瘍を患い、文字通り血と膿の塊と化し、糞便と汗にまみれて絶命する主人公セニョールの描写に明らかだ。第三部においても時間に信を置くことはできない。ローマ皇帝に関する語りに続いて、現代のベトナム戦争を連想させる記述が続く。読者は自分たちが見知った時間とは全く異なった時間が作品を統べていることを知る。巻末にいたっては、マルケスやコルタサル、ドノソら同時代のラテンアメリカ作家が創造した人物たちも物語に参入し、メタフィクションとして本書の位置を画定する。世界は一度きりではない。世界は何度も反復される。明らかにこれが本書の一つのモティーフだ。唇にタトゥーを入れた小姓、聖痕をもつ青年、三十段の階段、手紙が封入されたボトル、物語の中でいくつもの同一モティーフが繰り返されることはかかる原理と関わっている。
 ほかにもいくつかのテーマが本書を通底している。例えば数秘学的な発想だ。この小説では至る所で三という数が繰り返される。海から救い出された三人の若者、フィリペ美王の三人の非嫡出子、作品が三部構成として実現されていることもこれと関わる。実際に「数字の三」と題された断章においては、宇宙が三という単位によって構成されていることが語られ、完全数としての三が主張される。一方で本書には随所に対立し対比される二というモティーフも認められる。例えばオシリスとイシス、カインとアベル、煙る鏡と羽毛の蛇、ロムルスとレムス、これらの二者においてはしばしば一方が一方を滅ぼす点にも留意されたい。私はこの小説は二性と三性の相剋としてとらえることができるように感じる。後で論じる通り、地理的には二元対立である「旧世界」と「新世界」に対して、あえて「別世界」というセクションが置かれたことはこの問題と関わっている。
 絵画において三という単位を取り込むのはトリプティク(三連画)である。上に掲げた通り、本書の装丁にはプラド美術館所蔵のヒエロムス・ボッシュのトリプティク《悦楽の園》が用いられている。フランドル出身のフィリペ美王と関わる物語の装丁とはまことにふさわしい。本書の中にはセニョールがこのトリプティクを仔細に見る場面が詳細に描かれ、ボッシュの署名さえ書き込まれている。今、確認したところこの作品はフィリペ二世が建造したエル・エスコリアル修道院のタペストリーのモデルに選ばれているから、現実の歴史においてもセニョールが目にした可能性は高い。祭壇画でありながらなんと奇怪なイメージか。ここに描き分けられた三つの情景、地上の楽園と悦楽の園、そして地獄はこの小説の主題とみごとに対応している。例えばここに描かれた性的な逸脱の情景はフィリペの宮廷やティベリウス帝の宮殿における乱倫の図解のようではないか。余談となるが、同じフランドルの画家たちは日本の小説家にも多くのインスピレーションを与えている。野間宏には冒頭でブリューゲルの絵画の不気味な情景が延々と描写される「暗い絵」があり、井上光晴もボッシュの「乾草の車」をタイトルに冠した中編を残している。小説の中ではボッシュの三連画とともにイタリアのオルヴィエート大聖堂からもたらされたフレスコ画について何度も言及される。あとがきによればこのフレスコ画とはルカ・シニョレッリによる一連の作品であるらしい。フランドルとイタリア、フェンテスはこの小説の中に旧世界、ヨーロッパの美術の絶頂を持ち込む。今、絵画の例を挙げたが、小説の中では唐突にカフカの「変身」の冒頭を反映した記述があるかと思えば、次の記述はどうだ。「セニョーラ、もし貴女が盲人の目が見えるようにと願うなら、雲が満月の縁にかかるその瞬間に、剃刀でもって連中の目を切り裂いてごらんなさい」この描写からルイス・ブニュエルの「アンダルシアの犬」を連想しないでいることは難しい。フェンテスは自らの博識を傾注して、美術、文学から映画にいたるヨーロッパ文化の精華を小説に投入する。いや文化のみならず、本書は哲学や宗教、本書はまず旧世界の価値観の百科全書、そしてそれへの批判として成立している。それでは旧世界の価値観が新世界に移入された時、いかなる事態が発生したか。私の考えではかかる問いこそがこの長大な小説の主題である。
 このような意識はメキシコ人として生を受けながら、外交官として父の仕事の関係でブラジル、アルゼンチン、アメリカを転々とし、ヨーロッパでも生活したコスモポリタンたる作家の、母国を外から見る姿勢と深く関わっている。ラテンアメリカの、メキシコの「歴史」はいつ成立したか。それは旧世界によって征服されることによってではなかったか。鏡の比喩はここでも有効だ。ラテンアメリカはヨーロッパという鏡をとおして初めて自分たちのアイデンティティーを確認した。しかしヨーロッパという鏡は実は血に塗れていたのではないか。「旧世界」におけるハプスブルグ家、ヨーロッパの王家の頂点を占めるスペイン王をめぐる無数の物語はいずれも一種、阿鼻叫喚とも呼ぶべき凄惨さを秘めていた。彼らが「新世界」に到達したとしても、そこに「別世界」は成立しただろうか。いや、そこではただ「旧世界」が反復されるのみであり、グロテスクで暴力的、残酷で不気味な物語が繰り返されたのではないか。新世界、旧世界、別世界の三者は成立せず、三者性は二者性に屈従する。グスマン、セニョールの残忍な勢子頭は功績を認められ、ヨーロッパで食いはぐれた無頼の徒たちを連れて新世界へ派遣される。グスマンがピサロやコルテスといった多くのコンキスタドールを象徴していることはいうまでもない。彼らが新世界で犯した残酷な所業はセニョールへの報告として間接的に語られる。先住民族への暴虐を主題とした小説としてはコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」についてこのブログでも論じた。同じ主題を扱いながらも「テラ・ノストラ」の新大陸が異なるのは、新大陸メキシコにおいてもインディオたちによって残酷な生贄供儀が繰り返されていた点だ。古代と現代が混交する(篠田であればSF的と呼ぶであろう)幻想的な筆致の中に再び反復というモティーフが立ち現れる。かくしてこの長大にして驚異的な小説は、進歩や啓蒙、教化や脱魔術といった旧大陸に由来する人間性への信頼を一挙に相対化する。それはメキシコという国家、メキシコ人という自分の出自への問いでもある。フェンテスには登場人物が自らのアイデンティティーを問う作品が多い。「脱皮」と「遠い家族」もまさにそのような小説であったが、本書は個別的な登場人物どころか、「新世界」たるラテンアメリカが自らのアイデンティティーを「旧世界」という血塗れの鏡に映し出す物語とはいえないだろうか。アイデンティティーの探求という主題はラテンアメリカ文学においても比較的異質であるように感じられる。その理由はフェンテスの個人的な資質、メキシコという場のいずれに求められるだろうか。この問題をさらに深めるために最後に一言付け加えておこう。大江健三郎、河原温、そしてルイス・ブニュエル、全く共通点をもたないこの三人の芸術家がメキシコ滞在を契機として一種のアイデンティティー・クライシスを主題にした代表作とも呼ぶべき作品を発表したことにはいかなる必然性があるのだろうか。
 暑い夏にふさわしいまことに過剰で濃密な読書体験であった。本書は上下二段組みで1000頁を超え、6000円という価格にもかかわらず、聞くところによれば、最近再版が決まったという。志のある出版社に志のある読者が応えたということであろうか。

by gravity97 | 2016-08-31 21:39 | 海外文学 | Comments(0)