スティーヴ・エリクソン『きみを夢見て』

b0138838_2153571.jpg 半年ほど前に翻訳が刊行された際に買い求めたものの、しばらく書棚に積んだままであったスティーヴ・エリクソンの2012年の作品『きみを夢見て』を通読する。私はエリクソンの小説をほぼ全て読んでいるが、本書は彼の作品の中でも指折りの傑作といってよかろう。物語の内容にも立ち入って論じ、私のレヴューとしては珍しく一種の種明かしさえ行うつもりであるから、白紙の状態で初読の楽しみを味わいたい読者にはこのブログを読む前にまず本書に目を通すことをお勧めする。
 エリクソンの小説において物語の構造は常に錯綜する。しかし本書は例えば以前このブログで扱った『エクスタシーの湖』ほど難解ではなく、メインとなるストーリーを見定めることは比較的容易だ。主人公はロスアンジェルスに住む作家のアレクザンダー・ノルドック(ザン)。ザンにはヴィヴという妻とパーカーという12歳の息子、そしてエチオピアの孤児院から養子として迎えたシバという4歳の娘がいる。解説によればロスアンジェルスに住んでいる作家という設定のみならず、アフリカから養子をもらい受けた点でもザンはエリクソン自身の投影であるという。単純化するならばこの小説はザン一家が味わう試練とその克服の物語であるが、例によって物語は多重化され、現実と虚構の境目はあいまいだ。例えば最初に出会う次のテクスト。「この男が当選したというニュースが流れると、リビングルームは大騒ぎになる。『勝ったよ!』とパーカーがソファから、白い合成樹脂塗装を施した、雲の形の低いテーブルを飛び越えて、喜びを爆発させる。『勝った!勝った!勝った!』と、叫び続ける。ヴィヴも拍手をしている。『ザン』と、パーカーは茫然としている父親の姿に戸惑い、呼びかける。『勝ったんだよ』と、息子。『うれしくないの?』」本書が出版された時期を思い起こすまでもない。名指しこそされないものの「この男」とはバラク・オバマのことであり、本書はオバマ大統領の登場を寿ぐきわめて具体的なエピソードから始まる。後で述べるとおり、この挿話は本書の主題と深く関わり、本書の結末と呼応している。読み進めるうちに絡み合ういくつもの主題系列が明らかとなる。例えば音楽だ。本書のタイトル「きみを夢見て」、These Dreams of You とはロック歌手ヴァン・モリスンの曲名からの借用であるらしい。主人公ザンは地元のラジオ局でディスクジョッキーを務め、シバは内部から異国の音楽を響かせる。プレスリー、ビートルズあるいはレイ・チャールズ、本書には多くのミュージシャンへの言及がある。あるいはザンがロンドンの大学で講じる一連の講義には「衰退に直面する文学形式としての小説」というタイトルが付されている。小説という形式にきわめて自覚的なエリクソンにとってこのタイトルが一種の自己言及性を秘めていることは明らかであり、本書は衰退する形式としての小説を蘇生する試みととらえることもできるだろう。
 もう少し詳しく内容をたどろう。オバマの挿話から明らかなとおり、物語の背景とされる時代は特定されている。かつては作品を発表したが今は定職をもたない小説家のザン、写真家として将来を嘱望されながら有名な作家に作品を剽窃されて以来、(作品についての記述から判断するに有名な作家とはデミアン・ハーストである)作品によって収入を得る道を断たれたヴィヴの夫婦は深刻な経済的問題を抱えている。クレジットカードはいつ失効するかもわからず、彼らが暮らす家も銀行の抵当として遠からず差し押さえられる運命にある。八方ふさがりの状況の中で、ザンの知り合いでヴィヴのかつての恋人からザンに対して、ロンドンでの短い教授職が提案され、家族はロンドンへの短期逗留を決める。かねてより養女たるシバの血統についての調査を続けていたヴィヴはそのために雇ったジャーナリストから調査の継続が困難であることを告げられ、この機会に自ら調査のためロンドンを経由してエチオピアに向かうことを決意する。物語は最初これら四人の家族をめぐる比較的オーソドックスな語りによって幕を開ける。ヴィヴと別れたザンはパーカーとシバという肌の色の違う二人の子供とともにロンドンで生活を始め、いくつもの奇妙な体験を重ねる。ヴィヴからの連絡は次第に途絶え、講義のためにベビーシッターを探していたザンのもとにはまるで待ち構えていたかのようにモリーなる若い黒人女性が現れる。ヴィヴの消息を求めてロンドンのエチオピア大使館に出かけたザンとパーカーのもとから、今度はモリーとシバが姿を消す。パーカーはPCの掲示板にヴィヴの映像を見出すが、なぜか彼女はエチオピアではなくベルリンにいた。いくつものストーリーが重ね合わされるにつれて、審級の異なった語りが紛れ込む。一つはザンが久しぶりに書き始めた小説だ。その小説とはXという男がスキンヘッドの若者たちに襲われ、半殺しの状態で放置されるという内容だ。倒れているXに黒人の少女が近づき、一冊のぼろぼろのペーパーバックを残して走り去る。そこに残された書物は1919年という時点ではまだ発行されていないにもかかわらず、20世紀文学の未来全体を宿した小説であることが物語の中で暗示される。おそらくそれはジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」であろう。この時、直ちにいくつかの暗合が浮かび上がる。「ユリシーズ」とはブルームという男がダブリンを彷徨する物語であったことを想起するならば、ロンドンをさまようザンとの共通性は明らかだ。そしてブルームの妻の愛称はモリーではなかっただろうか。しかし唐突に挿入されたザンの小説は小説内小説というほどの持続性をもたず、断ち切られたまま、ザン一家をめぐる物語の中に断続的に挿入される。一方、本書のおおよそ半分あたりからやはり唐突に別の物語が始まる。それはレッグとジャスミンというイギリス人カップルの物語であるが、二人はロンドンのパブでアメリカ人の青年と杯を交わす。アメリカ人は名指しされることがないが、前後の状況からおそらくはジョン・F・ケネディの弟のロバート・ケネディの若い頃であろうと推測される。ここにおいて本書がオバマの大統領就任のエピソードで始まる理由の一端が理解されよう。本書においては一つの家族をめぐるプライヴェイトな物語とアメリカという国家をめぐるそれが捩じり合わされている。ジャスミンはアメリカに渡り、ロバート・ケネディの選挙運動を手伝う。私も本書を読む過程で確認したのだが、ロバート・ケネディも兄と同様に暗殺されている。さらに同じ時代キング牧師も暗殺されたことを想起するならば、ジャスミンの物語はアメリカに暗殺の嵐が吹き荒れた1960年代後半を舞台にしていることが理解されよう。後にジャスミンはレコード会社で働き、多くのミュージシャンへの言及がなされる。ただし私がヴァン・モリスンを含めて言及されるミュージシャンについてあまりよく知らないこともあるかもしれないが、訳者があとがきで記すように本書を60年代から70年代にかけてのポップ・ミュージックへのオマージュとまでみなすのはいささか無理があるのではないか。この程度のポップ・ミュージックへの言及であれば作品の中で村上春樹が常に行っている。さて、ザンの一家とジャスミン、オバマとケネディの時代を隔てる物語は予想されたとおり、かなり屈折したかたちで結びついていく。ジャスミンが黒人女性であるという記述からジャスミンとモリーの関係を予想することはたやすい。ジャスミンとモリーの関係、そして彼女たちを巡る物語が、これまでに本書で語られた物語と時に必然的に、時にアクロバティックに結びついていく過程についてはここではあえて触れない。なぜならかかる照応、時に明示的、時に暗示的なそれを「テクスト的現実」の中に読み取っていくことこそ本書を、そしてエリクソンを読む醍醐味であるからだ。
 エリクソンの小説としては例外的に、本書には作家が得意とする幻視的なヴィジョンが描かれない。もちろんリムジンに向かって何度も衝突を繰り返すタクシー(本書の核となるイメージの一つだ)やアジスアベバの孤児院の風景など印象的な情景は存在するが、水没したロサンジェルス、凍りついたパリといった幻惑的で終末的なイメージは描かれることがない。ザンとパーカーの妻/母、娘/妹を探す旅をめぐる描写は比較的リアルである。しかし、物語のここかしこに挿入される無関係の物語が父と息子の探索のエピソードに一種の緊張を与える。今、探索という言葉を用いたが、本書には探索という主題が幾重にも張りめぐらされている。消え去ったヴィヴ、そしてシバを捜す旅はいうまでもなく、そもそもヴィヴの失踪の原因となったエチオピアへの旅行はシバの母親を探し出す目的で計画された。あるいはジャスミンも自らの父親を捜し、一枚の写真の中にそれを見出す。これらはすべて個人をめぐる探索の物語であるが、私はさらに大きな主題、つまり集合的無意識が自らを探索する物語として本書を読み替えることができないかと考えるのだ。回りくどい言い方はやめておこう。つまり本書は「アメリカ」が自己を探索する物語ではなかろうか。この物語がオバマ当選のエピソードで始められ、オバマへの期待が繰り返し語られる理由はそこにある。思い起こせば、エリクソンはいくつかの小説で大統領や大統領選をテーマとしている。『Xのアーチ』ではトマス・ジェファーソンと黒人女性の関係が描かれ、私は未読であるが『リープ・イヤー』は1996年の大統領選挙を取材して描かれたとのことである。本書においても暗示的な書きぶりでケネディ家の二人の大統領と大統領候補(ともに暗殺される)について執拗に言及される。今、「アメリカ」と記したが、ここで問題とされるのはもちろん国家としてのアメリカではない。言語や民族、人種を超えて形成される幻想の共同体としてのアメリカである。かかる超越的な存在は文学の主題としてまことにふさわしく、私はメルヴィルからエリクソンにいたるかかる系譜を「アメリカ文学」の中にたどってみたいという誘惑に駆られる。私の読みは次のとおりだ。先に無意識という言葉を用いたが、実は本書の語り手は「アメリカ」であり、本書で語られるのは「アメリカ」の無意識ではないか。本書に頻出するモティーフを並べてみよう。移民と暴力、移動と拝金主義、そしてポップ・ミュージック、これらはいずれも「アメリカ」的な主題とはいえないか。これらの主題それぞれを一巻のテーマとした小説のリストを作成することはたやすい。「アメリカ」の無意識としての「きみを夢見て」。それならば物語が錯綜し、頻繁に転換され、時に異なったレヴェルの物語が嵌入することの理由を形式ではなくて、物語の内容として説明することもできよう。そして私の推理は端的に本書の末尾からもたらされている。長くなるが感動的な一節を引用する。

 外から見れば、シバの夢はほんの一瞬にすぎないが、彼女は眠りながら、それが長い旅であることを理解している。船のへさきでバランスをとりながら、遠くからの歌を受信し、彼女を名付ける名前を求めて航海するのだ。その名前は、どこにも属さない人々のためのものであり、かつて人々が自分の所属する場所にちなんでつけていたように、まず自分の所属を探している人々のためのものであり、思い出せないが、忘れることのできない出来事を嘆きつづける悲しみのためのものである。少女と兄と母親と父親が船から岸に降りると、その名前は、楽園でも天国でもなく、ユートピアでも約束の地でもない。むしろ、ダメージを受けた名前である。かつて誰かがそれを最初に口にすると、すべての人を魅了したが、その後、それを汚して、ハイジャックして、搾取して、質を落として、中身のないものにして、その価値を見下しながらもその名前の響きだけを愛でている。とはいえ、その価値は、どうやっても否定できないものなのだ。(中略)いま娘と父親は、それと分からぬまま、その名前によって強く結ばれている。娘はその獰猛な核の中にその名前を宿し、一本指で喉を引き裂く仕草をしながら、その名前を守り抜く。その名前とはアメリカだ。

 ここでは一つの紐帯としてのアメリカが論じられている。国籍も人種も異なるシバを家族の一員として迎え入れることはザンとヴィヴにとって大きな決断であったはずだ。しかし彼らはかかる決断を下し、現実に対峙する。いうまでもなくアメリカもまたほかの民族、ほかの人種、ほかの言語を寛容とともに内部に迎え入れてきたし、オバマの登場はまさにその象徴であったといえよう。先にも述べたとおり、本書においてはザン一家と「アメリカ」が実に独特に照応している。ザンたちはロスアンジェルスに戻り、自宅が競売にかけられることを知る。最後に描かれる場面は自分たちの家から家財道具を運び出す家族たちの姿だ。しかし本書の結末にはエリクソンとしては珍しく希望がある。それは世界中に戦争をまき散らし、強欲なグローバリズムの起源であり、格差社会の極限であるアメリカにさえもなお希望が残されていることを作者が信じるからであり、それは冒頭で言及されるオバマの大統領就任という奇跡によってもたらされた希望であろう。
 オバマ大統領は先日来日し、広島で感動的なスピーチを行った。These Dreams of You のyouをオバマとみなすのはさすがに強引すぎるか。しかし今や、私たちはヒトラー並みの排外主義者がその後を襲う漠然とした危惧の中にいる。オバマが大統領に就任したのは2009年のことであった。それからわずか7年で世界はdream から nightmare に暗転するかもしれない。読了後の感動に一抹の不安が重なった。

09/11/2016追記 この悪夢は本日、現実のものとなった。エリクソンはどのような思いとともに本日の大統領選挙の結果を受け入れたのであろうか。

by gravity97 | 2016-06-04 21:09 | 海外文学 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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