「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」

b0138838_1616488.jpg 遅ればせながら、賛否分かれる話題の展覧会、東京都現代美術館における「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」を訪れた。なるほどいくつもの問題をはらんだ展覧会である。MOTアニュアルは1999年以来、若手を中心に現代美術を紹介する目的で開催され、毎回、テーマを設定している。今回はタイトルが示すとおり、「キセイノセイキ」がテーマである。カタカナで表記されている点は規制/規正、世紀/性器といった多重的な意味を暗示しているだろう。(出品作品に性的な暗喩を含んだ作品はほとんどないが、会期中に「ろくでなし子」事件の判決が出たことを記録に留めておきたい)後でも触れるとおり、この展覧会はテクスチュアルな参照を欠いており、4月中旬の刊行が予告されていたにもかかわらず、私が訪れた時点でもカタログは発行されていなかった。展覧会の趣意をフライヤーから引く。

 今の社会を見渡すと、インターネットを通して誰もが自由に声を発することができる一方で、大勢の価値観と異なる意見に対しては不寛容さが増しているように思われます。表現の現場においても、このひずみが生み出す摩擦はしばしば見受けられます。そうした中で、既存の価値観や社会規範を揺るがし問題提起を試みるアーティストの表現行為は今、社会や人々に対してどのような力を持ちえるでしょう。

 表現の現場における摩擦といえば、昨年同じ美術館で開かれた「ここはだれの場所?」における会田家の作品に対する自己「規制」問題が直ちに連想されようし、それであればこの事件と展覧会の関係が興味を引くところであるが、この問題についてはいかなるレヴェルでも触れられることはない。さらにこの展覧会は東京都現代美術館と「アーティスツ・ギルド」という組織との「協働企画」として企画されたとの文言があり、フライヤーの裏面には「アーティスツ・ギルド」についての簡単な説明が記されている。「AGはアーティスト自らが立ち上げた芸術支援の新しい可能性を模索する社会実験の一形態です。2009年に制作や展示における個々の経済負担の軽減を図るために映像機器の共有システムを立ち上げ、2013年に合同会社AGプロダクションを設立し、展覧会や関連イベントの映像記録を請け負っています。アーティスト個々のアプローチとはまた違う、会社組織としても芸術に関わっていくことを実践しています」とのことだ。アーティスツ・ギルドに所属する作家の多くがこの展覧会に出品しているらしいから、「協働企画」というのもわからないではないが、例えば作家の選択といった展示の根幹に関わる部分がどのように決定されたかよくわからない。私の持論であるが、展覧会においてカタログは決定的に重要である。展覧会はエフェメラルであるが、残されたカタログによって私たちは展示の意味を検証できるからだ。フライヤーによれば「展覧会公式カタログ」はtorch press という版元から刊行とのことだ。私の記憶ではこれまでMOTアニュアルのカタログは東京都現代美館によって発行されていたから、なぜ変更されたのであろうか。昨年、美術館の自己検閲問題を引き起こした「ここはだれの場所?」においても展覧会が開かれていた時期にカタログは刊行されず、先般カタログではなく「記録集」が発行された。この「記録集」は送料を負担すれば無料で頒布されるとのことであったから、私も早速取り寄せて読んでみた。これについてはここでは触れないが、なぜ美術館が主催した事業のカタログを自館で発行することができないのか。これらの展覧会におけるカタログの迷走については美術館側からなんらかの説明があってもよいのではないだろうか。
b0138838_1617589.jpg 最初からいくつかの批判を加えた。実際にこの展覧会に関して、これまでに目を通したレヴューは多く批判的であったが、私はこの展覧会が開催されたことを評価したい。この展覧会がどの時点で企画されたかはわからないが、昨年の検閲事件の後にあえてこのようなテーマを選んだことに企画者の問題意識を認めるからだ。結果的には相当ぶざまな内容となったかもしれないが、MOTアニュアルは特にテーマに制限を有していないから、もっと穏当で非政治的な主題を選ぶことも可能であったはずだ。実際に私の記憶の及ぶ限り、これまでこのアニュアル展で今回に類した主題が扱われたことはなかった。おそらく現場の学芸員の強い問題意識、さらにいえば危機感がこのようなテーマを導き出したのだろう。しかし私の得ている情報によれば、館の上層部、それも学芸サイドからの圧力によってかかる可能性は再び無残にも摘み取られてしまった模様だ。したがってここでは実現されなかったプランも含めて、この展覧会をその可能性のうちに検証したいと考える。
 まずは会場に並べられた作品を確認することから始めよう。カタログが存在しないため、すべての作品について詳細に記述することはできないし、私の記憶の誤りがあるかもしれないことを最初に申し添えておく。入口ではスミノフというウォッカを酒瓶に直接口をつけて飲み下す制服姿の女子高生の姿がプリントされた齋藤はぢめの作品が私たちを迎える。私はこの作家についてはほとんど知らないが、幕開けにふさわしい挑発的なイメージである。続けて展示された古屋誠一の作品を私は懐かしく感じた。(実は私は順路を間違えており、古屋の作品は展示の最後に位置する。確かにその方が展示の起承転結が明確だ)古屋の作品については、かつて作家の評伝と作品論が一体化された小林紀晴の『メモワール 写真家・古屋誠一との20年』について、このブログの「評伝・自伝」のカテゴリーで論じたことがある。是非そちらも参照していただきたいが、被写体は自死した妻のクリスティーネであると記せば、この展覧会の主題との関連性は明らかであろう。しかも今回展示された三点のうち一点は、投身自殺を遂げた直後のクリスティーネのポートレートなのである。若手でもないこの作家をあえて展示に加えた点に企画者の批評性が感じられる。続く藤井光のインスタレーションもきわめて批評的、自己言及的な展示である。会場には空のショーケースと空のガラスケースが並び、キャプションのみが添付されている。インターネット等で収集した情報によれば、このインスタレーションは東京大空襲の追悼と戦争の記憶の継承を目的に設立が計画されながらも戦時の加害記録の扱いをめぐって議会で紛糾し、現在にいたるまで凍結されている平和祈念館に収められるべき映像や戦災資料を文字通り不在として表象するものであるらしい。ただし会場の展示と掲示からかかる意味を読み取ることはかなり難しい。この展覧会に致命的に欠落しているのはテクスチュアルな補助である。カタログもない、作品に関する説明的な掲示もない。会場で配られていたA3一枚のハンドアウトにしても、私は受付で要求してようやく入手した。不親切というより、むしろ意図的な欠落であるようにさえ感じられるのだ。《爆撃の記憶》と題された藤井の作品の場合、今述べたとおり、ケース内には無数のキャプションが配置され、それによって来場者はそこに展示されるはずであった内容を推測するのであるが、会場で上映されていたそれらのキャプションを配置するボランティアたちの映像はこの作品にとってどのような意味があるのか私には理解できなかった。単に私が見落とした可能性もあるが、誰が、誰の指示によって、いかにしてキャプションを配置したかはこの作品の根幹に関わると思うのだが、十分な説明がなされていない。さらにこの会場に不在であったのは展示されるべき資料、あるいは作品についての解説のみではなかった。なんと展示されるべき作品もまた美術館側の自己「規制」、端的に検閲の結果、館外へと追放されていたのだ。排除されたのは小泉明郎の《空気》という作品だ。小泉はこの展覧会に《空気》と《オーラルヒストリー》という二つの作品を出品する予定であった。20世紀前半に東アジアでどのような事件が起きたかを問われた人々が、口々に応答する様子(口元のみが撮影されているため話者を同定することはできない)を記録した後者は確かに会場で上映されていた。しかし前者は配布された「作品解説」の中にタイトルも示されているにもかかわらず会場には存在せず、確かキャプションのみにスポットライトが当てられていたように記憶する。しかし幸いにも私は当初展示が予定されていた《空気》を別の会場で見ることができた。この作品、そして美術館による検閲は本展の本質と深く関わるから、後で詳しく触れることとして、ひとまず会場めぐりを続けよう。続く小部屋には明治期から第二次大戦にいたるまで「内務省警保局」が編集した「禁止単行本目録」が置かれている。規制や検閲とかかわる内容であるとはいえ、私の見た限りではこれらの資料にも説明がなかったから、なぜこれらの資料がここに配置されているのか理解できない。これらの資料から私はかつて森村泰昌がディレクターを務めた横浜トリエンナーレにおいて展示されていた、戦時中の一連の翼賛的な書籍を連想した。横浜の場合、それは本来存在してはならない書物という意味で「華氏451度」という展示のテーマとみごとに呼応していたが、今回、これらの資料はあまりにも唐突に出現し、意味不明であった。橋本聡の展示は自らのパフォーマンスの記録と来場者にアクションを促す一連のインストラクションによって構成されている。例えば角材を倒す、光を反射させるといったインストラクションが時折来場者によって実行されていたが、何かに切りつけよというインストラクションとともに壁に設置された出刃包丁は、来場者の安全に配慮してという美術館側のコメントとともにアクリルの箱に密封され、室内を仕切る金網のフェンスの傍らにはそれを乗り越えるにように唆すインストラクションとやはり「安全のために」乗り越えることを禁止する美術館による警告がともに傍らに掲出されている。いずれもダブルバインド的な状況が生み出されているのであるが、私はこの状況は作家と美術館のなれ合いのようにしか感じられなかった。そもそもこれらのインストラクションは既視感が強く、ヨーコ・オノ、マリーナ・アブラモヴィッチ、エイドリアン・パイパーらの作品が直ちに連想される(ここで名前を挙げた作家がすべて女性である点は暗示的である)。作家は自らが示したインストラクションが美術館側に拒否された時点ですべての作品を撤去すべきではなかったか。インストラクションの必然性というか真剣味が感じられないのだ。このタイプの作品にとって作家の態度は死活的に重要なはずだ。一方で美術館側も「安全」という誰もが批判できない理由によって作家の提案を一方的に拒絶しつつ、わざとらしい警告を掲示して作家の意図を不十分ながら反映させたというポーズをとっている。美術館の側に作家の提案を真剣に検討した形跡はなく、アリバイの捏造に汲々としているが、作家の側もかかる中途半端な展示で満足している。いずれにもプロフェッショナリズムが欠落している。横田徹の作品は私たちが中立的とみなしている映像の恣意性を露呈させて興味深かった、すなわちパレスチナやアフガン戦争、リビア内戦といった、今日生々しい暴力が露呈する地域の映像を映示しながら、横田はそこにいくつかの検閲のレヴェルを設ける。すなわち中学生向けと高校生向けという二つのブースを設えて、教師たちのアドバイスに従って中学生でもアクセスできる映像と高校生であればアクセスしてよい映像を対比する。結果として、中学生向けのブースではそれらの地域で人々が日常的に触れる多くの情景、すなわち、武器の使用、爆発、戦闘や負傷者のイメージは検閲されて映示されない。高校生のブースではこの基準は緩和されている。いうまでもなくここにおけるスクリーニングはきわめて恣意的である。そして私たちは同様の映像のスクリーニングが現実においても遂行されているであろうことに気づく。映画におけるR18指定はわかりやすい例であるが、私たちが通常の報道において目にする事実も検閲を介して私たちに届けられる。この点においても先に言及した2014年の横浜トリエンナーレの主題はこの展覧会と密接に関連している。そして美術館における展示もまたこのようなスクリーニング、検閲の結果、許された範囲における展示でしかないことを先に触れた小泉や橋本の作品はまさに身をもって明らかにしている。中学生に死体を見せてはならない。それでは死者を撮影することは許されるかという問いは冒頭(実は展示の最後の)古屋の作品へと回帰する。
 すべての作品に触れることができなかったが、ひとまず私たちはこの展覧会に出品されている主な作品について論じた。しかし展示はこれで終わりではない。この展覧会が現実に「規制」した作品を確認するため、私たちは美術館から歩いて10分ほどの距離にある無人島プロダクションのギャラリーで開催されている「空気展」に向かおう。この展示が実現にいたった経緯はわからないが、会期は4月29日から5月15日までであるから「キセイノセイキ」と重なる日数はさほど多くない。私にとって二つの展示を訪れ、美術館が排除した作品を実見することができたのは幸運であった。思わせぶりな書き方は嫌いだから《空気》とはいかなる作品か端的に説明しよう。それは天皇の不在による天皇の表象だ。園遊会や被災地の訪問、明らかに天皇が臨在する場を再現しながらも天皇の姿のみがかき消された一連の集団ポートレートはきわめて興味深い問題を提起する。常に中心に存在しながら不可視化された存在は現実における天皇を暗示しているかのようだ。修辞に黙説法(レティサンス)という技法がある。あえて語らないことによって語られない対象を意識させ、強調する手法であり、ここでは当然画面の中心にいるはずの天皇が存在しないことによってかえって際立つというかなり高度な表現である。もし美術館による検閲がなかった場合、この作品は先に触れた《オーラルヒストリー》という映像作品の傍らに並べられていたはずだ。そして二つの作品の対比はこれらの作品の意味を理解するうえで重要であろう。《空気》が対象の不在によって特徴づけられるのに対して、20世紀前半のアジアについての具体的な言及を促す《オーラルヒストリー》は匿名の証言者の存在を前提としている。視覚的不在の前者と聴覚的存在の後者を対比してもよかろう。いうまでもなく20世紀前半のアジアにおいて昭和天皇裕仁は暴力の起源であった。現天皇明仁による園遊会における慰労、避難所における慰撫との対照は明らかであり、《オーラルヒストリー》の中でしばしば繰り返される国家主義的で攻撃的な言葉(このため同じ作品が韓国で発表された際には「検閲」があったと聞く)と不在の対象を取り囲む、時に和やかな、時に感謝に満ちた家族主義的な情景もまた対照的だ。二つの作品の間にかかる対立はいくつも組織することができようし、隠喩と換喩といった記号論的な観点からの分析も可能であろう。しかしいうまでもなくそれは私がたまたま二つの作品を異なった会場で見ることができる時期に美術館を訪ねたからであり、この作品を追放した「キセイノセイキ」の会場ではかかる思考が触発されることはない。美術館自らが作品の意味を破壊しているのだ。「空気展」の会場には作品の検閲をめぐる経緯についての小泉自身のコメントがテクストとして置かれていた。まさか現代美術館のスタッフを慮ってではなかろうが、会場閲覧用しか準備されておらず、持ち帰り可能なハンドアウトが配布されていなかった点は不審に思われた。私の見落としかもしれないが、今のところインターネット上でも作家のコメントを読むことはできないようだ。それを読めば、かかる検閲は行政的あるいは官僚的な判断ではなく、学芸課長によってなされ、おそらくは担当学芸員が作家と美術館の板挟みとなって苦労したことが理解できるからだ。そもそも無人島プロダクションに展示されていた作品は、美術館が検閲しなければならないほどの過激な政治性を有しているだろうか。この展覧会に出品するにあたって小泉が周到な戦略を立てたことは明らかであり、それゆえ視覚的黙説法と複数の語りという対比が意図的に採用されたのである。天皇は表象されず、暴力は視覚化されていない。私は学芸員たちが理論武装すれば、たとえ外部からの攻撃があったとしても展示室で《空気》の展示を続行することができたと考えるし、それだけの深みを備えた作品であるように感じた。それは美術館の義務であり、同様の事例に際して学芸員が職を辞したことは欧米ではいくらでもあったと記憶している。美術館の撤去要請に対して、作家が拒絶するというケース、例えば昨年の会田家のような事案であればまだ理解できる。今回のように美術館の側がなにものかの意志を忖度し(一体何を恐れたのだろう)、作品の展示を「自粛」するという事例はスキャンダル以外のなにものでもなく、戦争に向かうこの国にふさわしいエピソードである。私が訪ねた時、同じ美術館ではピクサーというアニメーション・スタジオの展覧会が同時に開催され、入場待ち2時間以上というとんでもない行列ができていた。大量動員をもくろんで外部から持ち込まれた企画が隆盛する一方で、学芸員が真摯に企画した展示からは要となる作品が学芸責任者の手によって撤去される。まことに今日の美術館の退廃を象徴する風景といえよう。

追記 28/5/16
ブログの中で私は橋本聡の作品にどちらかといえば批判的に言及したが、今回の展示をめぐっては展示されている作品とは別に以下のような葛藤があったことを知った。私が微温的とコメントした今回の橋本の作品は以下のような経緯を含めてその意味を問われるべきであると考えるので、あらためて追記しておきたい。
http://xxxmot.artists-guild.net/aida/
by gravity97 | 2016-05-22 16:32 | 展覧会 | Comments(0)

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by クリティック