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Living Well Is the Best Revenge

ラリー・コリンズ&ドミニク・ラピエール『パリは燃えているか?』

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 新版として文庫で再刊されたことを契機にラリー・コリンズとドミニク・ラピエールの『パリは燃えているか?』を通読する。第二次世界大戦末期、連合軍によるパリ解放をめぐる経緯を描いたノンフィクションである。決して読みにくい訳ではないが、あまりにも多くの人物が登場し、抑揚を欠くためであろうか、読み終えるまでに思いがけず時間がかかり、レヴューが遅れた。
 「脅威」「闘争」「解放」の三部から成る本書の主題は第二次大戦末期、パリをめぐる攻防である。タイトルの「パリは燃えているか?」とは連合国がパリに進攻したと聞いたヒトラーが当時ドイツ国防軍最高司令部の置かれていたラステンブルグの掩蔽壕の中で参謀総長に発した問いだ。ヒトラーはパリの占領を司る司令官に、もしパリが敵の手に渡るようなことがあればパリの市街をことごとく破壊して廃墟にせよと命じていた。ヒトラーの厳命は果たして実行されたのか。私たちは答えを知っている。凱旋門もエッフェル塔もルーブルも、パリは大戦以前の風景を今日に伝えているから、ヒトラーの命令は実行されなかった。しかしパリが一時は戦場となりながら、どのような経緯を経て、あるいはいかなる関係者の努力によってその姿を今日まで長らえることとなったか、私は本書を読んで初めて知った。ヒロシマや東京、あるいはドレスデンやスターリングラード、第二次大戦中に爆撃や市街戦によって廃墟となった都市はいくつも存在し、現在でも中東ではISや多国籍軍の手によっていくつもの都市が廃墟へと転じている。ヒトラーの命令の有無を問わず、戦時とりわけ戦争の末期にあってはいかなる都市も焦土戦術によって破壊される可能性があった。パリはいかにしてそのような運命を逃れたのか。
 本書を通読すると1944年8月後半、パリ解放にいたるおおよその流れが理解できる。パリも決して無傷ではなかった。それどころか1944年8月19日、パリ各地で共産主義者レジスタンスを中心とした大規模な暴動が発生する。第二部の「戦闘」とはこの暴動を指す。これに対してヒトラーは「暴動の兆候を初期のうちにつみとるためには、一区域家屋の破壊、暴徒の公開処刑、反乱の怖れある市区の住民の強制疎開など、もっとも精力的な戦術によって対処せよ」と命じる。しかしこの直後、ほとんど奇跡のようなタイミングで連合軍がパリに進軍したことによって、かろうじてパリは虐殺と破壊から免れたのである。暴動の発生から連合軍の入市までわずか一週間足らずの間の出来事であり、何かの手順が狂っていたら、私たちはパリの歴史的史跡や由緒ある建築、そして美術館に収められていた名画の数々を永遠に失っていたかもしれない。
 第一部「脅威」では蜂起の前夜、パリが置かれていた状況が描かれる。既に連合軍はノルマンディーに上陸し、パリへの進撃が予想されていた。しかしドイツ軍の長期の占領によって市民生活には多くの支障が生じ、市民の間ではレジスタンス運動が組織されていた。当時アルジェに亡命政府を樹立していたドゴールはヴィシー傀儡政権を打倒し自らが再びフランスの大統領に復帰するために、迅速なパリへの進攻、そしてパリ解放を連合軍に要請する。しかしアイゼンハワー将軍は連合軍がパリに入った場合、膨大な食料やガソリンを市民たちに供給する必要が生じ、以後の戦略に影響を与えるとして、パリを迂回する戦略を採った。パリにおける抵抗勢力も決して一枚岩ではない。それどころかドゴール派と共産主義者たちは、戦争が終結した後の主導権を握るべく占領下で暗闘を繰り返していた。共産主義者たちの暴動がドイツ軍にパリを破壊する口実を与えることを危惧するドゴールはアルジェから市内のドゴール派レジスタンスに秘密指令を送る。一方、パリ市内の三つの刑務所に収容された政治犯たちの運命はドイツ国防軍の手に委ねられていた。鉄道を利用して彼らをドイツへと移送し、政治犯の収容所へ入れる計画を進められ、パリで銃殺されるか、ドイツの収容所に送られるか、政治犯たちは不安の中で懊悩する。この時期、ドイツ国防軍においてパリ大司令官に抜擢されたのはディートリッヒ・フォン・コルティッツ将軍であった。軍人の名門の家庭に育ったコルティッツは国防軍の信任も厚かった。しかも彼にとって退却戦は最初の経験ではなく、かつて黒海沿岸のセヴァストポリを攻略した際には撤退後、都市を焦土化する作戦に従事したことがあったのだ。コルティッツはラステンブルグでヒトラーから直接に命令を受けるが、度重なる暗殺未遂で人間不信に陥った総統に狂気の徴候を認め(このあたりの事情を私は最近、「ワルキューレ」という映画でつぶさに知った)、あるいは帝国指導員という地位にある党員から近く施行される「親族連座法」という法律について説明され、ドイツという国家自体も狂気に冒されていることを知る。
 通常、戦争を主題としたノンフィクションであれば、戦争に関する意思決定に関わった人物を中心に語られる。しかし本書において二人の著者は膨大な数の人々にインタビューを行い、多くのエピソードを連ねていく。本書の最大の特色は無名の兵士や市民の無数の声を取り込むことによって、パリ解放という歴史的事件を一つの巨大なタピストリーとして紡いでいくことにあるだろう。もちろんコルティッツのごとき重要な人物に関しては繰り返しその動静が語られる。しかし赤痢のために収容所で死ぬ女囚、列車で移送される夫を自転車で追いかける妻、自由フランス軍に合流すると言い残して何年もの間行方知れずとなる夫といった市井の市民のエピソード、無数の悲喜劇が重ねられることによって一つの時代の姿がくっきりと浮かび上がる。その中にはドイツ軍によって撃墜され、フランスのレジスタンスによって匿われたアメリカ人のパイロットや、まもなくパリが解放されるだろうと予言した謎の美女、さらには従軍記者としてパリ一番乗りを目指す若き日のヘミングウェイといった魅力的なエピソードも随所に挿入される。
 第一部に印象的な場面がある。コルティッツはヒトラーの命を受けて、必要があればパリを破壊すべく、大量の爆薬を市内各所に仕掛ける指示を与える。これに対してヴィシー政権下でのパリ市長シャルル・テタンジェはコルティッツを美しいチュイルリー公園を見晴らすバルコニーに誘い出し、アンヴァリッド、ルーブルそしてコンコルド広場に到るパリの絶景を前に、コルティッツが破壊しようとすればできたのに、人類のためにこれらの景観を保存したとすれば、それは征服者にとって無上の光栄ではないかと説く。これに対してコルティッツはテタンジェが市長としてパリを守ろうとしたように、自分も必要があればドイツ将軍としての義務を果たさねばならないと返した。本書のテーマが凝縮されたがごとき箇所であるが、この場面については最後でもう一度立ち戻ることとしよう。
 めまぐるしく視点を変えながら占領下に置かれたパリの状況を概観する第一部に続き、第二部では7月19日、共産主義者の蜂起によって、レジスタンスとドイツ軍の市街戦の舞台となったパリが描かれる。レジスタンスの抵抗は激しいが、パリは占領下にある。最終的にはドイツ軍が勝利し、市民が虐殺されるおそれがあった。実際にこの半月ほど前に同様の蜂起が発生したワルシャワでは赤軍が市民たちを見殺しにしたため、ヒトラーの指示によってレジスタンスたちは虐殺され、市街は徹底的に破壊されていた。私は初めて知ったがパリを救う上で大きな役割を果たしたのは中立国であるスウェーデンの総領事ラウール・ノルドリンクという人物であった。彼は中立国という立場を利用してコルティッツとレジスタンスの双方に働きかけて、一時的な休戦をもたらした。休戦には重要な意味があった。なぜならレジスタンスの抵抗の拠点であったパリ警視庁に対して、コルティッツはその翌朝、空軍による爆撃を考えていたが、パリ警視庁たるやノートルダム寺院やサント・シャペル寺院からわずか数百メートルしか離れていなかった。パリの中心が空爆されるという最悪の事態はかろうじて回避され、籠城するレジスタンスたちの命も救われた。
 蜂起の勃発に伴い、状況は加速する。ドゴールはイギリスを経由した命がけの飛行の末、フランスに帰還する。120秒分の燃料を残してノルマンディーに着陸したドゴールが身繕いするために一枚の剃刀の替刃を同行者たちと共有したというエピソードは著者たちの綿密な調査を裏付けている。ドゴール派と共産主義者は蜂起の是非をめぐって意見を違えるが、蜂起が発生した以上、ドイツ軍による弾圧と虐殺を防ぐためには連合軍の迅速なパリ入城を促すしかない。複雑な任務を担った情報員がドイツ軍の警戒をかいくぐって連合軍と接触をとるために密かに出発する。コルティッツは暴動に関する情報をヒトラーにあえて小出しにするが、ヒトラーからは8月23日に第772989命令が伝達される。そこにはパリをなんとしても死守せよという命令とともに「セーヌ川にかかっているパリ地区の架橋の破壊を準備せよ。もし、敵の手中に渡すときには、パリは廃墟となっていなければならぬ」という指示が書き込まれていた。このノンフィクションを執筆するために著者たちはコルティッツに対して10日間にわたるインタビューを試みたとのことであるが、なぜか本書にはコルティッツの内面に踏み込んだ描写が少なく、彼の思いを追うことは難しい。おそらくある時点でコルティッツはパリを破壊しないことを決意したのであろう。軍人としての義務とこの決意は折り合わない。コルティッツにとっても唯一の解決策は自らが破壊命令を下す以前に連合軍がパリに入ることであった。コルティッツはノルドリンクに対してパリへの進軍を促すべく、連合軍やドゴールのもとに密使を送ることを提案する。ドイツの警戒網を突破できるようにコルティッツの名による通行許可書を与えられた各国の情報部員たちが、お互いか何者か知らぬまま目的地へと向かう情景は映画の一シーンのようだ。
 情報員や密使たちの働きによって連合軍は最初の方針を変えてパリへ進軍し、ぎりぎりのタイミングでパリを解放する。もちろんなお圧倒的なドイツ国防軍が駐留しているから、部分的な戦闘は引き続き、「解放」と題された第三部においても戦闘の記述が絶えることはない。本格的な市街戦が繰り広げられ、戦車同士が交戦する。しかし戦闘の傍ら、街のあちこちで「ラ・マルセイエーズ」が歌われ、解放を告げる教会の鐘が街中に鳴り響く情景は感動的だ。コルティッツはフランスの正規軍に降伏し、ドイツ国防軍に戦闘の終結を宣言する。次々にパリに入って来るアメリカ兵たちをパリジャンとパリジャンヌは熱狂的に受け入れる一方で投降した占領者たちに対しては容赦ない。そして市民たちの怒りは対独協力者にも向けられた。ドイツの兵士たちが捕虜としてフランスの正規軍によって保護されたのに対し、ドイツ兵と親密な関係にあった娘たちが上半身を裸にされ、頭を剃られ、首にプラカードを吊されてさらし者にされ、ドイツ軍と無関係な多くの市民が誤解や密告の結果、無残にも殺された。パリ解放の裏面史と呼ぶべきこのような情景を、私は例えばクロード・ルルーシュの「愛と哀しみのボレロ」あるいは先日レヴューしたロレンス・ダレルの『コンスタンス』によって知っている。連合軍の到来によってパリが解放された後、政敵たちを圧したドゴールが再び民衆の前に姿を現した場面で本書はひとまず幕を閉じる。
 パリが破壊を免れたことによって多くの人命が救われたことはいうまでもない。しかしそれだけではない。パリの建築が残されたのだ。建築とは単なる景観ではない。それは端的に都市の記憶ではないか。テタンジェがチェイルリー宮からパリの美しい景観を一望しつつ、コルティッツに都市の破壊を思いとどまるように説得する場面は象徴的である。最近私は五十嵐太郎の『忘却しない建築』という著作を読んだ。奇しくもこの小説(正確には本書が映画化された「パリよ、永遠に」)に触れて五十嵐は次のように語る。「街は誰のものか。歴史の層を積み重ねてきた街は、おそらく今生きている我々だけのものではない。目に見えるものだけでなく、過去に存在してきた人々の歴史的なエピソードを含め、都市は膨大な記憶の容器である。これを破壊することは、物理的な『モノ』の消去を超え、もっと大きな禍根を将来に残すだろう」五十嵐のテクストは直接には東日本大震災を主題としているが、都市が記憶の容器であるという発想には深く同意する。ナチス、そしてヒトラーの政策は広く記憶の絶滅と関わっていたのではなかろうか。一つの民族を根絶するという発想と一つの都市を破壊するという発想は記憶の根絶という点で共通している。そしておそらくパリがかかる暴虐から免れた理由は、結果的にパリが大規模な空襲を経験しなかったことと深く関わっているだろう。実際にコルティッツのもとには共産主義者たちの蜂起の拠点であった警視庁を空爆せよという要請、さらには夜間、パリの北東地区全域に波状爆撃を行って一挙に壊滅させ、「夜が明けた時には犬一匹、猫一匹、パリの北東地区は生きていない」状況を作り出すという提案もなされたのである。結果的にコルティッツはこれらの要求を認めなかった。戦略爆撃とは攻撃を加える側と受ける側の著しい非対称性に特徴をもつ。加害者は反撃を受ける可能性のない場所から一方的に他者を蹂躙する。そこに被害者への想像力が働く余地はない。本書には戦車による市街戦、つまり地上戦についての言及はしばしば認められる。兵士が固有名をもつ地上戦は個人へのインタビューによって記録することができる。しかし匿名化された空爆という体験は個人のレヴェルでは検証できないのではなかろうか。先に私は第二次大戦中に破壊された都市の名を列挙した。このうちヒロシマ、東京、ドレスデンはいずれも空爆によって壊滅した。被爆、空襲、空爆については被害を受けた側の記録―文学、ノンフィクションを問わず―は存在しても、加害者側の記録は存在しない。そしてこのような非対称的な戦闘の最新版がドローンによる無差別攻撃であることはいうまでもない。
 本書のタイトルは暗示的である。このノンフィクションは一つの都市がヒトラーという稀代の記憶破壊者から解放された記録と考えることができるかもしれない。アドルノを引くまでもなく、同じナチスによる絶滅収容所においてはバッハを聴き、ゲーテを読むインテリたちがユダヤ人を虐殺することになんら痛痒を感じなかった。これに対して、パリという都市の文化的蓄積、建築という記憶が少なくともコルティッツという司令官の琴線に触れて、焦土戦術も辞さないと述べた軍人に人間的な反省の機会を与えたのではなかっただろうか。コルティッツが戦後どのような処遇を受けたかについて本書には記されていないが、回顧録を出したという記述からはおそらく戦争犯罪を厳しく問われることはなかったと予想されるし、そもそも本書の巻末には8月28日付で西部軍総司令官からヒトラーに送られたコルティッツの訴追書が掲げられているが、その中ではコルティッツがパリ防衛司令官としての責任を果たさなかったとして弾劾されていた。
 私がコリンズとラピエールの共著を読んだのは実は二冊目だ。ずいぶん以前に『第五の騎手』というフィクションを読んだ覚えがある。この小説はリビアのカダフィ大佐がニューヨークに核爆弾を仕掛けてアメリカを脅迫するというスリリングなサスペンスであったが、いずれの著作も都市の破壊という問題と関わっていることに今気づいた。最初にも触れたとおり、今日でもISと多国籍軍は空爆そして地上からの攻撃によって都市と建築、すなわち記憶の破壊を継続し、近未来において核兵器によるテロが発生する懸念さえ表明されている。兵器による都市の破壊という主題は決して過去に属していない。それは現在であり、おそらくは未来においても繰り返されるだろう。
by gravity97 | 2016-04-07 10:08 | ノンフィクション | Comments(0)