「エッケ・ホモ 現代の人間像を見よ」

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 何度か関西に出張する機会があったので、私は先日閉幕したこの展覧会を二度見た。刺激的な展示ではあったが、一度見ただけではよくわからない印象を受けたことが一つの理由である。二度通覧することによって、ある程度私なりに理解することができたようにも感じるのでひとまずレヴューとして記録に留めたい。
 テマティックな展覧会はいかなる作品を選択し、いかに配置するかという問題と関わっている。The Human Images of Contemporary Art という総花的なサブタイトルをもつこの展覧会にとってもこれら二つの問題はその根幹に関わる。特別展とはいえ、作品リストを参照する限り、国立国際美術館の所蔵作品が大半を占めているから、まず作品の選択という点においてある程度の制限があったことが想像される。もっとも所蔵品を中心としてテマティックな展覧会を構成することは、展覧会予算の逼迫への対応として最近しばしばなされていることである。国立館であれば借用した作品を中心に展示を構成するくらいの余裕はあるだろうと嫌味の一つも言いたくなるが、特に驚くことでもない。おそらくこの展覧会の困難の最大の理由は人体表現という、あまりにも美術と密着したテーマを中心に据えたことに求められるだろう。もちろん「現代の人間像」であるから、古典主義や理想主義が描いた「人間像」が展開されるはずはなく、ひたすらおぞましい人間像が提示される訳であるが、人間という汎用性の高いテーマが取り上げられたため、選び方も分類、つまりその配置も恣意的に感じられるのだ。カタログで確認するならば、この展覧会は三部構成をとり、それぞれ「日常の悲惨」「肉体のリアル」「不在の肖像」というタイトルを付されている。第二次大戦直後に制作された作品を中心に戦争という惨禍が人間の身体を物質化/物体化する状況を描いた「日常の悲惨」のセクション、作品を通して直接間接に血液や傷、内臓などを露呈させて文字通り「肉体のリアル」を造形するセクション、肉体を不在において表象する「不在の肖像」のセクション。企画者の問題意識はわからないではないが、例えば工藤哲巳の作品が「肉体のリアル」で塩田千春の傍らに、ウォーホルの作品が「不在の肖像」でトーマス・ルフの横に展示されていたとしてもおそらく異和感はない。人間像あるいは身体というテーマが漠然としているためである。もちろん私はここで、テーマに異を唱えている訳でもないし、作品の選択と配置の妥当性をいちいち点検するつもりもない。ひとまず括られたテーマに沿って多様な作品を楽しむのが、テマティックな展覧会の大人の楽しみ方なのだ。ただし今挙げた三つのテーマについてもう少し詳しい説明があってもよかった気がする。カタログには二つのテクストが収められているが、一つは小谷元彦とジャコメッティの作品を比較する各論的な内容であり、もう一つの「予兆と反転―現代の人間像は、見えない」と題された、タイトルからもおそらくは総論にあたるテクストにおいては「ゼロ地点へ―人間像を解体する」、「ゼロ地点から―人間像を再構築する」「不可視の人間像」という三つの章が設けられている。それぞれ展覧会の三つのセクションに対応していると思われるが、比較的短いテクストであることもあり、テクストと章立ての対応を理解することは難しい。このような緩さを勘案するならば、これから述べるようにこの展覧会を私なりの問題意識に即して読み取ることも許されるだろう。今回のレヴューにおいては展覧会そのものに対する批評というより、そこに並べられた作品に触発されて、「現代の人間像」について私がめぐらした思考を書き留めておきたい。
 サブタイトルに「人間像」とある。実はこのサブタイトルによってこの展覧会から一群の作品が排除されたことが暗示されている。私はテマティックな展覧会においてはいかなる作品を選択したかという点以上に、いかなる作品を選択しなかったかという点が重要であると感じるのであるが、「現代の人間」ではなく「現代の人間像」と記すことによって、企画者は本展の主題とされる作品が、「人間」を表象したなんらかの「像」であることを暗黙裡のうちに示している。つまり「人間」は一度、「像」へと変換されなければならない。この点は私が本展を見ておおいに疑問に感じた問題への回答でもある。つまり本展には抽象的な作品がほとんど出品されていない。私は「現代の人間」が抽象表現によって表現できないという見方には同意できないが、「人間像」であるならば仕方ないかもしれない。人間は一度、像へと転換されねばならないのであるから。解体や再構築、あるいは不可視といったこの展覧会のキーワードも、人間ではなく人間像に焦点をあてることによって可能となる主題と連なる。この点は「人間」を「身体」という概念に置き換えてみる時、明瞭に理解される。「身体の表現」という主題系列は二つに分けることができるだろう。一つは文字通り、「身体についての表現」であり、鶴岡政男でもフランシス・ベーコンでもよい、この系列は今回の展覧会への出品作とつながる。肥大した指や爪、ねじれた肉塊、それらは異様な変形を被ってはいるが、身体を描いた「像」であることは歴然としている。客体としての身体といってもよかろう。しかしこれに対してもう一つ、「身体による表現」という主題系がありえるはずだ。それは例えばアクションの痕跡としての絵画であり、行為が押印された物質としての彫刻として実現される。そこでは身体は表出されるのではなく表現の契機とされている。つまり主体としての身体である。私は作品を分析するうえで、記号論に基づいたディコトミー(二分法)の観点を導入することはきわめて有効と考えるが、本展では身体ではなく人間という、より抽象的、哲学的な観点が導入され、加えて人間ではなく人間像という、あくまでも表象された内容、シニフィアンではなくシニフィエを強調することによって検証すべきテーマがよくいえば限定され、悪く言えばあいまいにされているように感じた。
 さて、私は本展を見て別のディコトミーに思い当たった。ただしこの場合も人間よりも身体という言葉を使う方がふさわしいだろう。というのも、この展覧会のテーマについての異和感のかなりの部分は、ことさらに「人間像」という言葉が用いられていることに起因しているからだ。フーコーの「言葉と物」を引くまでもなく、とりわけ構造主義を経過した私たちは人間とか作者といった言葉をそのまま使用することに躊躇を感じる。この点に関して、何の留保もなく人間あるいは人間像という言葉を用いる今回の企画はあまりにもナイーヴというか無防備に感じられてしまうのだ。身体という言葉であればかかるコノテーションとは無関係だ。そして私が提案するディコトミーとは、交換不可能な身体と交換可能な身体という区別だ。この区別はこの展覧会の章立てと無関係ではない。フォートリエの《人質の頭部》は画家自身が目撃したという、壁際に並べられて銃殺されたレジスタンスの身体と交換不可能なイメージとして描かれているはずだ。この作品をはじめ、最初のセクションに並んだ作品の多くは戦争や基地闘争をはじめとする多くの暴力を暗示している。暴力が身体にとって脅威と感じられるのは、交換不可能な私たちの身体に対して不可逆的な苦痛を強いるからである。「肉体のリアル」のセクションで私たちが出会う多くの傷跡や血痕、内臓や骨格もかかる苦痛の苛酷な表象であることはいうまでもない。私はこの展覧会を見て一つのフィルムを強く連想した。それはこのブログでもかつて論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」であり、冒頭部において、被験者が人であってレウリカントではないと証明するために実施される blush response なる試験は残酷な状況に対して、被験者が共感することが可能であるかどうかを基準としていた。出品作の中でも最もグロテスクなオルランの作品は、自らが受けた美容整形手術の模様を写真として提示するものであるが、私たちがそれらの情景から思わず目をそむけるのは、それらが一人の人間の交換不可能な身体に対して加えられた侵襲であることを知り、痛みとともに共感するからである。木下晋が描くフリークス、ローリー・トビー・エディソンが撮影する肥満した女性、村岡三郎の作品に添付された死亡証明書、これらもまた私たちの身体的特徴、そして死が自身のみに占有され他者によっては共有不可能であることを暗示している。これに対してこの展覧会ではもう一つの身体の在り方が示されていた。それは交換可能な身体である。小谷元彦の《Terminal Impact》は義足を装着した女性と義足を用いた奇妙な器具の一連の動作を記録した映像作品であるが、私たちはこの映像から手足や毛髪といった本来なら個人に帰属する身体器官が交換可能であることを知る。義眼や毛髪、ウィグ、あるいはペニス状のオブジェなど何人かの作家が使用するイメージやオブジェも同様の暗示を内在させている。あるいは北野謙という作家の作品を私は今回初めて目にしたが、それは天安門広場の警備兵やデモの群衆といったそれ自体が交換可能な任意の人物を数十名、写真の上で重ね合わせて得られた匿名的な肖像である。そこでは個々の人物、身体は識別できず、複数の人間が同時に存在しいている。記号論的な観点に立つならば、身体という問題に関して小谷と北野の作品がそれぞれメトニミー、メタファーという別々の関係性に立脚している点も興味深い。交換不可能な身体、あるいは身体の複数性というモティーフを内在させた作品はこの展覧会でも少数であったが、それはこれらの主題が比較的新しいためであろうか。かかるモティーフはむしろ近年の映画において顕著であり、「マトリックス」から「バイオハザード」にいたるSF映画の系譜をたどる時、交換され複数化された身体という主題の変奏をいくらでも指摘することが可能だ。今回の展覧会で私にとって最も印象的な作品は今挙げた小谷や北野らの作品であったが、それは単に初めて見たという理由にとどまらず、身体という美術、とりわけ彫刻表現にとって密接に関わる主題に新しい解釈を与えている点によるだろう。そしてそれはおそらく今日における人間観の変貌とも関わっている。これらの作品は医療技術の発達によって身体器官が代替され、IT技術の進展によって一人の人間の内部に複数の人格が共存しうる時代において、人間はもはや交換不可能な存在ではなくなったことを示唆しているのではなかろうか。
 この展覧会に並べられた生々しい作品群に対して、同じ時期に開かれていた竹岡雄二の個展は対照的であり、やはり興味深い内容であった。ミニマリズムとレディメイドという現代彫刻の二つの流れを独自に咀嚼した竹岡の個展は今後埼玉に巡回する予定と聞く。これについては機会があればあらためて論じてみたい。
by gravity97 | 2016-03-26 20:54 | 展覧会 | Comments(0)

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