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優雅な生活が最高の復讐である

マリオ・バルガス=リョサ『つつましい英雄』

b0138838_1655298.jpg お気に入りの作家の新作をレヴューするのは楽しい。日本文学であれば奥泉光と村上春樹、海外文学であればポール・オースターについては既に三冊をレヴューしているが、今回、マリオ・バルガス=リョサをこのリストに加える。本書はノーベル賞受賞後、最初の小説として2013年に発表された。その余裕であろうか、おそらく作家は肩の力を抜いて執筆している。しかし、さすがにバルガス=リョサである。実に面白く、感動的な傑作だ。
 読み始めるや、バルガス=リョサの愛読者であればおなじみの手法と登場人物に出会う。まずこの小説は二つの物語が交互に進行する構成をとる。奇数章と偶数章で別々の物語が語られる手法は「楽園への道」を連想させるし、このブログでレヴューした「チボの狂宴」においても三つの章ごとに異なった視点が循環して物語を深めていった。フォークナーの「野生の棕櫚」あるいは村上春樹の初期の小説においても二つの無関係な物語の同時進行という手法が用いられていたことも想起される。最初に冒頭の二つの章のみ簡単に要約しておこう。第一章はピウラという、バルガス=リョサの読者であればおなじみのペルーの田舎町で運送会社を営むフェリシト・ヤナケがある朝、自宅の玄関扉に貼り付けられた青い封筒を発見する場面から始まる。その中には500ドルを支払わなければヤナケをトラブルに巻き込むという脅迫状が収められていた。ヤナケはこれを無視して脅迫者と対決する決意を固めるが、霊感によって彼にアドバイスを与えてきたムラータ(白人と黒人の混血)の聖像売り、アデライダは脅迫に応じて、強請屋たちに500ドル払うべきであると助言する。第二章は首都リマを舞台とし、保険会社に勤めるリゴベルトが友人であり会社のオーナーでもあるイスマエル・カレーラからランチの誘いを受ける場面から始まる。既に80歳近い老齢にあるもかかわらずイスマエルは近くメイドのアルミダと結婚することを決意しており、結婚の証人を務めることをランチの席でリゴベルトに依頼する。大会社のオーナーとメイドの再婚はそれ自体もスキャンダルであるが、さらにイスマエルの素行の悪い二人の息子たちは遺産を奪われることを恐れて、あらゆる手を尽くしてこの結婚を破談に追い込もうとするはずだ。リゴベルトはイスマエルらがヨーロッパにハネムーンに出かけている間、彼のための防波堤となることを決意する。この小説は基本的に最初の二つの章に起点を置く二つの物語が交互に語られることによって構成されている。「楽園への道」や「野生の棕櫚」において二つの物語は関係することなく終えられた。「つつましい英雄」においてはどうか。種明かしをしても物語を読む楽しさは削がれることはないだろう。ヤナケとリゴベルトの物語は終盤で思いもかけないかたちで結びつく。このあたりは間違いなく本書の読みどころの一つであるが、その前に登場人物を確認しておこう。なぜなら二つの物語のそれぞれに私たちがよくなじんだ人物が登場するからだ。一方の物語の主人公、ヤナケに私たちは初めて出会った。しかしヤナケが脅迫状を持ち込んだ警察署で署長の代理として応対する人物を私たちはよく知っている。リトゥーマ軍曹だ。リトゥーマは1966年に発表された記念碑的な作品「緑の家」に既に登場し、このブログでレヴューした「アンデスのリトゥーマ」ではタイトルどおり、物語の中心的な役割を果たした。本書においてもリトゥーマは署長のシルバ大尉とともに脅迫事件の解明に乗り出し、物語を牽引する。一方のリゴベルトの物語の主たる登場人物、リゴベルト、妻のルクレシア、そしてルクレシアを継母とするリゴベルトの息子フォンチートはおそらくバルガス=リョサが発表した作品の中で最もエロティックな小説である「継母礼賛」の中心となる登場人物たちだ。「継母礼賛」には「ドン・リゴベルトの手帖」という続編があり、こちらは未読であるが、少なくとも本書の前日譚として「継母礼賛」を読んでおくとリゴベルトの物語もさらに奥行きが深まるだろう。b0138838_166296.jpg少し説明しておくならば、ルクレシアとフォンチートの近親姦的な戯れ、あるいは本書にも登場するメイドのフスティニアーナとルクレシアの同性愛的な交情を幻想的な筆致の中に描いたこの小説には何枚かの挿図が付されている。右に掲げた中公文庫版の表紙に用いられたブロンツィーノの《愛の寓意》は「継母礼賛」の寓意画のようであるが、ほかにもフラ・アンジェリコからティツィアーノ、さらにはフランシス・ベーコンまで、ヨーロッパ美術の中から6点の絵画が選ばれ、時にそこに描かれた情景が小説の一部を構成していた。もっとも「つつましい英雄」においてはフロイト的な性愛の主題は後退し、別の心理的な脅威が三人の生活に影を落とすこととなるが、それについては本書を読んでいただくのがよかろう。
 先に述べたとおり、本書においては冒頭の二つの章でその発端が語られた二通りの事件が登場人物たちを翻弄する。ヤナケは尊敬する亡き父の「けっして誰にも踏みつけにされてはならない」という遺言に従って、毅然と脅迫者たちと対決するが、現実となった脅迫が次第にヤナケを追い詰めていく。一方、リゴベルトはハネムーンのため不在のイスマエルに代わってイスマエルの息子たちの理不尽な言いがかりに対峙するが、家庭内ではフォンチートをめぐって精神的な危機も進行する。思いがけない事件の連続、謎と謎解きは読者を飽きさせることがなく、小説家としてのバルガス=リョサの力量を見せつける。あとがきによれば二人の主人公、とりわけヤナケには作家が新聞紙上で知ったモデル、マフィアの脅しに屈しなかった人物が投影されている。バルガス=リョサは次のように語っているという。「私利私欲に満ちたエゴイスティックなこの社会においても、善意を旗印に掲げる無名のつつしみ深い英雄たちが存在しているのだ。このような人々に対する評価こそ、この作品を手がけた動機である。彼らは日々のニュースに取り上げられることはないが、報われざる犠牲を払っており、社会を向上させているのは歴史で学ぶ英雄ではなく、つつしみを知る英雄である彼らなのである」小説のタイトルの由来がわかる一節であるが、実際にヤナケは脅迫に立ち向かうことによって「報われざる犠牲」を払うこととなる。つまり事件を解決する過程で大きなスキャンダルに巻き込まれ、悪意に満ちた報道の渦の中に投げ込まれるのである。マフィアからの脅迫は日本で生活する私たちには縁遠いが、1980年代から90年代にかけてペルーでは暴力の嵐が吹き荒れていたから決して荒唐無稽な話ではなく、プライバシーなき報道の暴走、メディアスクラムの中でヤナケが味わう苦悩は私たちにとってなじみのないものではない。しかしヤナケは「つつましい英雄」として亡き父の教えを守って誠実に行動し、読者は深い共感とともに出来事の推移を追うこととなるだろう。一方のリゴベルトも家庭の外と中の二つの難局に対峙する。イスマエルの結婚をめぐるトラブルはイスマエルの帰国とともに解決するはずであったが、物語は中盤から意外な展開を遂げ、フォンチートをめぐる問題はさらに深まる。
 二つの物語において主人公たちが属する階級は異なる。貧農の息子という出自をもちながら、父親の努力と自らの刻苦勉励によって運送会社の経営者となったヤナケと、上流階級に属し趣味的な生活を送るリゴベルト、ピウラとリマ、地方都市と首都という彼らが生活する場もかかる対比に深く与っている。さらに両社の対比はリゴベルトを通じてもう一つの対比へと導かれる。それはペルーとヨーロッパのそれだ。先に「継母礼賛」にフラ・アンジェリコからベーコンにいたる西欧絵画の名品の図版が付されていたことを記した。リゴベルトは自宅の書斎にそれらの絵画を収めた多くの画集を揃え、しばしばエロティックな図像に妄想を掻き立てられた。「継母礼賛」におけるエロティシズムは直接にはこれらの絵画に由来していたといってもよいだろう。本書においては美術に代わって音楽が同様の趣味を形作る。イスマエルの結婚の知らせを聞いた夜、リゴベルトは書斎でブラームスの楽曲をマウリツィオ・ポリーニとイェフィム・ブロンフマンで聞き比べ、後者に涙する。その後、彼は寝室でルクレシアと濃厚なセックスを交わす点は、美術であろうと音楽であろうと、ヨーロッパの芸術の精髄がリゴベルトにおいてはきわめてセンシュアルに受容されていることを暗示しているだろう。ヨーロッパの古典音楽についての言及は本書の随所に認められ、「継母礼賛」の隠された主題が美術であるならば、本書のそれは音楽であろう。バルガス=リョサがフローベールの「ボヴァリー夫人」についての研究も発表していることはよく知られているが、文学から音楽までヨーロッパ文化を官能性において受容する姿勢は作家の個人的な資質、ラテンアメリカという地理的条件のいずれに起因するかも興味深い問題といえよう。物語の中でフォンチートからヨーロッパが好きなのになぜペルーに住んでいるのかと問われ、リゴベルトは旧大陸に住んでいたら、その文化に慣れすぎて、その美しさをこんなに楽しむことはできなかったはずだと答える。このコメントは作家の思いを反映しているかもしれない。西欧の音楽に耳を傾けるリゴベルトに対し、ヤナケはセシリア・バラサというペルーの女性歌手が歌うワルツに至福の瞬間を味わう。また「継母礼賛」ほど前景化されることはないが、エロティシズムも本書の重要なテーマであり、ルクレシアに対応するようにヤナケにも彼に甲斐甲斐しく使えるマペルという年若い愛人がいる。鮮やかな物語の展開の背後に厳密な対位法が存在していることも留意されるべきであろう。
 並行する二つの物語に共通するもう一つの主題はいうまでもなく父親と息子の関係である。ヤナケと息子たち、リゴベルトとフォンチートそしてイスマエルと息子たち。そういえば父子の屈折した関係は「ラ・カテドラルでの対話」でも扱われていた。おそらくこれらの小説はフロイトのいうファミリーロマンスという概念によっても分析することができるだろう。大きな問題であるからここでは示唆するに留めるが、バルガス=リョサの作品には父権性への拒絶という一貫する主題が認められないだろうか。「都会と犬ども」「チボの狂宴」といった小説は父権が暴力という権能と化すことを暗示しており、逆に「楽園への道」「悪い娘の悪戯」とにおいては父権を無効化する契機として女性原理が導入されているように思われる。実はマッチョな父権性はラテンアメリカ文学の主題としては珍しくない。それは独裁者を扱った一連の小説であり、バルガス=リョサも「チボの狂宴」においてかかる政治的な主題に正面から取り組んでいる。さらにこのテーマに即してガルシア・マルケスらの作品を分析することも可能であろう。
 ヤナケとリゴベルトはそれぞれの難局に立ち向かい、自らの信念を貫く。試練に耐えた人物の造形から、例えばヨブやオデュセイアといった「歴史で学ぶ英雄」の物語を連想することは決して的外れではないだろう。物語の最期で二人はリマの国際空港で偶然に出会い、家族とともに同じフライトでヨーロッパに向かう。バッハからタマラ・ド・レンピッカにいたる偉大な文化を生み出した土地、一人のチョラ(白人とインディオの混血)のメイドを社交界の中心に変える教化の場、本書においてヨーロッパが帯びた記号性を勘案するならば、これがきわめて幸福な結末であることも明らかだ。リトゥーマ軍曹がいくつもの小説に登場した前例もある。偶然ではあるが、私もフライトを待つ間に空港のラウンジで本書を読み終えて、彼らの「その後」の物語を知りたいと強く感じた。
by gravity97 | 2016-03-06 16:15 | 海外文学 | Comments(0)

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