ロレンス・ダレル「アヴィニョン五重奏」

 
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 毎年、年末年始には長い小説を読むことにしている。今年も一昨年のディケンズ「荒涼館」に匹敵する大長編を準備したものの、休暇が短かったこともあり、読了までには少々時間がかかった。ロレンス・ダレルの五部作「アヴィニョン五重奏(クインテット)」である。この連作はずいぶん前から気になっていたが、第一巻の「ムッシュー」の翻訳が刊行されたのは2012年11月であり、それからほぼ半年に一巻というペースで翻訳が刊行され、完結までに三年を要した。原著が4年、4年、2年、2年という間隔を空けて刊行されたことに倣った訳ではなかろうが、翻訳であればもっと短い期間のうちに刊行されるべきではなかろうか。半年という間隔は物語への集中を削ぎ、3年も経つと翻訳が進行中であることさえ忘れ去られてしまう。それでもなお私が本書への関心を維持しえたのは、先行する傑作「アレクサンドリア四重奏(カルテット)」が存在したからだ。私はこの四部作を最初は四半世紀以上前に河出海外小説選版、二回目は2007年に刊行された改訳版で通読し、そのたびごとに深い感銘を受けた。それにしてもこれら二つの連作はよく似ている。都市の名前とカルテット、クインテットといった重奏を結合したタイトル、タイトルに示された二つの都市がそれぞれ主たる舞台とされている点、そして例外もあるが個々の巻のタイトルとして、ジュスティーヌ、リヴィアといった登場人物の名が冠されていることなどである。しかしこのような相似性は「アヴィニョン五重奏」にとってむしろマイナスに作用したらしい。訳者あとがきによればこの連作は「英語圏においても不当ともいえるほどの低い扱い」しか受けず、「晩年のダレルによる自作の二番煎じ」とみなされてきたという。確かに圧倒的なエキゾチシズムとデカダンスに彩られた「アレクサンドリア四重奏」の後に、同様に一つの都市を舞台とした重層的な連作をもう一度執筆することはさすがに過剰に感じられもする。私自身、この連作の存在については2007年に「アレクサンドリア四重奏」の改訳版が出版された際にカバーに付された著者紹介の中で初めて知ったが、改訳版のあとがきも含めてその後一切インフォメーションを与えられることがなかったため、書店の店頭でこの連作の最初の巻、『ムッシュー』を見た際には大いに驚いたことを記憶している。
 それでは「アヴィニョン五重奏」とはいかなる小説であるか。第二巻「リヴィア」の冒頭でこの連作の構造について次のように謎めいた説明がある。「良き古典的順序に並べられたサイコロの五の目の小説群が見えた。五冊の小説が、そのために編み出された謎めいた五点形に従って書かれている。こだまがそうであるように、互いに依存してはいるが、ドミノのように連続して端から端に並んではいない―同じ血液型に属しているだけだ」この言葉がサトクリフという登場人物の口から発せられること自体が、この小説のきわめて独特な構造を暗示しているが、単に物語の愉悦に身を任せておけばよい「アレクサンドリア四重奏」とは異なり、この連作は語ることについてのきわめて明晰な意識―あえてモダニズム的な意識と呼ぶ―に貫かれている。以下、小説の内容について若干立ち入って論じるが、それは読者がこの錯綜する物語についてある程度予備知識を携えて読み始めた方が理解しやすいと考えるからである。あらかじめストーリーの一部を知っていても本書を読む快楽は揺るがない点を確信とともに言い添えておく。
 最初の巻「ムッシュー」において既に語りは複雑な構造をとる。「十字軍王国」と題された最初の章には「僕」という一人称の語り手が登場する。「僕」がブルース・ドレクセルというイギリス人の医師であることは直ちに明らかにされる。ブルースが友人のピエールの自殺の報に接してパリからアヴィニョンに向かう列車に乗る場面からこの長大な物語は始まる。ピエールの死をめぐる謎はブルースを、そして私たち読者を多いに困惑させるだろう。続く第二章は時間を遡行し、ブルース、ピエールそしてピエールの妹でありブルースの妻たるシルヴィー、そしてブルースの義理の兄の友人であるトビアスの四人が若き日にエジプト、アレクサンドリア近郊のマカブルというオアシスに向けて旅立ち、アッカドなるグノーシス主義者の銀行家の招きによってグノーシスの秘儀を体験する物語が語られる。四人による砂漠の道行きはダレルらしいエキゾチシズムが横溢し本書の読みどころの一つだ。グノーシス主義とテンプル騎士団をめぐる謎はこの小説に隠顕するモティーフであり、アッカドは秘儀の中でグノーシス主義の奥義について語る。そしてピエールの死の状況とグノーシス主義の暗合も物語の中で明らかとなる。ちなみにこの巻のタイトル「ムッシュー」とはグノーシス主義における「闇の君主」のことである。第三章「サトクリフ、ヴェネツィア草稿」においては三人称の語りと登場人物の一人、サトクリフがヴェネツィアで認めた「ヴぇネツィア草稿」が併置される。テクストの混在は「アレクサンドリア四重奏」にもみられた手法であるが、三人称と一人称の語りが共存するテクストはある程度モダニズム小説を読み慣れた読者でなければ理解することが困難かもしれない。続く章においても一方でヴェルフィユという地所にあるピエールの城館で残された文書を調査するブルースとトビアスの姿、つまり第一章の後日譚とサトクリフの草稿が交錯する。このあたりも決して読みやすくはない。この章で主にトビアスを通してしばしば語られるのはテンプル騎士団をめぐるエピソードであり、ピエール・ド・ノガレはテンプル騎士団を捕縛した中世の法務官ギヨーム・ド・ノガレの末裔であることが暗示されているが、かなり注意深く読まないとこれらの関係は見過ごされてしまうだろう。そして「クアルティーラでの会食」と題された最後の章の冒頭で読者はあっけにとられるはずだ。次のような文章である。

タイプ原稿の原本を他の二つの副本から分けた小説家ブランフォードは溜め息をつき、一枚の白紙を素早く手に取ると、通常の小説からはいささか不作法に逸脱した新作の仮題をいくつか書き留めた。幾度か躊躇った後、彼は悪魔にしかるべき敬意を払うべく、その小説を『ムッシュー』と呼ぶことにした。

 突然登場したブランフォードなる人物がいきなりこの小説の作者の位置を占めるのだ。読み進めるうちにブランフォードが車椅子を用いる身であることも判明する。それでは五重奏の第一巻、『ムッシュー』はこの男によって執筆された小説であったのだろうか。なぜブランフォードはサトクリフを特定して自らが創造した作中人物であるとことさらに告げるのか。私たちの疑問は「リヴィア」に持ち越される。なぜなら「リヴィア」においては若き日のブランフォード自身が中心人物となるのであるから。おそらく秘密を解く鍵は「ムッシュー」の巻末に付された付記にあるだろう。かくのごとく本書において語り手と登場人物の関係はきわめて不安定だ。そして「リヴィア」もまた一つの訃報によって幕を開ける。訃報を受け取るのは巻末で「ムッシュー」の語り手であることが表明されたブランフォードであり、小説の構造はさらに錯綜する。「リヴィア」においてはブランフォードが若い頃のエピソードが語られるが、この時、「ムッシュー」の話者であるブランフォードと「リヴィア」の話者は審級を違えるはずだ。この疑問は必ずしも明確に答えられることないまま三人称による「リヴィア」の語りが続けられる。ブランフォードの友人、サムとヒラリー、ヒラリーの姉のリヴィアとコンスタンス、彼らのリヨンからアヴィニョンにいたるローヌ河の航行は「ムッシュー」におけるエジプト旅行に対応し、さらに船旅というモティーフは第三巻の「コンスタンス」においてフェラッカ船によるナイル川下りにおいて反復される。「リヴィア」は物語としてはブランフォードと彼を翻弄するリヴィアの関係を縦糸に、彼らの周辺のユダヤ系投資家のゲイレン卿、ゲイレン卿に庇護される数学者カトルファージュ、ゲイレン卿の甥でイギリス領事代理のフェリックス・チャットー、さらにはゲイレン卿の投資と深く関わるエジプトのハッサド王子といった魅力的な人物の群像を横糸に構成される。「ムッシュー」では必ずしも明らかでなかった時代背景も具体的に示される。ナチズムの台頭と迫りくる第二次世界大戦が登場人物たちの上に暗い影を落としている。ただし絡み合う物語と併置されるテクスト、そして相互に共鳴しあう人物たちは必ずしも容易な理解を許さない。五重奏を読み進めるうえではこの巻が一番の難所かもしれない。今、共鳴といったが五重奏においてはそれぞれの巻の登場人物が微妙な変形を被って別の巻に登場する。初めてプロヴァンスを訪れ、リヴィアやコンスタンスと会った夏、ブランフォードはテュ・デュックという屋敷で肖像画が並べられた回廊を訪れる。そこに残された三つの肖像画のうち、二つにピエールとシルヴィーという名が記されていた。さらに「ムッシュー」においてサトクリフが言及するパースウォーデン、あるいは第四巻「セバスチャン」でアッファドが行きずりの恋を交わすメリッサは「アレクサンドリア四重奏」の主要な登場人物である。このような照応は本書を読む楽しみの一つである。例えば第三巻の「コンスタンス」においてブランフォードはヴィルフォワンすなわちヴェルフィユに邸宅をもつブルノーとシルヴァンヌ、つまりブルースとシルヴィーをハッサド王子の秘書、アッファド―いうまでもなくアッカドに照応し、物語の中で重要な役割を果たす―から紹介され、英国陸軍の「ドレクセル」少佐とともにピクニックに出かける。おそらくこのような仕掛けがダレルのいう「さいころの五の目」を暗示しているだろう。随所にめぐらされたこのようなたくらみに気がついた時、本書を読む楽しみは一気に増す。
 「リヴィア」で暗示されていた戦争の影は「コンスタンス」で一層色濃く登場人物たちの上に落ちる。「コンスタンス」は五重奏中で最長の長編であるが、語りの構造が比較的単純であることもあって最も読みやすい。ドイツに占領されたフランスにおいてアヴィニョンに駐留するナチスの将校フォン・エスリン、残忍な副官フィッシャー、ヒトラーの命を受けてテンプル騎士団の財宝を捜すスミルゲルといった新たな登場人物を得て、物語はさらに活気を帯びる。この巻の中心となるのはタイトルどおり、リヴィアの姉でアヴィニョン近郊の城館テュ・デュックの所有者である精神科医コンスタンスである。ヴィシー政権下、ナチス・ドイツの支配下で住民たちが味わう苦痛、ドイツ軍の侵攻やレジスタンスの処刑といった物語が冷徹な筆致で語られる一方、エジプトやジュネーブといった異なった土地での出来事がアヴィニョンに集った登場人物たちに微妙な影響を与える。彼ら/彼女らの何人か消息を絶ち、あるいは姿を変えて登場する。中盤においてコンスタンスは赤十字の職員ナンシー・キミナルとともにテュ・デュックを再訪し、荒れ果てていた館は再び活気を取り戻す。興味深いのはブランフォードとサトクリフの関係だ。作家と被造者たる二人は既に「リヴィア」において電話を介して対話していたが、この巻に及んでサトクリフは実際にブランフォードたちの世界に登場する。コンスタンスはジュネーブでサトクリフに出会い、思わず「じゃあ、あなたは現実の人なのね」と叫び、サトクリフは「誰もが現実さ」と答える。サトクリフはこの小説においては一貫して道化であり、時にグロテスクな諧謔を駆使して絶えず物語を賦活する。「ムッシュー」において暗示されていたテンプル騎士団という主題は「コンスタンス」においてはテンプル騎士団が秘匿した財宝の探究として一種のミステリーの趣とともに浮上する。「コンスタンス」は五重奏においては最長であるが、テンポが早くおそらく一番読みやすいだろう。物語は連合軍の勝利とアヴィニョンの解放というエピソードで終えられるが、その過程で何人かの登場人物が残酷な死を迎える。「セバスチャン」は五重奏の中で唯一、アヴィニョンではなくジュネーブを主たる舞台として繰り広げられる。そこにはよく知られた説話的な装置が導入されている。「届かない手紙」あるいは「盗まれた手紙」というモティーフだ。コンスタンスと恋愛関係にあるアッファドはエジプトのグノーシス主義者たちから秘儀への招待を受けるが、その手紙はコンスタンスのもとに届けられ、しかもコンスタンスの患者によって盗まれてしまう。手紙をめぐるスリリングな展開は本書を読んでいただくのがよい。コンスタンスとアッファドの恋愛のもつれ、ゲイレン卿やサトクリフが繰り広げる馬鹿騒ぎ、陰謀と裏切り、めくるめく物語の展開はダレルに真骨頂といってよい。大戦が終結し、ジュネーブでは祝賀の花火大会が行われる。しかしなおも戦争は人々の記憶に残る。とりわけユダヤ人を絶滅収容所に送ったこと、ショアーの記憶がヨーロッパの人々にとって癒えることのないトラウマになったことを暗示するエピソードとともにこの巻は幕を下ろす。第五巻「クインクス」において登場人物たちは再びアヴィニョンへと帰還する。彼らは地中海に面した町でジプシーたちの祝祭に遭遇するが、そこには「ムッシュー」において姿を消した一人の人物が登場し、シルヴィーやフォン・エスリンといった以前の物語で重要な役割を果たした人物たちも境遇を変えて読者の前に姿を現す。この巻は「暴かれる秘密」というサブタイトルをもつが、確かにいくつも秘密が開示される。それは物語の中で縊死を遂げたリヴィアの死をめぐる秘密であり、あるいは五重奏をとおして隠れた主題であったテンプル騎士団の財宝に関わる秘密である。一方でブランフォードとサトクリフ、創造者と被創造者はここでは対等に対話し、時に戯曲形式でつづられる二人の会話はこの物語の捻じれを端的に暗示している。「クインクス」とは人名ではなく五点形のことであり、さまざまな人物の生と死を織り込んだ物語はアヴィニョンの古代遺跡、ローマの水道橋に引き寄せられるように集まる登場人物たちを描いて幕を閉じる。
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 確かにこの五部作はアレクサンドリア四重奏に比べて難解な印象を与える。四重奏においても語りは変化した。すなわち第一巻「ジュスティーヌ」において語り手は一人称の「ぼく」である。貧しいイギリス人教師の「ぼく」を誘惑するジュスティーヌは五重奏におけるブランフォードとリヴィアの関係に似ていなくもない。「ジュスティーヌ」においてはほぼ厳密な一人称が用いられるが、第二巻「バルタザール」においては同じ「ぼく」が語りながら時に全能の話者の視点が取り入れられる。あえてアヴィニョン五重奏に当てはめるならばブランフォードとサトクリフを合わせた視点といってもよかろう。「マウントオリーブ」では三人称が用いられ、「クレア」では再び一人称が用いられる。しかし「クレア」における一人称と「ジュスティーヌ」におけるそれが決定的に相違することを柄谷行人がアレクサンドリア四重奏をテーマとした修士論文で論じていたことを私は最近刊行された『柄谷行人文学論集』で知った。魅力的な物語が語られながらもアヴィニョン五重奏において人称の関係は格段に錯綜するため、この意味で私たちは本書において小説の内容と形式、いずれに目を向けるべきか少々戸惑うかもしれない。一方でダレル特有のデカダンス趣味は本書においても横溢している。本書では様々の登場人物の交情が描かれるが、同性愛や近親相姦といったおなじみの背徳的な性愛が次々に繰り広げられることはいうまでもないし、「コンスタンス」におけるコンスタンスとアッファドの性愛の描写はことに濃密だ。同性愛というモティーフの強調、あるいは登場人物たちが物語の終盤で一つの場所に集う様子から私はプルーストの「失われた時を求めて」を連想しないでもなかった。あるいは「リヴィア」の巻末近く、海亀の冷製コンソメで始まるハッサド王子が開いた豪華な饗宴の模様が記されるかたわらで、通りを隔てて糞尿を集めるバキュームカーについての記述が唐突に重ねられるあたりにイギリスであればオスカー・ワイルドのデカダンスの影をうかがうことは不可能ではないだろう。
 一方で本書は小説家についての小説でもある。「クインクス」においてブランフォードは小説を書く決意を固めるが、それがこの五重奏であることは明らかだ。ブランフォードと彼の被造物であるサトクリフがジョイスについて論じあうくだりには笑ってしまうが、少し考えれば本書が「小説を書くことについての小説」というそれ自体がメタ的な構造をもっていることも明らかである。さらに想起するならばアレクサンドリア四重奏にも実際に手記を書く「ぼく」とは別にパースウォーデンという作家が登場した。(彼については「ムッシュー」の中でも言及されることについては既に述べた)かかる自意識の存在が本書を英語圏であればジョイスからフォークナーへいたるモダニズム文学の系譜へと繋ぎ止める。しかしながら同時に本書の魅力がかかる形式性から逸脱する豊饒な物語性によっていることもまた明らかだ。本書は五つの巻から構成された五角形の物語であるが、個々の挿話の独立性は高く、それぞれが一個の物語として読むことも可能であろう。コンスタンスとアッファドの悲恋の物語、ナチスの圧政下におけるフランスの一地方都市の年代記、テンプル騎士団の財宝の探索、グノーシスの秘儀をめぐる奇譚、そしてサトクリフやゲイレン卿のいつ果てるともない愚行と乱痴気騒ぎの記録。常に綿密な伏線が張りめぐらされ、時には数巻後の描写によって伏線が回収されるという超絶的な技巧が用いられている場合もあるにせよ、本書はいくつかの物語の連なりとして構成されており、それゆえ物語としての凝集性はやや弱い。そのあたりがアレクサンドリア四重奏に比べて本書が「不当ともいえるほど低い扱い」を受けた理由かもしれない。本書のテーマでありながら、私が語っていないことはいくらでもある。医師シュヴァルツが体現するフロイト主義と文学の関係、ユダヤ人に比して論じられることのないジプシーたちの運命、そして全編にみなぎる黒い笑い。それらの詳細については是非実際に小説を手に取って確かめていただきたい。時代が具体的に特定されているという背景もあるかもしれないが、四重奏の陽光と暑さに対して、五重奏を通読して受けた印象は寒風と苛酷さであり、それはアレクサンドリアとアヴィニョンという都市に象徴されているかもしれない。しかし四重奏同様、私はこのあくの強い大長編も大いに楽しんで読み通した。未読の方も多いことと思う。相当の時間を必要とするから読み始めるにはいささかの覚悟が必要であるとはいえ、陽光のアレクサンドリアと暗鬱なアヴィニョン、ダレルが創造した比類のない二つの都市を訪れる読者がさらに増えることを願っている。

by gravity97 | 2016-02-02 20:47 | 海外文学 | Comments(0)