「九州派」展

b0138838_21292596.jpg 福岡市美術館で開催中の「九州派展」に滑り込みで駆けつける。常設展示の枠内での展示であるから、大盛況の「モネ」展のかたわら、ほとんど広報もされていないが、このグループがこれほどの規模で紹介されるのは伝説的な1988年の「九州派展」以来、四半世紀ぶりであり、この美術館が秋から改修に伴う休館に入るといった事情を勘案するに今後しばらくは見ることの困難な作品群である。私は88年の「九州派展」を実見していないから、今回初めてこの集団の全貌に触れた。
 九州派の起点と終点をどこに置くかはなかなか難しい問題であるから、ここでは深入りしない。しかし九州派という集団が戦後美術の文脈に組み込まれたのは比較的最近であり、そもそも組み込まれたか否かについても議論の余地があるだろう。私自身が九州派という集団の存在を初めて意識したのは先日物故したヨシダヨシエの『解体劇の幕降りて』中の「九州派の英雄たち」という章においてであり、奥付等を確認するならば造形社版は1982年の刊行。その原型である「戦後前衛所縁荒事十八番」は1960年代後半の『美術手帖』に連載されたはずだ。このあたりの書誌的事実の確認はひとまず措くとして、戦後美術の通史として知られる針生一郎の『戦後美術盛衰史』と千葉成夫の『現代美術逸脱史』においてもいずれも短く言及されるのみである。(ただし針生は実際に「九州派」と深く関わるとともに60年代に簇生した地方の前衛集団のうち、九州派の特異性をいちはやく見抜き、後述する88年のシンポジウムにはパネラーとして参加している)、これに対して椹木野依は『日本・現代・美術』の中でかなりの紙数を費やしてこの集団に触れ、アドルノと関連づけて次のように論じているのは慧眼と呼ぶべきであろう。いきなり結論めくが参照すべき視点であるからまず引用する。

 九州派は、そのあからさまな暴力衝動において、近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かち、それゆえに作品も記録もほとんど残されず、いま、歴史の空白でひたすら眠りこけている。しかしそれが「野蛮」と最も遠くあるための、数少ない選択肢のひとつでなかったと、誰がいえるだろうか?彼らは、「アンフォルメル以後」に生きる野蛮に耐えかねて、「アンフォルメル以前」に暴力的に瓦解することを、ほとんど本能的に選び取っていたのではないだろうか。

b0138838_2131968.jpg   九州派が注目される契機となったのは同じ美術館で1988年に開催された「九州派―反芸術プロジェクト」であった点は既に述べた。当時、私も福岡でとんでもない展覧会が開かれているという噂を耳にしたのであるが、展覧会を訪ねることがかなわず、カタログを取り寄せて、確かにとんでもない作品が出品されていることに驚愕したことを覚えている。この展覧会はなかば神話化されていたこの集団が決して「作品も記録も残さなかった」訳ではなく、多くのきわめて特異な作品を残していることを明らかにした。
 今回の展示はクロノロジカルに構成され、九州派前史と呼ぶべき時代から60年代までの作品が展示されている。先にも述べたとおり、九州派の活動期間、特にそれがいつ終わったかについては議論が分かれるところであり、88年のカタログテクストで黒田雷児は「九州派は遅くとも1968年には完全に死んでいた」と記し、今回の展覧会を契機に刊行された「九州派大全」に寄せたテクストで山口洋三は「九州派の真に九州派らしい特性は1959年までの前期にある」と述べている。活動の初発のエネルギーが次第に減衰していく様子は九州派がしばしば比較される具体美術協会と似ている。しかし具体美術協会がやはり80年代中盤の再評価以来、国内外で何度も大きな展覧会として取り上げられたのに対して、九州派を取り上げた展覧会は福岡市美術館以外で開催されることがなく、今回の年表を参照しても九州派に属する作家が集団展で取り上げられる場合、テマティックな展覧会に何名かの作家が取り上げられ場合を除いて、集団として回顧される例はほとんどない。これには二つの理由が挙げられるだろう。一つは残された作品数が少ないことである。88年の展覧会は「九州派の残存作品が極めて少なく、展覧会を成立させるに足る作品数の確保が不可能」という通説に抗して、企画者が綿密な調査を続け、約90点の作品を発見したことによって成立した訳であるが、その際のカタログと今回の展示を比べても作品数はさほど変わらない。再評価が進むにつれて外国からの買い戻しや作品の再発見などで作品数が増え、新たな視点からの検証も可能となった具体美術協会と比べて、九州派の作品は多くが失われて再検証が困難なまま今日にいたっている。88年のカタログでは九州派の活動が絵画期、オブジェ期、解体期に分けて総括されているが、オブジェは破棄されパフォーマンスやインスタレーションは残らないという理由によるのであろうか、今日に伝えられる作品は初期に制作された絵画が多い。しかしこの点は必ずしも消極的な意味ばかりをもつ訳ではない。黒田は展覧会にあたって再制作という手法を用いなかったことと関連させて、88年に次のように記している。「ひとつは『制作時の熱気は再現不可能だ』という常識に従ったものであり、もうひとつは『作家は作品を残すのが当然だ』というもうひとつの常識を、同時代の『ネオ・ダダ』らと同様に九州派が顧慮しなかったことを重視したからである。『作品がない』という現実自体も、いわばネガティヴな意味での九州派の痕跡なのである」この主張がネオ・ダダをめぐる膨大な行為のエフェメラを記録した1993年の「ネオ・ダダの写真」展、そしてこのブログでもレヴューした大著『肉体のアナーキズム』へと結実したことは今や明らかである。もう一つの理由はさらに重要だ。先に椹木のコメントを紹介したが、そこでは九州派が近代美術とも現代美術とも決定的に袂を分かった営みとみなされていた。おそらく九州派を理解することの困難の一因はモダニズムとの関係を一切欠いていることに由来する。この点では具体美術協会との比較が有効だ。確かに具体美術協会の活動も一見するならばモダニズム絵画の理路、例えば形式の純粋化や視覚性の強化からは大きく逸脱する。それゆえ白髪一雄の絵画はクラウス=ボアの「アンフォルム」概念の例証として用いられもした。しかしそれは彼らの作品が屈折したかたちでモダニズムとの紐帯を維持していたことを示唆しているのではないだろうか。このグループのリーダー吉原治良は阪神間モダニズムを主導した画家であり、具体美術協会を結成時の問題意識は欧米の抽象絵画、その極北としてモンドリアンをいかに克服するかという点であった。つまり結果的にモダニズムの原理を逸脱することになったとしても、この集団には歴史的前衛という明確な意識が存在した。しかしこのような歴史意識を九州派に求めることは難しい。もちろん具体美術協会は活動時から欧米の批評家や作家と交渉があり、80年代以降はアクションやアンフォルムといったモダニズムとは別の経路を介して、海外の美術界が一定の関心を寄せていた。しかし九州派は後年サンフランシスコで作品を発表するといった機会があったにせよ、欧米の批評の規矩とは無関係に、椹木の言葉を借りれば近代美術とも現代美術とも決別したまま活動を展開したのではないだろうか。
 もちろん残された作品は興味深い。会場をめぐりながら、様々な思いが浮かんだ。例えば多くの作家が素材としてアスファルトを使用した理由だ。当時、九州各地の道路の建設においてアスファルトがしばしば使用されたという背景があったらしく、安価で手に入る素材であるため好んで用いられたとのことであるが、私たちは黒いアスファルトに炭鉱のイメージ、そして労働運動や政治的な主張さえうかがってしまう。しかし意外にも作品からはそのようなメッセージはほとんど感じられない。あるいは絵画の物質的相貌からは時代的に少し先行する何人かの作家が連想される。それはフォートリエやデュビュッフェといったアンフォルメルの先駆とも呼ぶべき作家たちであり、作品がほとんど残されていないオチ・オサムの絵画は北欧のコブラ・グループとの類比を許すが、おそらく彼らの間に影響関係は存在しないはずだ。九州派におけるアスファルトの使用、物質的絵画の成立は同時代の絵画とどのような関係を結んでいたのだろうか。一方で彼らは頻繁に東京で展覧会を開いている。九州という地方に根ざすことを強調しつつも、彼らは東京に積極的に進出し、例えば読売アンデパンダン展などに展開される先鋭な表現を摂取しようとした形跡が認められる。彼らにおいて中央と地方の関係はいかに認識されていたのであろうか。あるいは何人かの作家に認められる儀式性やグロテスク・リアリズムへの接近をどのようにとらえるか。マネキンや人工の毛髪といったフェティッシュな素材への嗜好。再制作され、今回初めて見た田部光子の《人工胎盤》という作品はフェミニズムの観点からも興味深いが、そもそもマッチョズモという点でおそらく右に出る者のいないこの集団において女性作家はいかなる位置を与えられていたのか。
 このような問いのリストはいくらでも増やすことが可能だ。そしてこれらの問いに答えるうえでは残された作品があまりにも少ないことをあらためて感じる。彼らが作品を残すことを必ずしも必要と感じていなかった点についてはいくつかの証言が残されているが、かかる集団を美術館という場で展覧会の形式で扱う手法についても今回の展覧会、そして88年の最初の「九州派」展は重要な示唆を与えてくれる。88年の展覧会ではカタログに作品図版のみならず活動を記録した写真が多く残されている。同時に当時は存命であった作家たちにアンケート形式で質問し、作家たちの証言を引き出している。この際には「作家は作品を残す」という常識への抵抗として彼らの活動をとらえ、むしろ「作品として残存しない営み」によってもう一つの「美術史」をかたちづくることが試みられたように感じる。そしてかかる問題意識が「ネオ・ダダの写真」という展覧会と『肉体のアナーキズム』という大著に引き継がれたことは先に述べたとおりである。
 特別展ではなく所蔵品を中心とした常設展示の枠内で実現されたためであろう。今回の展示には記録写真やヴィデオの上映といった設えは少なかったように記憶する。しかし特筆すべき成果がある。展覧会にあわせて刊行された『九州派大全』という浩瀚な資料集である。驚くべきことにはこの資料集の刊行は既に予告されていた。88年の展覧会カタログの「ごあいさつ」の中に記された展覧会の方針に次の一文がある。「昭和65年度に発行予定の『福岡市美術館叢書5 九州派資料集(仮称)』制作のため、九州派に関する資料を収集・整理して正確な記録を作成する」なんと「昭和」である。実際に今回発行された『九州派大全』の表紙には「福岡市美術館叢書6」という言葉がある。四半世紀以上の間隔をあけて、担当者が交代しながらもこのような充実した資料集が刊行された訳であり、地方の美術館の息の長い仕事に脱帽する。この資料集には今回の企画者による書き下ろし論文のほか、作品図版と詳細な年表や参考文献、参考資料などが収録されている。私は知らなかったのであるが、九州派も1957年以降、「九州派」というタイトルの機関誌を8号まで発行しており、この機関誌の誌面、さらに展覧会のパンフレットや抗議文、通知が印刷されたハガキやビラなど、多く多く転載するのではなく図版として掲載され、当時の雰囲気を伝えている。私はまだ精読していないので内容についての検討は控えるが、全体に漂う扇情的、挑発的な口調は当時の労働争議や政治闘争のそれを連想させないだろうか。以前から感じていたことであるが、50年代から60年代にかけて、多くの前衛集団が機関誌を発行している。これらのリトルマガジンの比較分析はいまだになされていないが、重要な研究となるだろう。(Tiger’s Eye などアメリカの抽象表現主義と関連したリトルマガジンについては近年いくつかの研究書が公刊されたように記憶する)このような研究の前提として、やはりこのブログで取り上げた『具体』誌の復刻と並んで、本資料集の発行は大きな意義があるだろう。さらに驚くのはこの中に88年の「九州派」展のテクスト部分がほぼまるごと再録されている点である。おそらく以前のカタログは今日入手することが困難であろうし、このカタログに収録された論文は九州派についての基本文献ばかりであるから当然といえば当然かもしれないが、この意味でもきわめて充実した内容となっている。そしてきわめつけは88年の展覧会の際に開催されたシンポジウムの書き起こしが収録されていることだ。それから27年、既に基調講演を行った針生一郎とパネリストのうち3名が鬼籍に入っている。幽冥からの声を聞くようではないか。遅すぎたというのはあたらないだろう。おそらくこのようなパロールが資料としての意味をもつという認識は昨今のオーラル・アートヒストリーの活動の成果を前提としており、このほかにも三つの聞き書きによる記録が収められている。エクリチュールとパロール、「大全」の名のとおり、この資料集は現時点における九州派に関する資料を網羅しているといえよう。私は今回、九州派そのものについてはほとんど論じることができなかったが、これからこの特異な集団について考えるうえで本書が出発点となることは間違いない。
 
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 作品によって回顧することが困難な九州派の活動に対して、88年の展覧会が写真と証言をとおして新しい輪郭を与える内容であったとするならば、今回の展示は言語として残された資料を最大限に網羅してかたちを与える試みであったといえよう。この意味において展示を見ることができたのは大きな幸運であったとはいえ、今回の展覧会の果実はこの資料集であったといえよう。九州派のシンボル・カラーである黒に対して、あえてオフ・ホワイトで造本された資料集は『肉体のアナーキズム』や菊畑茂久馬の作品集の版元として知られるグラム・ブックスから発売され、編集サイドともみごとに息が合っている。美術館まで足を運ばずとも書店で購入できることは嬉しい。ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート以来、実体のない作品をいかに展示、収蔵するかという問題が美術館を悩ませてきた。九州派の展示は同じ問題が一つの集団を回顧する際にも発生することを暗示している。福岡市美術館の二つの展覧会はそれぞれ異なったかたちでのこの問いに対する回答であり、記録写真やエフェメラ、証言やオーラル・ヒストリー、アーカイヴといったこれまで作品の外部とみなされてきたコーパス(資料の集積)が美術の内部に取り入れられていく状況を反映している。それを美術館という制度の欲望とみなすか、展覧会という制度の限界とみなすか。私たちは立ち止まって考えるべき時期に来ているかもしれない。

by gravity97 | 2016-01-17 21:37 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


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