池上裕子『越境と覇権 ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭』

b0138838_10441499.jpg 現代美術に関する実に刺激的な研究書が刊行された。日本人の研究者によるこれほどの水準の研究を私はほとんど知らない。本書が発表された経緯を知るならばその理由も明らかであろう。あとがきによれば、本書は「Dislocations: Robert Rauschenberg and the Americanization of Modern Art, circa 1964」というタイトルで2007年にイェール大学に提出された博士論文が原型であり、その後、序章を完全に書きかえて「The Great Migrator: Robert Rauschenberg and the Global Rise of American Art」というタイトルとともに2010年にThe MIT Pressから出版された研究の日本語版である。著者も述べるとおり、二つのタイトルの相違に著者の問題意識の微妙な変化がうかがえる。いずれにせよ、日本人の研究者がアメリカの大学に提出した論文をもとにアメリカの有力な出版社から刊行されたといった事情から本書は英語圏における優れた博士論文のレヴェルを知るうえでも大いに意味がある。
 専門的な学術論文であるにもかかわらず、本書は実に読みやすい。テーマがきわめて明確であるからだ。サブタイトルに「ロバート・ラウシェンバーグと戦後アメリカ美術の世界的台頭」とある。本書は第二次大戦後、美術の「覇権」がフランスからアメリカに移譲される経緯を分析する内容であるが、かかる抽象的、地政学的な状況がきわめて具体的な時間と作家を即して検証される。それは1964年のロバート・ラウシェンバーグの活動であり、さらに具体的に述べるならば彼がマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーに美術監督として帯同し訪れた四つの都市、パリ、ヴェネツィア、ストックホルム、東京を舞台として語られる。したがってこの論文においては「覇権」の移譲という抽象的な問題が、国々を「越境」する具体的なエピソードをとおして分析される。おそらく本書の成功はかかる明快なテーマの設定に多くを負っているだろう。いうまでもなくこのツアーのクライマックスは6月、ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるグランプリの受賞である。しかし池上はこれによって現代美術の主流がパリからニューヨークに移ったという巷間に流布する通説とは距離をとり、さらに三つの都市をめぐる挿話を加えることによって、このような局面にいくつもの補助線を引く。具体的にはパリにおいてはそれ以前よりラウシェンバーグおよびアメリカの同時代美術がいかにヨーロッパに導入されていたかという問題がイリアナ・ソナベンドというギャラリスト、そしてアメリカの公的な文化戦略を参照しながら確認され、ストックホルムではラウシェンバーグのコンバインの代表作がなぜアメリカではなくスウェーデンの美術館に収蔵されているかという疑問を手がかりに、ポントゥス・フルテンという稀代の美術館ディレクターの活動が検証される。そして東京においては来日したラウシェンバーグに対して日本の若い作家や批評家がどのように反応したかという問題が問われる。いずれもそれ自体で一つの論文のテーマとなるような、魅力的な問題が次々に提起され、綿密な調査に基づいて説得的に検証されていく。
 原著のタイトルにあるMigrator とは渡り鳥とか越境者といった意味である。池上は愛知県美術館が所蔵し、実際に渡り鳥のイメージが転写された《コース》という作品の分析からラウシェンバーグの世界遍歴の確認作業にとりかかる。今日では国外で活動する作家、母国と異なった国で作品を発表する作家は珍しくないが、当時は自国以外で作品を発表する作家は稀であったし、さらに80年代にもラウシェンバーグは文化交流を目的としたROCIというプロジェクトを立ち上げて日本を含め、中国やチリといった非欧米の諸国において滞在、制作を試みている。移動や越境というテーマは作家の生涯と深く関わっているのだ。この点を確認したうえで池上は本論における問題意識について述べる。池上の立場は基本的に修正主義批判であり、モダニズム/フォーマリズムを相対化した修正主義のナラティヴの影響力について、次のような見解が示される。「アメリカ美術の覇権を文化帝国主義の結果とする見解―つまり、1945年以降、西欧で政治経済的な覇権を確立した合衆国が、今度は芸術でも勝利を収めたという分かりやすいナラティヴ―は根強く流通している。ラウシェンバーグ研究もその例外ではない。例えばヴェネツィア・ビエンナーレにおける彼のグランプリは、従来の研究ではおしなべて米仏の美術における覇権争いと画商の市場戦略という観点からのみ語られており、彼の作品が実際に海外ではどのような意味をもったのか、という点については詳細な分析がなされないままである」これに対して池上は近年提唱されている「グローバル・アート・ヒストリー」というアプローチを採用しつつも、そこではしばしばアメリカが中心化され、アメリカとの対比として議論が構築される点を批判し、アメリカ美術そのものを相対化する必要性を説く。おそらくこの点が、MIT Pressから出版されるにあたって、序章が刷新され、Americanization に代わって Global Rise of American Art というタイトルが採用された理由ではないだろうか。本書の目的は序章において次のように要約されている。

 本書では(ラウシェンバーグの)実際の作品やその展示手法、また主要人物たちの交流を詳細に跡づけることで、アメリカ美術の世界的台頭における美術家とキューレーター、批評家、画商たちの相互作用を検証する。こうした「ポスト修正主義」とも呼ぶべき立場から戦後美術史のカノンを内側から脱中心化すること、そしてアメリカ美術を世界美術史のトピックとして開いていくことがその狙いである。

 かつてミン・ティアンポによって発表された具体美術協会の研究書が「脱中心化されたモダニズム」と題されていたことも連想されよう。アメリカやフランスという一つの中心ではなく、複数の中心を想定するという発想は90年代後半以降、パフォーマンスやコンセプチュアル・アートといったフォーマリズムの教条に馴染まぬ運動に関してはしばしば提起されてきたが、本書では複数性に代わり、移動もしくは越境という概念が提起されている点が新鮮に感じられる。そしてこのような姿勢はラウシェンバーグの場合、作品の解釈とも深く関わっているのだ。例えば表紙にデザインされた《コカコーラ・プラン》を挙げよう。作家の代表作の一点であるこの作品はコカコーラというきわめてアメリカ的なモティーフと関わっているが、実はタイトルはアメリカによるヨーロッパ復興プラン、マーシャル・プランからとられている。この時、作品の意味は単に図像解釈や重層性に帰せられるのみならず、受容される場所と関係を結ぶ。言い換えるならば「アメリカ美術」の外部において初めて可能な意味が発生する。第四章で論じられるとおり、この作品に対して篠原有司男はイミテーション・アートとして彼自身の手による《コカコーラ・プラン》を制作し、来日したラウシェンバーグに提示した。日本の作家による創造的解釈が作品に新しい意味を与えたことは、アメリカの脱中心化という池上の立場の妥当性を例証するものであろう。
 さて、それでは実際に1964年のラウシェンバーグの活動を追うことにしよう。冒頭にマース・カニングハム・ダンス・カンパニーのワールドツアーの公演日程のリストが掲出されている。6月6日にフランス、ストラスブールで幕を開けたツアーはイタリア、オーストリア、西ドイツ、イギリスで続けざまに公演した後、9月にはスウェーデン、フィンランド、そしてチェコスロヴァキアとポーランドを経て、ベルギーとオランダ、そして10月中旬からアジアに入り、インド、タイ、そして日本における11月25日、東京サンケイホールでの公演で楽日を迎えた。美術監督ラウシェンバーグに加えてカニングハムとジョン・ケージという夢のような顔ぶれが揃ったこのカンパニーのツアーはインドの王家や草月アートセンターからの招待があったとはいえ、基本的に自費で賄われており、決してアメリカのなんらかの機関の意志や目的を反映するものではなかった。チェコスロヴァキアとポーランドという、鉄のカーテンが存在した頃の東欧諸国で公演を試みた点も興味深いが、このリストで注目すべきはイタリア公演が6月18日の一日のみ、ヴェネツィアで日程に上がっている点である。この公演こそがラウシェンバーグの世界的認知にとって決定的に重要であった点が後述される。
 「巴里のアメリカ人」と題された第一章ではまず、本論の前史とも呼ぶべき50年代後半のアメリカ美術とフランス美術の角逐が粗描される。抽象表現主義とアンフォルメルという名で呼ばれる動向の関係は今日もなお検討すべき多くの余地を残しているが、本書では比較的簡単に触れられている。ラウシェンバーグは1961年ニダニエル・コルディ画廊でパリにおける最初の個展を開く。興味深いことにはワールドツアーの三年前にラウシェンバーグの作品は既にパリで好意的に受け取られていた。おそらくそこには時代背景が強く関与している。アンフォルメルはこの時期既に退潮期にあり、レディメイドを使用したヌーヴォーレアリスムが勃興しつつあった。同様の傾向をもったアメリカの作家たちをパリの美術界が歓迎したとしても不思議はない。一方で同じ時期、ニューヨーク近代美術館ではウィリアム・ザイツが「アッサンブラージュの芸術」を企画していた。ピカソのコラージュに始まるこの展覧会は逆にこれら一群の作家をアメリカの文脈に組み込もうとする試みであり、これらをめぐる様々な資料を検証しながらアメリカとフランスの美術界の駆け引きが論じられる。一つの象徴的な事件は同じ61年にパリのアメリカ大使館で開かれた「デヴィッド・チュードアへのオマージュ」である。ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファールそしてラウシェンバーグ、ジョーンズらが参加したこのイヴェントはハプニングの歴史においても特筆すべき事件であったが、パリのアメリカ大使館で開催されたことに注意を喚起しておきたい。このイヴェントを企画したのは大使館の文化担当官ダルシア・スパイヤーであった。スパイヤーはニューヨーク近代美術館とも協力して50年代よりアメリカ美術の紹介に努めた。スパイヤーのごとき、これまで美術史においてほとんど知られることのなかったバイプレイヤーについてもていねいな検証を加えている点もこの研究の特色である。大使館に代表されるアメリカ政府とニューヨーク近代美術館の関係が必ずしもよくなかった点を本書は資料によって裏づけている。かかる事実によって例えば冷戦下においてアメリカ政府によって抽象表現主義絵画が一種の武器として使用され、自由主義陣営の盟主としてのアメリカ美術の優越が確立されたといった修正主義的な歴史観が相対化されるのだ。ポロックやロスコではなく、ラウシェンバーグに代表されるアメリカ美術をヨーロッパに紹介し、結果的に「アメリカ美術の勝利」に貢献したのはギャラリスト、イリアナ・ソナベンドであった。レオ・キャステリ前夫人でもあるソナベンドは画期的な手法によって未知のアメリカ人作家たちパリに導入し、その重要性を認識させた。詳しくは本書を読んでいただくのがよいが、一点だけ触れておくならば、私は「アート・インターナショナル」などに掲載された広告からソナベンドの戦略を読み取る分析に大いに感心した。トラックの後ろに画廊に所属する作家たちの名前が記された広告、封筒に入った招待状に同じ作家たちの名前が記された広告。これら二つの広告が伝えるメッセージを池上は次のように説く。「最初の広告が商品としての美術作品が輸送されるところを挑発的にイメージ化しているとすれば、次の広告はヨーロッパの観客に彼女の展覧会を見に来るよう、招待しているものだと読みとることができる」そしてさらに「ルイユ」に掲載された三枚目の広告がある。ヴェネツィアのサン・マルコ広場を望む運河の上に一人、ラウシェンバーグの名が配され、下に「イリアナ・ソナベンド、パリ」とのみ記されている。時系列に沿って並べるならば、これらの三枚の広告の中にアメリカから多くの作家をパリにもたらし、パリの美術関係者の目に触れさせたうえで、その中の一人をヴェネツィアへと送るという「アメリカ美術の勝利」の図式が暗示されているかのようだ。
 続いて本書のクライマックスとも呼ぶべきヴェネツィアのラウシェンバーグをめぐるエピソードが分析される。ここで焦点化されるのはラウシェンバーグとともにアメリカ館のコミッショナーを務めたアラン・ソロモンである。私ももちろんソロモンの名は知っていた。しかしそれは単に「1964年のヴェネツィア・ビエンナーレにおけるアメリカ館のコミッショナー」としてのソロモンであり、私は本書を読んで初めて彼が現代部門を創設した際のユダヤ美術館の館長であり、1970年に早世していることを知った。先にも触れたとおり、作家主義の陰でこれまで論じられることがなかった関係者に光を当てたところに本書の大きな意義がある。ラウシェンバーグにグランプリを与えるためにソロモンが練った戦略は本書の読みどころの一つであるから本書を参照していただくとして、ここではいくつかの発見のみを記しておく。例えばこの時のアメリカ館にはラウシェンバーグ、ジョーンズとともにモーリス・ルイス、ケネス・ノーランドというグリーンバーグ直系の色面抽象絵画も展示されていた。ここでルイスではなくラウシェンバーグが受賞したことはフォーマリズムの批評家たちにどのような感慨を与えただろうか。あるいはラウシェンバーグの作品がアメリカから軍艦で運ばれたというよく口にされるエピソードがあるが、これが真実でないことは本書に収録された写真の一枚、アメリカ軍の巨大なグローブマスター機の傍らでパレタイズされる作品のクレートを見るならば明らかである。しかしこの光景は著者も言うとおり、「それ自体がスペクタクル」であり、軍艦を用いて搬入されたという噂もあながち的外れではないことがわかる。ソロモンはラウシェンバーグの受賞に向けて様々な策略をめぐらすが、審査員たちに全面的に受け入れられた訳ではなかった。結果的に最終的な投票の直前に行われたカニングハムの公演が彼らに与えた心証が受賞へと道を開いた。この意味で、ワールドツアーのスケジューリングは絶妙だった訳である。このあたりの事情についても詳細な検証がなされている。しかしグランプリ受賞はラウシェンバーグにむしろ失意をもたらした。受賞に際しての陰謀説がささやかれ、奇妙なことにアメリカの美術ジャーナリズムも否定的に受け取られたのである。さらにラウシェンバーグのみが脚光を浴びたことによってダンス・カンパニーのほかのメンバーとの間に溝が生じたのだ。この章を終えるにあたって池上はこれらの事情があるにせよ、ラウシェンバーグの受賞が、ヴェネツィア・ビエンナーレをそれまでの西欧中心モデルからグローバル・モデルに変えたこと、そして現代美術の商業主義とスペクタル化の契機であった点を正確に指摘している。
 「ストックホルムでの衝突」と題された第三章は、9月初めのストックホルム公演について論じられている。ここでもいくつもの興味深い観点が提起されているが、注目すべきはこの章において緻密な作品分析が行われている点である。現在、ストックホルム近代美術館に収められている《モノグラム》は剥製の山羊とタイヤを組み合わせたラウシェンバーグのコンバインの代表作であるが、この作品はこの美術館のディレクター、フルテンの求めに応じてコレクションに加えられた。1962年には同じ美術館で「四人のアメリカ人」展が開催され、ラウシェンバーグを含む、ネオ・ダダ、ポップ・アート系の作家が紹介され、この前後、ヨーロッパ各地でこれらの作家が出品する展覧会が続いていたため、《モノグラム》はアメリカを含めいくつもの美術館が食指をのばしていた。ラウシェンバーグとフルテンを結ぶキーパーソンとして私は意外な名前を見つけた。ビリー・クリューヴァーである。彼こそは66年の「九つの夕べ―芸術とエンジニアリング」を企画したE.A.T.の中心人物であった。この試みにはラウシェンバーグも中心的な役割を果たしたから両者の関係は不思議ではないが、クリューヴァーがスウェーデン出身であることを私は本書で初めて知った。池上によると《モノグラム》がフルテンの美術館に収蔵されることはストックホルムでの公演の際にラウシェンバーグとの間で合意された可能性が高いとのことである。したがって64年にラウシェンバーグがストックホルムを訪れた際にはこの作品はまだ収蔵されていなかったのであるが、池上はダンス・カンパニーの公演とは別にラウシェンバーグがストックホルムで関わった「五つのニューヨークの夕べ」という連続パフォーマンス、とりわけ「エルギン・タイ」というパフォーマンスと《モノグラム》の関係を鮮やかに解き明かす。「エルギン・タイ」については私も以前より知っていたが、天井からラウシェンバーグがロープを伝って降下し、最後は牛を引いて退場するというパフォーマンス(牛を引いて退場するのは作家とは別人であることを本書で知った)が何を意味するのか全く理解できなかった。しかしこのパフォーマンスをコンバインという概念を手掛かりに《モノグラム》と関連づけて分析するならば両者の共通性が浮かび上がってくる。このあたりの分析の鮮やかさは本書中の白眉といってよい。池上はさらに後日談として、ヴェトナム戦争などを背景にしてストックホルムとニューヨーク、さらにはヨーロッパの美術家とアメリカの美術家の関係が次第に悪化する状況を素描して本章を終える。
 最後の公演地、東京においてもラウシェンバーグは熱狂的に受け入れられる。実は東京には既に彼を受け容れる素地があったのだ。59年に渡米した批評家東野芳明が早くからネオ・ダダの作家たちと知り合い、同じ64年にはジョーンズが南画廊で個展を開いている。ジョン・ケージやデヴィッド・チュードアはこれ以前に来日したことがあり、ティンゲリーも南画廊で個展を開いている。グランプリを獲得したラウシェンバーグはいわば真打ちとして最後に東京に現れたのであり、熱狂には理由があった。ラウシェンバーグにとって東京は初めて訪れる土地であったが、日本側には十分な作家についての知識があった訳だ。彼の来日をめぐる一連の騒動の背景にこのような情報の不均衡があったことは確かであろう。11月28日、東野芳明の企画によって草月会館で開かれた「ボブ・ラウシェンバーグへの20の質問」という公開質問会は戦後美術史において特筆されるべき事件であった。この質問会においては東野や篠原らがラウシェンバーグに電子化された音声や自らが制作したオブジェを用いて質問を発したが、作家は一言も答えず、壇上で金屏風のコラージュ《ゴールド・スタンダード》を助手の手を借りながら制作したのである。池上は関係者へのインタビューを通してこの出来事の模様を正確に再現し、様々な角度から分析を加える。さらに滞在中に制作され、これまでほとんど知られることがなかったいくつかのコラージュについても言及されている。そのうちの一つ、読売新聞の依頼で制作された《トーキョー》は実際に新聞紙上に掲載される可能性があったという。ヨーロッパの作家たちがカウンターパートとしてラウシェンバーグに対したのに対して、日本の作家たちは現代美術の「権威」たるアメリカ人作家にいかに対応したか。きわめて特徴的な例が篠原有司男の一連のイミテーション・アートである。かかる非対称を池上はホミ・K・バーバのミミクリ理論などと関連づけて論じている。そして東京公演はラウシェンバーグとカニングハムのダンス・カンパニーとの決別の場でもあった。公開制作への対応をめぐって、ラウシェンバーグはカンパニーから離脱することを決めて、両者の協働関係は最後の公演地で終わりを告げたのである。1964年のラウシェンバーグの活動、それが現代美術の神話をかたちづくる奇跡のような事件がであったことはこの一事によっても明らかであろう。本書では終章において65年以後のラウシェンバーグについて論じられている。グランプリ受賞は必ずしも評価につながらなかったが、これ以後、ラウシェンバーグがアメリカを代表する作家として認知されていく過程が短いサクセス・ストーリーとしてまとめられている。しかし通読するならば、作家の活動が最も刺激的であったのは、おそらくそれ以前であり、64年という年がメルクマールとなったことは明らかである。そしてそれは一人の作家にとってのブレイクスルーであっただけでなく、美術の覇権をめぐる重大な転機でもあったのだ。かかる二重性の認識とそれについての綿密な分析がこの研究の独自性を裏づけている。
 いささか長くなったが、ひとまず私はこの研究書の概略を示した。最初に述べたとおり、この研究の成功はテーマを設定した時点でほぼ明らかであったように感じられる。しかしながら、かかる壮大なテーマを具体的な研究として実現することはまた別の話だ。直ちに理解されるとおり、本書を準備するためにはラウシェンバーグのホームグラウンドであるアメリカはもとより、ダンス・カンパニーが巡回した四つの都市での徹底的な調査が必要となる。調査自体が文字通りのワールドツアーとならざるをえないのだ。博士論文の執筆に8年、英語版の出版までにさらに3年という時間はこのような事情を背景としているだろう。およそ半世紀前の関係者を探し出すだけでも大変な苦労が予想されるが、池上は先に名前を挙げた関係者のうち、例えばダルシア・スパイヤー、ポントゥス・フルテンあるいは篠原有司男といった存命する当事者に対しては直接インタビューを試みたことが註によって示されている。さらに英語、フランス語からイタリア語、スウェーデン語にいたる文献を渉猟して、発掘された当時の資料も実に貴重である。かかる研究が可能となった前提としては著者の語学力のほかに、これらの国で作品に関する二次資料がアーカイヴとして整備されていること、そしてそれを使いこなすリテラシーを備えている必要がある。実際に註を参照するならば、AAAを初めとする多くのアーカイヴをめぐって資料を検証した形跡が認められ、著者が日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴの立ち上げに参画し、今日にいたるまで多くの作家や美術関係者にインタビューを試みてきたことの動機も推測される。まことに労作と呼ぶべき研究である。この水準の研究が最初に英語で出版されたことは大きな意義があり、実際、あとがきでは原著に対するレオ・スタインバーグを含む世界各地からの反応の大きさについて触れられている。ラウシェンバーグのみならず戦後美術についての見方を一新するこの研究を著者の母語である日本語で読むことができるようになったことを私たちにとって大いに幸運であったといえよう。
 本書によって触発される問題は数多く、今後、ここで提起された問題に基づいてラウシェンバーグ、そして戦後美術の展開についてもさらに議論が深められることであろう。ひとまず私からは一点のみ話題を提供しておきたい。本書の中でも触れられているが、現代美術のグローバリズムの起源としては、50年代後半にも一つの先例がある。それはミシェル・タピエによるアンフォルメルの布教であり、とりわけしばしばタピエに帯同したジョルジュ・マチウは世界各地でアクション・ペインティングの実演を公開している。日本でも具体美術協会の招きに応じて大阪と東京で行ったアクションが有名であるが、今確認するならば1957年から59年にかけてマチウはヨーロッパ各地はもちろんアメリカそしてブラジル、アルゼンチンなどラテンアメリカでも公開制作を実施している。しかしながら今日、タピエそしてマチウの名が戦後美術の文脈で語られることは稀である。アンフォルメルのグローバリゼーションはなにゆえ挫折したのか。抽象表現主義とアンフォルメルの関係を再考するにあたってもラウシェンバーグとの対比は新しい視座を与えてくれるのではなかろうか。
by gravity97 | 2015-12-29 10:52 | 現代美術 | Comments(0)