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Living Well Is the Best Revenge

ティモシー・スナイダー『ブラッドランド』

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 実証的な歴史研究でありながら、本書の内容はまさに戦慄的だ。ブラッドランド、流血地帯とはバルト海と黒海の間、ドイツとかつてのソビエト連邦(以下、ソビエトと呼ぶ)にはさまれた地域である。何枚もの地図が示されるから、誰でもその広大な版図を具体的に知ることができる。現在の国名でいえば、ポーランド、ベラルーシそしてウクライナ。ヨーロッパ東部にあってこれらの国は決して貧しい地域ではない。肥沃な大地に恵まれたこの地域はむしろヨーロッパに食糧を供給する恵まれた土地であったはずだ。しかし1930年代後半から第二次世界大戦の終結にいたる期間、この地域は飢餓と殺戮、文字通りの地獄と化した。そしてさらに驚くべきはかくも凄惨な事実に関して私たちがほとんど無知であったことだ。その理由についても本書はいくつもの示唆を与える。大著ではあるが、まことに読み進むのが辛く、それゆえレヴューまでに時間がかかったことを言い添えておく。
 1940年前後の東欧で多くの流血があったとするならば、通常私たちは次のように理解するだろう。おそらく犠牲者の大半は絶滅収容所に連行されたユダヤ人であり、それはヒトラーの指示のもとに遂行された人類史においても未曾有の犯罪であったはずだ。この認識は一面では正しい。しかし本書を通読するならば、それが氷山の一角にすぎないことが直ちに理解される。ブラッドランドにおいてはソビエトとドイツ、二つの国家の間で、スターリンとヒトラーという悪魔のごとき指導者のもと、一つの民族、一つの階級を根絶するという想像を絶した政策が幾度となく遂行されたのだ。単にドイツの東、ソビエトの西に位置する地域に居住したという理由によって、無数の人々がいわれのない無残な死を遂げた。著者は冒頭で次のように述べる。「ヨーロッパで起きた大量殺人は、たいていホロコーストと結びつけられ、ホロコーストは迅速な死の大量生産と理解される。だがこのイメージはあまりに単純ですっきりしすぎている。1933年から45年までの間に流血地帯で殺された1400万人の民間人と戦争捕虜は食糧を絶たれたために亡くなっている。つまりヨーロッパ人が20世紀の半ばに、恐るべき人数の同胞を餓死させたというわけだ」
 恐るべき大量殺戮は1933年にスターリン治下のソビエト、ウクライナで幕を開ける。1932年までにスターリンは第一次五カ年計画によって工業化と集団化を強力に推進し、土地と自由を農民たちから収奪していった。さらにスターリンは富農(クラーク)と呼ばれる階級の絶滅を宣言する。それは革命につきものの一種の階級闘争ともみなされようが、誰が富農かという判断は国家によってなされたのだ。富農たちは強制移住させられ、シベリアからカザフスタンまで連なる強制収容所(グラーク)に収容され、強制労働を課せられた。本書には割れた陶器や素手によって凍土を掘って建設された運河についての言及がある。直ちに記憶が蘇った。この運河とはかつてソルジェニーツィンが「収容所群島」において「手押し車とツルハシだけでわずか20カ月の間に建設された」と表現した北海運河(ペロモルカナル)のことだ。農場が集団化されたことで食糧は国家によって統制されることとなった。食糧の供給が国家によって管理される中で、スターリンは殺人を政策として実行した。つまり一つの地域から食糧を強制的に徴発することによって、おびただしい人々を意図的に餓死させたのである。本書においてはブラッドランドを舞台にソビエトとドイツという二つの国家が殺人を正式の政策とて採用し、官僚たちの手によって計画的に遂行されたという事実が白日の下にさらされる。その結果生じる事態、例えば1932年から33年にかけてウクライナに生じた飢餓地獄、カニバリズムと餓死の蔓延についてスナイダーは多くの資料を駆使して具体的に記述する。読むのも辛いこれらの悲惨が「政策」として貫徹されたとはにわかには信じがたい。以前、このブログでジャスパー・ベッカーの『餓鬼』をレヴューした際、1950年代後半、中国の大飢饉においても同様に土を食う人々が存在する一方で倉庫には穀物が蓄えられていたことについて触れた。同じ状況がウクライナでも発生していた訳であり、この点は独裁的な共産主義国家においては国家が人民の生殺与奪の権限を握っていたことを暗示しているだろう。何人かの西側のジャーナリストが飢餓の状況を伝えている。しかしこの事実は西側に明確に伝えられることはなかった。一つには飢餓で苦しむ地域があったとしても、そこを通過するだけのジャーナリストたちにとってそれは単に地域的な凶作、一時的不運と認識され、政策の結果としてもたらされたとは信じることができなかっただろう。そして50年代の中国同様に、政治家など重要人物の訪問にあたってはかかる状況は巧妙に隠蔽され、革命に対する左翼的な知識人のシンパシーも働いて、よもや人為的な飢餓が発生しているとは想像できなかったのであろう。
 富農たちを対象とした階級テロルに続いて民族テロルが吹き荒れる。そのターゲットはドイツとソビエトにはさまれた地域に住むポーランド人たちであった。NKVD(内務人民委員部)という秘密警察がベラルーシやウクライナでポーランド作戦と呼ばれる民族虐殺を開始した。1937年に彼らに示された命令00485号は「ポーランド軍事組織のスパイ網を完全に排除すること」を求めた。彼らは拷問と密告によってたやすく反革命のスパイを見つけ出し、逮捕することができた。でっちあげられた彼らの罪状についての報告書をアルバムにまとめてモスクワに送り、係官が確認する「アルバム方式」と呼ばれる裁判においては一日に2000件の死刑判決が行われたこともあったという。そして複雑な政治状況がこの地にさらなる混迷を生む。1939年8月、政治的に和解しうるはずもないファシズムと共産主義、ヒトラーとスターリンはポーランドの抹殺のために奇怪な妥協を行う。モロトフ=リッペントロップ協定、いわゆる独ソ不可侵条約によって、ポーランドはバルト海と黒海を結ぶモロトフ=リッペントロップ線なる境界によって国土を二分された。この結果、ポーランドの東側はソビエトに、西側はドイツに組み込まれ、いずれの側であろうとこの地に住むポーランド・ユダヤ人たちを残忍な死が待ち受けることとなった。この直後の9月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、これを理由としてソビエトもまたポーランドに進駐した。ソビエトはポーランド人に対してきわめて苛酷な政策によって民族の抹殺を図る。一つは知識人層を絶滅する「斬首作戦」である。奇しくもヒトラーも次のように述べている。「奴隷階級に貶めることができるのは、上層部を失った民族だけだ」私たちは例えば文化大革命下の中国、クメール・ルージュのカンボジアにおいてまず知識人たちが迫害され、虐殺されていったことを知っている。本書を読んで私はようやくこの意味を理解した。一つの国家、一つの民族を奴隷化するためにはまず知識人層を根絶することが必要なのだ。このような施策の残酷さについてスナイダーは次のように説いている。「(ポーランドの知識人層の抹殺は)近代性という概念そのものへの、あるいはこの国の啓蒙思想を体現する存在への攻撃にほかならなかった。東ヨーロッパの社会にとって『知識階級』は誇りであった。彼らは民族のリーダーとしての自覚を持ち、特に国家を失い苦境に陥った時期には、書くこと、話すこと、そして行動によって民族の無かを守り、継承していく役割を担っていた。(中略)二つの占領国による大量殺人はポーランドのインテリゲンツィアがその歴史的使命を立派に果たしたことを示す悲劇的な証拠だったのである」続く抹殺の第二段階としては、ソビエトとドイツでは異なった手法が用いられた。ソビエトは自国の法制度をポーランド東部に持ち込み、多くの人々を意志とは無関係に強制移住させることを可能とした。広大な不毛の地を擁することによって初めて可能となる施策であるが、かかる政策の下、多くのポーランド人が中央アジア、シベリアに追放されて多くが餓死した。ここでも一つの文学的記憶が蘇った。かつて私は李恢成の「流域へ」という小説を読んだことがある。この小説においてはソビエト崩壊後、在日朝鮮人である主人公が当局の招きに応じて、中央アジアを訪れるのであるが、その目的はスターリンによって沿海州から強制移住させられた高麗族、いわゆるロシア朝鮮人の状況を視察するためであった。この小説を読んだ際にはなぜ朝鮮人が中央アジアに移住させられたのか理解できなかったが、本書を読んで得心した。当時満州を経由して日本がソビエトへ侵攻することを恐れていたスターリンにとって、日本と内通する可能性のある東洋系の民族を全く縁故のない土地に追放することは意味があったのだ。一方、ドイツはここで初めて安楽死という政策を導入する。新たに領土に加えられたヴァルテラント国家大管区において、アルトゥール・グライザーという司令官は精神病院の患者を銃殺と一酸化炭素によるガス殺に処した。ドイツ国内の精神病者、身体障害者、ジプシーらも「存在に値しない命」としてガス殺されるまで、ほとんど時間は必要とされなかった。この章の記述の中には先日、レヴューしたシンガーの「不浄の血」の舞台となった地名が何度も登場する。さらに一人の日本人の名前も記されている。リトアニア領事の杉原千畝である。出国ビザを発給して多くのユダヤ人を救ったことで知られる杉原はポーランド人将校にも脱出ルートを提供した。本書において杉原はソビエトの機密に通じたインテリジェンスの専門家として描かれている。
 1941年6月22日、ドイツは奇襲攻撃によってソビエトに侵攻した。これによってブラッドランドの歴史は新しい時代に入った。スナイダーは次のように総括する。「第一期(1933-38)にこの地で起きた大量殺人はほとんどがソビエトによるものであった。第二期(1939-41)には両国はほぼ同数の人々を殺した。第三期(1941-45)にはドイツによる政治的な殺人が大半を占めた」独ソ戦ほど悲惨な戦争は例がないだろう。この問題についてはすでにこのブログで論じた「イワンの戦争」において詳しく分析されていた。この戦争はファシズムと共産主義の間の殲滅戦であり、一切の妥協はなかった。当初の戦闘で100万人規模のソビエト人捕虜が発生した。しかしドイツ軍はこれらの捕虜に一切人道的な配慮を払わなかった。ヒトラーはソビエト兵を虐待することによって、逆の立場であれば自らも処刑されるという恐怖心をあおったのだ。「アポカリプスの経済学」と題された第五章においてはこのような捕虜の虐待と虐殺の事例が延々と記述される。戦局が悪化したことをヒトラーはユダヤ人組織の陰謀とみなす。ソビエトの侵攻にユダヤ人の虐殺によって応酬するという倒錯した論理が成立した。そしてドイツに対するパルチザン活動も活発化する。1942年5月27日、ユダヤ人問題の「最終解決」を提案し絶滅政策の中心であったラインハルト・ハイドリヒが暗殺される。いうまでもなくこのような抵抗に対してナチス・ドイツは残忍きわまりない報復で応じるが、この事件をきわめて斬新な視点で小説化したローラン・ビネの「HhHH」についても既にこのブログで論じた。スナイダーはこのような抵抗と弾圧の最大の例として翌年のワルシャワ・ゲットー蜂起についても詳しく検証している。かかる殺戮の応酬、熾烈な殲滅戦の果てに、ソビエトはじりじりと反攻し、モロトフ・リッペントロップ線以西を次第に領土として回復しながらベルリンに迫った。大戦末期にソビエト軍はこのような「死の工場」をいくつか解放する。彼らはそれが一つの民族を効率的に絶滅するための場所であることを知り、この戦争の最も悲惨な部分を知ることになる。これらの絶滅収容所の「解放」に立ち会ったのが、このブログでレヴューした「人生と運命」の著者、ワシーリー・グロスマンであった。私は本書を読んでクロスマンがかかる大著を執筆した動機がよく理解できた。あるいはこの小説に向けられた「『人生と運命』は読むのではなく、すべてはこんなふうではなかったと―現在あるもののためにこれほどの犠牲は払われなかったと―遠慮がちに願いながら、それを生きてみる本である」という言葉の意味もまた理解できたように感じる。今日、私たちがブラッドランドについての文学的考察を「人生と運命」以外にほとんど知らないことは、ソビエト当局の弾圧の厳しさを暗示しているかもしれない。ソビエトによる絶滅収容所の解放は複雑な意味をもつ。彼らはこれらの施設の意味を知り、直ちに別の目的に転用した。今度はドイツ軍の捕虜、そして実に皮肉なことにドイツ軍によって捕虜とされたソビエト軍捕虜もまたスパイ容疑でこれらの収容所に収監されたのだ。多くの絶滅収容所がソビエトの手によって解放されながら、そこで行われていた蛮行が当初明らかとならなかったことは一つにはこのような理由による。このような収容所の例としてはアウシュヴィッツがよく知られているが、実はこの収容所は強制労働施設と殺害施設を組み合わせた特殊な施設であり、ヘウムノ、ソビブル、トレブリンカといった絶滅を目的とした収容所とは異なっていた。アウシュヴィッツでは骨と皮のような囚人が解放されたが、この点は囚人たちがまだ生きていたことを示している。東側にあった収容所ではユダヤ人たちは到着後数時間内に殺されていたのだ。これらの収容所の体験を扱ったフィルムがクロード・ランズマンの「ショアー」であり、ナチス・ドイツの絶滅政策の徹底性は連合国側の想像をはるかに絶していたといえよう。
 ナチス・ドイツの敗北もまた新たな暴虐を呼び込む。「イワンの戦争」にも記されていた通り、男たちが戦場に駆り出された地で赤軍の兵士たちはその地にいた女性たちをことごとく強姦し、老人や子供たちを殺害しながら西進した。スナイダーはこの暗澹たる歴史を粗描したうえで、戦後、ポーランドの国境を画定するうえでスターリンが行った強制移住による民族浄化について記述する。かかる民族の撹拌が土地にまつわる虐殺の記憶を薄め、証拠を失わせたことに疑いの余地はない。スターリンにとってはこの大戦で最も大きな犠牲を払ったのはユダヤ人ではなくてソビエトのロシア人でなければならなかった。これゆえブラッドランドにおけるユダヤ人の運命は意図的に隠蔽されたのである。「スターリニストの反ユダヤ主義」と題された章においては、戦後においてスターリンが繰り広げたユダヤ人弾圧のためのいくつもの謀略が論じられる。確かこれらの事件についても「人生と運命」の中で語られていたはずだ。
 それにしてもなんと多くの人の命が奪われたことであろうか。「人間性」と題された最終章でスナイダーは次のように記す。

ナチス政権とスターリン主義政権は、流血地帯で合わせて1400万人もの人々を殺害した。そのはじまりは、スターリンが政策として指示したソヴィエト・ウクライナの飢饉だった。これにより300万人以上が命を奪われた。さらに1937年、38年とスターリンの大テロルによって殺戮が続き、およそ70万人が銃殺された。その大半は農民か民族的少数派の人々だった。その後ソ連とドイツは手を結び、協力してポーランドとその知識人層を破壊し、1939年から41年までの間におよそ20万人を殺害した。やがてヒトラーがスターリンを裏切ってソ連侵攻を命じると、ドイツはソヴィエト人捕虜と、包囲したレニングラードの住民を故意に飢えさせ、400万人以上を死に追いやった。ドイツは占領下のソ連、ポーランド、バルト諸国でおよそ540万人のユダヤ人を銃殺またはガス殺した。ドイツとソ連は互いに煽りあい、さらに大きな罪を重ねた。ドイツが民間人50万人以上を殺害する結果となったベラルーシやワルシャワのパルチザン戦争はその一例だ。

 あたかも本書のアブストラクトのごとき総括であるが、ここで注意しなければならないのは、著者のスナイダーが本書の中で一貫して、これらの人々の生に意味を与えようとしていること、彼の言葉を借りるならば「数字を人に戻す」ことを試みていることだ。1400万人の死、私たちはこのような数字の前にたじろぐ。例えば今、日本でも歴史修正主義者たちが南京大虐殺の犠牲者の人数を「修正」することによって、それが取るに足らない事件であったかのように歪曲する工作が続けられている。もちろん多くの人が殺されたことは事実として認識されるべきである。しかし私たちはそれを数字の多寡の問題とみなしてはならない。最終章でスナイダーは一つの提案をする。大量虐殺の犠牲者、私たちはそれを数百万人という末尾の位をゼロとする「丸い」数字で表現する。しかし概数ではなく実数として理解してはどうか。例えばトレブリンカに送られた人数を約80万人ではなく、78万863名と記述する時、私たちは末尾の3名に思いを向けることができる。具体的にはそれらの三人が本書で語られた犠牲者たちの一人ではなかったかと想像することができるというのだ。それによって失われた三つの命が代替不可能なかけがえのないものであったことを私たちは知る。なぜそうしなければならないのか。本書の最後に記された次の言葉は実に重い。

ナチスとソ連の政権は、人々を数値に変えた。その中には、推定することしかできないものもあり、かなり正確に洗い出せるものもある。われわれ研究者の責務は、それらの数値をさがし出し、総合的な見地から考察することだ。そしてわれわれ人間主義者(ヒューマニスト)の責務は、数値を人に戻すことだ。それができないとすれば、ヒトラーとスターリンは、この世界を作り変えただけでなく、われわれの人間性(ヒューマニティ)まで変えてしまったことになる。

 様々な文学的記憶をたどりながら本書を読み継いで、私はこの言葉に深く共感する。ブラッドランドの死と生を数字ではなく個の体験として読み解くことは研究者のみならず私も含めた文学に携わる者にとっても決定的に重要ではないだろうか。そしてブラッドランドの体験は決して私たちと無関係ではない。しばらく前のブログで私は石原吉郎の生と詩について論じた細見和之の評伝について触れた。いうまでもない。シベリア抑留とは日本人によるブラッドランド体験にほかならない。奇しくも先月号の『現代詩手帖』では石原吉郎が特集されている。巻頭の細見を含む三人の鼎談と本書は私にとって地続きのように感じられた。関心のある方は是非併読していただきたい。
 そして本書で論じられた狂気ももはや他人事ではない。マイノリティーに対する憎悪をこめた差別が公言され、人文科学に関する学知が軽んじられる現在の日本とヒトラーが台頭した時期のドイツは不気味なほど似ている。いちいち具体的な事例を挙げずとも理解できよう。検閲と恫喝、密告と監視、戦時体制に向けて着々と準備を進める現在の政権が存在する限り、本書で検証された地獄、ブラッドランドがいつ日本で再現されても不思議はない。まことに時機を得て訳出された戦慄すべき研究といえよう。
by gravity97 | 2015-12-06 21:07 | ノンフィクション | Comments(0)