2015年 11月 03日
「Re: play 1972/2015」
展覧会の内容はサブタイトルによって明確に示されている。「『映像表現’72』展、再演」というサブタイトルは、この展覧会が1972年に京都市美術館で開催された《映像表現”72》(展覧会のタイトルの表記についてもテクスト・クリティークの必要を感じるが今は措く)を2015年に東京国立近代美術館で「再演」する内容であることを暗示している。実は過去の展覧会を「再演」する試みは近年流行している。このブログで取り上げた展示だけでも1966年、キーナストン・マクシャイン企画の「プライマリー・ストラクチュアズ」と1969年、ハロルド・ゼーマン企画の「態度がかたちになる時」がそれぞれニューヨークとヴェネツィアで「再演」された例がある。これらと比しても、京都市美術館の「展示」の再現は困難をきわめる。なぜならそこに展示された作品はタイトルが示すとおり、ほとんどが映像であって実体をもたないからだ。実体をもたない作品の「再現」は可能か。コンセプチュアル・アートの核心と関わる問題が展覧会をとおして提起され、今回の展示はこの問題にまさに正面から挑んでいる。
この展覧会については展示構成というリテラルなレヴェル、映像の再現というテクニカルなレヴェル、そして付随するテクストに関わるテクスチュアルなレヴェルから論評を加えることができよう。まず展示構成についていえば、最近この美術館においてしばしば試みられているように、今回も建築家、具体的には西澤徹夫が会場構成にあたっている。会場構成に専門の建築家を配する余裕など今や国立美術館以外にはありえないと嫌味の一つも言いたくなるが、今回の展示にとって建築家の協力は必要不可欠であったはずだ。会場はチャイニーズ・ボックス、入れ子状の構造をとり室内にもう一つの部屋が設置され、その周囲を取り囲むように細いコリドーが設えられている。内部の部屋にかつての京都での展覧会を「再現」し、周囲に作品についての情報や現時点における出品作家の回想を交えたインタビューなどを配置するという趣向だ。したがって周囲をめぐってから展覧会の「再現」に向かった方が展示を理解しやすいが、私の記憶では順路についての明確な指示はなく、それどころか監視員が先に内部の部屋へ誘導していた場面もみられた。もちろん展示をどのような順で見るかは観衆の自由に任されているとはいえ、入口に展覧会の構成についてもう少し詳しい説明なり指示があった方が親切ではないだろうか。きわめてマニアックな展覧会であるから関係者しか訪れないという想定があるのかもしれないが、以下でも論じるとおり、今回の展示は全般に説明不足という感が拭えない。展示構成についてさらに続けよう。72年の京都市美術館の展示を「再現」するにあたって、西澤は建築家らしい緻密な検証を続ける。会場図面は残されていないから、西澤は当時の写真と実際の京都市美術館の展示室の図面、そして作家たちの記憶に基づいて東京国立近代美術館の展示室の内部に同じ空間の再現を試みる。会場にはその手続きについても詳しい説明があり、確か技術的な制約もあって、実際には90パーセントの縮小として会場が再現されているとコメントされていたのではなかっただろうか。展覧会の内容については今回カード形式で再現された「展覧会カタログ」中、企画者の説明の中に明確に総括されている。少し長くなるがそのまま引用する。
「第5回現代の造形〈映像表現72〉―もの・時間・空間―Equivalent Cinema」展は、1972年10月14日-19日、京都市美術館で開催された。エンドレスで上映するためにフィルムが蜘蛛の巣のように張り巡らされた薄暗がりの会場では16名の造形作家による作品の映写機やヴィデオデッキ、スライドプロジェクターの機械音が響き、そこかしこの壁やモニター映像が明滅していた。暗闇で終始着席したまま映像に没頭する映画館から美術館へと場所を移し、複数の作品が同時に上映される中を観客は動き回り、どの映像から見るのも、どれだけ見るのも自由。このような映像展は日本では初、世界的に見ても先駆的な試みであった。
この要約は同じ企画者による、同じ時代のアメリカのヴィデオ・アートを対象としたもう一つの展覧会「ヴィデオを待ちながら」と比較する時、意味をもつ。「ヴィデオを待ちながら」についてもこのブログでレヴューしたが、出品されたヴィデオ作品はTVスクリーンを関して淡々と上映され、近年の映像展示でおなじみの大掛かりなヴィデオ・インスタレーションは一切用いられていなかった。ヴィデオという媒体がかかる制約の根拠であるが、同時に私たちは作品を順番に一定の時間見ながら会場を巡ることとなった。そこでは作品の意味は映像の中のみにあり、上映形式にはなかった。これに対して今回の展示は今引いた文章に明らかなとおり、複数の映像がエンドレスに上映されている会場を来場者は主体的にめぐり、映像のみならずそれを取り巻く環境を知覚する。今回の展示の場合、上映されていた映像をヴィデオ化して、順番に上映することは全く意味をもたない。私たちが映像を見る状況も作品の一部なのであるから。一種現象学的なこのような問題意識を念頭に置く時、企画者が特にこの展覧会を選んで「再現」したことに関する次のような説明は容易に理解できるだろう。
「映像表現’72」をこの「再演」の対象に選んだ理由は「[…]スクリーン以外の空間が映画を見ることにより排除されることのない。時間と空間がいわゆる映画に収斂されることのない。つまり〈映画における時間と空間〉と〈観客における時間と空間〉が等価な〈映像と人間〉との関係としての〈場〉が設定できないだろうか」という「映像表現‘72」のもくろみが、「出来事としての展覧会」、「状況・布置としての美術」という在り方の、新たな可能性を指し示すものと思われたためである。
本展は先に同じ会場で開かれた「No Museum No Life?」同様に自己参照的な内容であるが、参照された展覧会そのものきわめて自己言及的であったことが示唆される一節である。等価の映画、equivalent cinema という謎めいたサブタイトルの意味も了解されよう。実際に今回の会場でも薄暗い室内を私たちは作品を特に順番を決めずにめぐり、時に映像の前に滞留し、時に映像の横を通り過ぎる。このような作品のリテラルな併置は「態度がかたちになる時」などにも共通し、当時の美学的気風を示しているが、映像を主体とする展覧会としてかかる展示が実現されたことはなんともラディカルであり、それが実行委員会形式で作家たちによって主導されたことに驚く。1970年の「人間と物質」の京都巡回以来、京都では多く作家たちが主体的に関与して京都アンデパンダン展や「京都ビエンナーレ」といった展覧会が陸続と開かれた。これらの展覧会の詳細については美術館との関係も含めて今後検証されるべきであろう。
「映像表現‘72」の出品作家は16名。河口龍夫、植松奎二、庄司達、村岡三郎あるいは野村仁といった今日まで活動を続ける作家もいるが、数名の作家について私は初めて名前を知った。解説によると中心となってこの展覧会を企画したのは松本正司であるらしいが、私はこの作家についてはほとんど知るところがない。私が関西の現代美術に接することとなったのは1980年代に入ってからであるから、10年ほどの空白はなんとももどかしい思いだ。それにしてもあらためて驚くのはこれらの多様な作家たちが皆、映像という表現に積極的に取り組んでいる点である。確かに山本圭吾や今井祝雄らは早くから映像や写真表現を積極的に取り入れており、この分野におけるパイオニア的存在である。しかし今日私たちは長沢英俊や村岡三郎を立体の作家として、庄司達はファイバーワークの作家として理解している。この点は当時、映像表現がジャンルを超えて注目を浴びていたことを暗示する。このような関心は一体どこからもたらされたのであろうか。この点についても今後の研究が待たれる、写真作品として知られる須磨海岸の干満を記録した作品を河口龍夫が映像としても発表していたこと、柏原えつとむの人を食ったような作品、おそらくは「視覚のブラウン運動」へと展開される野村仁の比較的早い時期の作品、そして山中信夫のピンホールカメラ(私は二度中に入ったが映像を確認することができなかった。果たして機能していたのであろうか)。「再現」された作品は多くの発見を誘いつつ、私たちを一つの漠然とした疑問へと差し向ける。それは出品された作品がかつて京都市美術館で上映された作品と同一であるという保証はいかにして得られるかという問いであり、かくして私たちは先に述べた二番目のレヴェル、テクニカルな審級における作品の同一性という問題に直面する。この展覧会では厳密に全ての作品が「再現」された訳ではなく、いくつかの作品については作品が上映されていた場所に作品についてのメモのみが残されていた。映像もしくは上映形態についての記録が残されていなかったための処置であろうが、この意味において今回の展示は72年の展示の完全な再現ではない。もちろん私はこれを批判するつもりはないし、それどころかかかる困難を乗り越えて多くの作品が再現された点には敬意を表したい。映像とはテクノロジーと深く結びつき、媒体と密接に関わっている。例えばこの展示でしばしば使用された8mmフィルムは今日ほとんど目にする機会がなく、ネガが存在しないため複製も不可能だ。私は技術に詳しくないが、おそらく今回の展示ではオリジナルのフィルムを上映し、その映像をヴィデオなどの別の媒体によって記録し、あらためて会場で上映するというきわめて倒錯された手法がとられたはずである。8mmからヴィデオに媒体が変わることによって作品の本質に変化が生じるか否かは難しい問題だ。しかしながらこの展示が映像そのもの以上に提示の形式を主題化しており、例えば彦坂尚嘉の8mmフィルムを「蜘蛛の巣のように」張り巡らして一種の無限ループとして成立させた作品など、具体的な機材や建築を作品の中に取り込んでいることを勘案する時、機材の変更は展示の内容にも関与するように思われる。作品にとって関与的/非関与的な要素の区別はこの展示の根幹と関わっているはずだ。準備と展示、どの時点で撮影されたものか不明であるが、東京国立近代美術館のホームページには当時の会場の様子を記録した写真がアップされているので下に示す。
今回、私は上映された作品についてはほとんど論じることがなかった。紙数の関係もあるが、今回の展示の意味が個々の作品ではなく、展覧会の再現というメタレヴェルに存すると考えるからだ。比較的短い時間で薄暗い会場をめぐったため、見落としや事実誤認があるかもしれない。その場合はコメントにて指摘いただきたい。作品について論じていないこともあり、かなりわかりにくいレヴューとなってしまったのではないかと危惧するが、かかるチャレンジングかつ概念的な展示にまともに応接する記事を今日の美術ジャーナリズムに期待することはできない。ひとまず所感を記し、記録として留める。