柴田元幸編・訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』

 b0138838_20594614.jpg柴田元幸翻訳叢書の一冊として「ブリティッシュ&アイリッシュ マスターピース」というアンソロジーが刊行された。タイトルが示すとおり、いわゆるイギリス文学の名作短編12編を束ね、柴田の名訳で紹介するという趣向だ。1729年のジョナサン・スウィフトから1955年のディラン・トマスまで年代順に並べられたラインナップはなるほど世評の高い作品揃いだ。しかし私がこれまではっきりと読んだ記憶があるのはW.W.ジェイコブスの「猿の手」と、確か高校時代であったか、英語のリーダーで原文を読んだジョージ・オーウェルの「象を撃つ」くらいであるから、これらの短編に目を通すよい機会となった。
 すでにこのブログではボルヘスがコンパイルした名高い「バベルの図書館」の中の一冊、アメリカ篇についてレヴューしている。ボルヘスのアンソロジーはとにかく長大で読み終えるのに少々時間がかかったが、本書は一日あれば簡単に読み終えることができる。しかしボルヘスと柴田のセレクションがよく似ている点は興味深い。実はこのアンソロジーには対をなす「アメリカン・マスターピース 古典篇」という一書がある。こちらは未読であるが、そこに収められたホーソーンの「ウェイクフィールド」やメルヴィルの「書写人(ボルヘスでは代書人)バートルビー」は「バベルの図書館」にも収められており、採られた作品こそ異なるが、エドガー・アラン・ポーやジャック・ロンドンも両方のアンソロジーに収められている。アルゼンチンと日本、異なった国でそれぞれ一流の文学者が英語圏に関して比較的限られた作家、作品を選んでいる訳だ。さらにこれらの小説が内容的にも似通っている点も注目されてよいだろう。本書に収められたメアリー・シェリーの「死すべき不死の者」、チャールズ・ディケンズの「信号手」、そしてジェイコブスの「猿の手」、この三つの短編を一言で表現するならば「怪談」である。以前のレヴューで私は「バベルの図書館」に収められたアメリカの短編の特質を「奇譚」と定義した。「怪談」と「奇譚」、それらは英語で書かれた小説の本質とまでは言わずとも、一つの脈々たる系譜をかたちづくっているのではないか。本書を読んで私は今挙げたイギリスの三つの短編のうち二つの小説で扱われた主題が後代のアメリカ人作家によっても変奏され、別の長編に生かされていることに気づいた。すなわち「死すべき不死の者」に対するH.P.ラブクラフトの「チャールズ・ウォードの奇怪な事件」における不死という主題、そして「猿の手」に対するスティーヴン・キングの「ペット・セマタリー」における死者の帰還という主題である。この系譜の起源は、いわゆるゴシック・ロマンスに求めることができるだろう。かかる主題系がなぜ英語圏において成立したかについてはおそらく先行研究も存在しているだろう。私は英米文学を専門とする訳でもないから、ここでは収録された短編についてひとまず感想を記しておくに留める。
 冒頭のスウィフトの短編は「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」という長いタイトルが付されている。貧民の子供を食用に供すべしというまことに人を食った文章であるが、柴田も指摘するとおり、全編にみなぎる皮肉と風刺の棘は強烈に私たちを刺す。同じ作家の「奴婢訓」を寺山修司が同名の舞台として上演したことはよく知られているが、いずれも黒い諧謔に満ちた怪作であり、そこには「塩なしでもわが国(いうまでもなくアイルランド)を丸ごと喜んで喰らいつくし」、「奴婢」に対して主人然としてふるまうイングランドへの憤怒に近い反感がうかがえる。シェリーの「死すべき不死の者」、ディケンズの「信号手」、ジェイコブスの「猿の手」そしてウォルター・デ・ラ・メアの「謎」は先にも述べたとおり、いずれも怪奇小説の傑作である。短い作品ばかりであるから、手に取って読んでいただくのがよいが、ディケンズといった巨匠、そしてシェリーのごとき女性作家がこのようなテーマのみごとな短編をものにしていることには少々驚く。もっとも「荒涼館」の作家にとってこの程度の怪談は余芸の域を出なかったことは大いにありうるし、ヴァージニア・ウルフやエミリー・ブロンテといった作家を想起するならば、女性作家とこのようなテーマとの親近性を理解することも容易である。これらの怪談の間にはオスカー・ワイルドの「幸せな王子」が配されている。この短編を太宰治における「走れメロス」と比較する柴田の解説は的を射ている。柴田によればいずれも「決してストレートに教訓的、道徳的ではない作家が書いた、教科書に載せても大丈夫そうな、友情や自己犠牲の物語」である。確かに私も、「幸せな王子」については小学生向けのジュヴナイル・ヴァージョンであったように記憶するが、ともに学校の教科書で読んだ記憶がある。続くジョゼフ・コンラッドの「秘密の共有者―沿岸の一エピソード」は短編とはいえ、本書中では最も長く、読み応えがある。コンラッドについては既にこのブログでも「闇の奥」についてレヴューしたことがあるが、この短編も具体的な情景を描写しているにもかかわらず、文章の抽象度が高く、一筋縄ではいかない。文体の特殊さが直ちに伝わる内容である。おそらく柴田も翻訳に苦労したのではないだろうか。この短編はジャンル分けするならば「海洋奇譚」に属するだろう。船員たちを十分に掌握しえていない船長と他の船から逃れてきた密航者の葛藤をめぐる物語は読み飽きない。ポーランド語を母語とするコンラッドをイギリス文学の直系とみなすかはともかく、コンラッドにはこのほかにも多くの海洋小説がある。興味深いことに海洋小説を執筆したのはコンラッドだけではない。今回のアンソロジーには含まれていないが、コナン・ドイルにも海洋を舞台とした一連の小説があり、かつて新潮文庫から刊行されていた分冊形式のドイルの短編集のうち一冊は「海洋奇談編」と銘打たれていたはずである。イギリス文学のサブジャンルとしての海洋小説というテーマも一つの研究の主題たりうるだろう。続くサキの「運命の猟犬」もまた奇譚と呼ぶべき小品であり、私は先に触れたホーソーンやメルヴィルの短編を連想した。ジェイムス・ジョイスからは二編、「アラビー」と「エヴリン」が採られている。いずれも市井に生きる人物の生の一断面を切り取った佳作であり、これらからの断片から構成されたのが連作長編「ダブリン市民」であるという。機会があればこの長編も読んでみたいという思いに駆られる。オーウェルの「象を撃つ」はタイトルの通り、逃げ出して暴れまわる象をミャンマーに駐留するイギリス人の巡査がライフルで撃つという物語だ。オーウェル自身、ミャンマーで官吏を務めた経験があるというが、この物語がどの程度実話に基づいているかはわからない。明らかにこれは一つの寓話であろうが、その寓意を解くことは容易ではない。そして最後に収められたディラン・トマスの「ウェールズの子供のクリスマス」は詩人として知られる作家の追想風の短編である。タイトルどおり子供時代のクリスマスの思い出が語られるが、降り続く雪やクリスマス・プレゼント、そしてクリスマスの御馳走の描写からは誰もがディケンズの「クリスマス・キャロル」を連想するだろう。余談となるが、一読した後、トマスの詩を最近どこかで読んだなという思いがあり、しばらく考えて思い出した。クリストファー・ノーランの「インターステラー」だ。地球に残された科学者が宇宙飛行士たちに呼びかける際にトマスの詩が引用されていた。
 いつになく雑駁に感想を書き連ねたが、このようなとりとめのなさはここに収録された作品を反映しているかもしれない。それでは翻ってこれらのイギリス文学に何らかの共通性を認めることができるだろうか。柴田自身はあとがきの中でアメリカ文学と比較しながら次のように述べている。「一般に―と、乱暴な一般論を展開すると―米文学は遠心的であり英文学は求心的である。キャッチコピー的に言うと米文学は荒野をめざし英文学は家庭の団欒へ向かう。」柴田の言わんとするところはなんとなくわかる。私が好きな作家で、これまでにこのブログで取り上げた作品から例示するならば、例えばコーマック・マッカーシーの「ブラッド・メリディアン」とカズオ・イシグロの「日の名残り」を対比すれば、かかる相違は明白である。インディアンの頭皮を剥ぎ取る荒くれ者たちの乱行と、自らの半生に思いを巡らせる執事の回想。両者の対比は英語で著された文学の本質と関わっているかもしれない。
 本書を読み通して、私もイギリスの小説に一つの特徴を見出すことができたように感じた。それは植民地の存在が明示的/暗示的に反映されていることだ。確かにこの主題が直接に示された作品はさほど多くない。ミャンマーを舞台にした「象を撃つ」とメナム川から「本国」への帰途途上の出来事を描いた「秘密の共有者」がそれだ。しかしイギリスを舞台にした物語にも「植民地」は濃厚に反映されている。例えば災いをもたらす「猿の手」はインドから招来されたことが語られ、「しあわせな王子」の頼みを実行するツバメはエジプトの仲間たちのもとに飛び立つことを夢見る。メルボルンにいる知り合いの司祭の写真が貼られた部屋に住むエヴリンはブエノスアイレスに向かって旅立とうとしている。もう少し連想を広げるならば、マルカム・ラウリーにおけるメキシコ、ロレンス・ダレルにおけるアレクサンドリア、あるいはJ.G.バラードにおける上海。宗主国と植民地に関わるこれらの作家、それらの場所との結びつきは決して牽強付会ではないだろう。植民地を有した列強はイギリスだけではない。しかし私はドイツとイタリアに植民地と関わる文学の例を知らないし、アメリカは植民地とは無関係だ。ラテンアメリカ文学という豊かな後背地を要するスペインについては議論の立て方を改める必要があり、フランスについてはアルベール・カミュとマグリット・デュラスを思い浮かべるが、いずれも第二次大戦後に発表された物語である。私はイギリス文学こそ植民地という他者を自らの糧として異例の系譜を形作ったのではないかと考えるのだ。このように考えるならば、先に述べたとおり、植民地との往還の過程を舞台とした海洋小説というジャンルがことにイギリスにおいて発達した理由も説明することができようし、このブログで取り上げたサルマン・ラシュディやハリ・クンズルといった作家の独特の位置も説明できるのではなかろうか。いうまでもなく植民地と文学とはきわめて大きな課題であり、このような短いレヴューで応接できるような問題ではない。しかしこのような視座を得るならば、日本文学にも新しいアプローチが可能ではないだろうか。一つは植民地を舞台にした作品である。これについては集英社版の全集「戦争×文学」において満州、樺太、南方をそれぞれ主題としたアンソロジーが編まれ、川村湊が精力的な研究を続けている。私は近くそれらの作品や研究を読んでみようと考えている。もう一つは在日朝鮮人によって日本語で書かれた小説である。李恢成から金石範、梁石日にいたるこれらの系譜についても私はあらためてこのブログで応接する必要を感じる。かくして練達のアンソロジストによってまとめられた英文学のアンソロジーは極東の島国であり、同様に植民地に圧政を強いた日本の近代文学にも光を当てるのだ。
by gravity97 | 2015-10-19 21:10 | 海外文学 | Comments(0)

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