「特集:藤田嗣治、全作品展示。」

b0138838_1185388.jpg
 敗戦70周年の今年の夏、戦争と関わる展覧会をいくつか訪ねた。いずれもよく練られ、このブログで応接するに十分な内容であったが、最終的に最も強く印象に残ったのはテーマ展ではなく、東京国立近代美術館の常設展示で見た藤田嗣治の全所蔵作品展示であった。例えば名古屋市美術館で開かれた「画家たちと戦争」も藤田を含め、日本画、洋画あわせて14名の作家の戦中戦後の作品を一堂に展示し、画家の処世、戦争と表現といった問題について深く思いをめぐらす貴重な機会となった。名古屋の展覧会では作品が対比的に示されて、戦争に向かい合う画家の生き方という重い主題が問われていていたのに対して、東京国立近代美術館において私をあらためて圧倒したのは作家の生き方ではなく作品であった。戦争の表象という点で藤田の絵画は他の画家を卓絶している。
 今回展示されたのは東京国立近代美術館が「所蔵」する25点に加えて京都国立近代美術館の1点、合わせて26点の藤田の作品だ。あえて京都国立近代美術館が所蔵する《タピスリーの裸婦》を加えた理由は、私の考えによれば藤田の典型的な作例、乳白色の裸婦の代表作を加えることによって「戦争記録画」の異様さを相対化するためではなかっただろうか。しかし全所蔵作品展示のクライマックスが点数にして14点、展示の半数を超える「戦争記録画」であることは明らかである。これらの絵画は今なおアメリカからの「無期限貸与」という枷のもとにあり、近年、常設展示の中で展示されることが多いとはいえ、なかなかその全貌を知る機会がなかった。これまでも部分的に見た記憶があるが、全てが展示される機会は今後もほとんどないだろう。目立たない常設展示の中に組み込まれているとはいえ、これゆえ必見の展示といえよう。
b0138838_1111619.jpg 今回は出品作品の図版を全て収録したパンフレットが制作されている。藤田の戦争記録画の全貌を知るうえでも貴重な資料であろう。まずは表紙に掲げられた二つの作品、収蔵庫内のスクリーンに配架された《五人の裸婦》と《アッツ島玉砕》の対比から始めてみよう。いずれも藤田の代表作といってよいが、印象は大きく異なる。ベッドもしくはソファを背景とした明るい室内に五人の裸婦が整然と配置された前者と、不分明な画面の中に無数の兵士が折り重なるように描きこまれた後者、描かれた裸婦たちが明確に識別できる前者と個々の兵士がもはや区別不可能なまでに画面に溶け込んだ後者。明暗が対比されたような二つの画面である。しかし両者にはいつかの共通点も認められる。一つは人数こそ大いに異なるが、ともに複数の人物を描き込んだ群像として成立していることである。さらにどちらの作品においても画面が奥行きを欠き、一種のレリーフ的な空間の中に人物が配置されていることである。b0138838_11113310.jpg《アッツ島玉砕》においては背景に雪を冠した山が描かれているが、前景に群がる兵士たちとの間に中景が存在しないため、書割のような印象を与え、それは《五人の裸婦》の背景と同様である。奥行きのないいわば平面的な画面は藤田の絵画の特徴の一つである。今回出品された14点の「戦争記録画」においても《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》において画面が一種のプラトー構造、情景を見下ろした構図としてあいまいな遠近法が成立していることを除いて、大画面に広大な情景が描かれる場合があったにせよ、いずれも奥行きに欠ける。描かれた人物は画面から私たちに向かって滑り落ちそうな印象を与える場合が多い。先ほど私は裸婦を描いた絵画と戦争記録画を明暗の対比として比較したが、実は両者をつなぐ作品が存在する。2006年に同じ美術館で開かれた回顧展のカタログを参照するならば、1928年に制作された《ライオンのいる構図》がそれだ。3×3メートルという大画面に描かれ、フランスに残されているこの作品においては20人を超える人物が画面に配され、独特の乳白色の画面の中に群像表現が成立している。カタログにはこの作品がミケランジェロのシスティナ礼拝堂壁画から影響を受けた可能性が示唆されているが、私の印象としても十分にありうるだろう。この時期の藤田の絵画には単独像から群像へという方向性が認められ、《ライオンのいる構図》は画業の一つの頂点を形作っているといってよかろう。藤田は1931年から33年にかけてブラジル、メキシコを巡った後に帰朝する。中南米に滞在した時期、藤田は乳白色に代わり褐色を基調として現地の人々を描いた一連の作品を発表し、画風の刷新を図る。しかし日本に帰国した頃、時局は戦時に至り、藤田はその描写力を評価されて戦争記録画へと動員されるのである。今回展示された14点の「戦争記録画」のうち《南昌飛行場の焼打》《武漢進撃》《哈爾哈河畔之戦闘》は昼間の情景を描き、興味深いことにいずれも地平線もしくは水平線によって画面が二分されている。最後の作品はいわゆるノモンハン事件を扱っており、同じ主題を扱いながらも日本軍の死屍累々といった情景を描いた作品も制作されていたという記録がある。しかし太平洋戦争開戦直後という戦局を反映しているのであろうか少なくともこれら三点にはさほど切迫した印象はない。最初の二つの作品に関して、藤田は実際の戦地を取材し、あるいは関係者への聞き取りのうえ、作品に取り組んだという。続く《12月8日の真珠湾》と《シンガポール最後の日》も描かれているのは昼間の情景であろうが、画面は暗く沈む。そして1943年から45年の間に制作された9点の絵画こそ藤田の戦争記録画の真骨頂といえるだろう。いずれも異様きわまりない絵画として成立している。今さら指摘する必要もなかろうがアッツ島、ガダルカナル、サイパンといった激戦地を描いた絵画の晦渋さはどうだ。私はこれらの絵画をこれまで幾度となくこの美術館の常設展示の中で見ている。しかし今回、作品に付された解説を読んで、初めてそこにヴァチカンにあるジュリオ・ロマーノの《ミルウィウス橋の戦い》との比較が可能な刺し違える二人の兵士の図像が存在し、《薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す》の中に台湾の高砂族によって編成された勇猛な部隊が敵の首を切断した情景が描かれていることを知った。私は会場で解説を読み、あらためて作品の前に立ち戻り、これらの情景の確認を試みたが、それらの図像を識別することは決して容易ではなかった。実際に図版によっては写真の明度が高く、比較的容易に図像を判別できる場合もあるが、実物にあたるならば実に混濁した印象があり容易に判別できない。一連の乳白色の裸婦が画面の澄明さで特徴づけられていたのに対して、これらの絵画の不透明さは対照的といってよい。おそらくそこには藤田の独特の技法が深く関与しているだろう。藤田の技法の秘密に関しては多くの研究があり、私はほとんど知るところがないが、少なくとも面相筆で描かれた細密な描写と画面全面を覆う独特のニスのような層は裸婦像と戦争記録画に共通している。前者の澄明な効果と後者の晦渋な効果は同じ技法の裏表であるように思われるのだ。初期の戦争記録画においては飛行機や戦車といった兵器が中心に置かれたのに対して、後期の戦争記録画は文字通りに兵士たちが肉塊として描かれ、もはやオールオーバーといってもよい異様な構図として実現されている。既に誰かが指摘している点かもしれないが、私がこれらの絵画から連想したのはドラクロアであり、具体的には《サルダナパールの死》、《キオス島の虐殺》といった作品である。それらはいずれも大画面に群像が描かれ、なんとも不透明な印象が共通している。印象派を経過した私たちは絵画が光を宿すことを知っている。しかし印象派以前の絵画は不透明な表面の連なりであった。輝く裸婦から闇の中の兵士たちへ、藤田の絵画は美術史を遡行するかのようであるが、例えばルーブルでロマン主義の名画に親しんだ藤田にとって、それは決して退行や逆行ではなく新たな絵画の実験、偉大な絵画への接近であったはずだ。出品作中に《ソロモン海域に於ける米兵の末路》という作品がある。サメが群れ泳ぐ海上を小舟で漂流するアメリカの兵士たちを描いたこの作品がジェリコーの《メデューズ号の筏》から着想されたことは明らかであろう。《メデューズ号の筏》に特徴的に認められる三角形の構図が藤田の戦争記録画にもしばしば用いられていることはかねてより指摘されてきたが、ロマン主義の作家にみられた劇的なテーマと構図は戦争という主題を描く藤田に格好の枠組を与えたように感じられる。それに際しては逆に光の効果を抑制し、画面を均質に充填することによって藤田は大戦末期の玉砕、集団自殺、肉弾戦といった主題をおそるべき緊張感と閉塞感の中に表現したのである。初期の戦争記録画と異なり、これらの作品は現地や生存者へ取材することなく、藤田が自身で構想したものである。それにしても同じ時代に描かれ、これに類した絵画がほかに存在するであろうか。そもそも戦争記録画といった種類の絵画が欧米に存在するか私は寡聞にして知らない。アメリカに接収されたそれらの絵画は現在無期限貸与として東京国立近代美術館に収蔵され、そのほかにも日本画から彫刻にいたるまで、戦時下で制作された作品の全貌はすでにいくつかの画集の中で明らかとなっているとはいえ、玉砕や集団自殺を扱った一連の藤田の絵画は完成度において突出している。もちろん戦争記録画というジャンルが存在せずとも、戦争と革命、虐殺と略奪が古来よりヨーロッパの大画家たちの絵画の主題であったことはよく知られており、パリで生活した藤田がそれらに親しんでいたことは明白である。太平洋戦争は藤田に対して平時ではありえない主題と取り組むチャンスを提供した。おそらく藤田にとって描かれる個々の主題についての関心はさほどなかったのではなかろうか。画家は兵士たちを勇猛に描こうとか、厭戦的な気風を醸成しようとかいった意識をもっていない。藤田は自らがミケランジェロからドラクロアにいたる系譜に連なることをめざして、乳白色の裸婦たちを通して培ったすべての技術を戦争記録画に投じた。言い換えるならば藤田にとっては絵画の内容ではなく形式こそが重要であり、主題ではなく技法こそが問われたのである。この意味において、藤田自身、自分が戦争責任を問われると夢想だにしなかったことは十分にありうるだろう。しかし戦争記録画とはあまりにもデーモニッシュな主題であった。b0138838_1112021.jpg私はこの展示を見ながら、これらの戦争記録画の数年前に制作され、同じ東京国立近代美術館に収蔵されている一枚の絵画を反射的に連想していた。それは靉光の《眼のある風景》である。同じ戦時下、1938年に制作されたこの作品もまた何が描かれているのか判然としない晦渋な絵画であり、画面の中心に見開かれた目が強烈な印象を残す。細密に描かれた暗い画面、近接的な構図、アンフォルムとでも呼ぶべき形状、実は《眼のある風景》とこれらの絵画には多くの共通点がある。7年前の回顧展カタログではこの作品に描かれた目が「現実の奥底を、あるいは暗澹たる時代の果てを見通す意志のシンボル」と評されていた。戦争という狂気を見通すために画家は時代を超越した透徹した目を持つべきであった。しかし藤田はあまりに時代に密着しすぎたのではないか。私は藤田の戦争責任云々について論じようという訳ではない。パリでヨーロッパの名画の数々に出会い、それらに連なるべく独自の技法を開発し、一連の裸婦像へと昇華させた形式主義者としての藤田の才能と、太平洋戦争という時代の狂気が不幸な出会いをした結果、圧倒的な完成度を示しながらも顧みられることのない一群の呪われた絵画が誕生したのではないかと考えるのだ。
 戦後、藤田はフランスに帰化し、祖国の土を踏むことはなかった。戦後の作品をどうとらえるかは難しい問題であるが、私は時にグロテスクとさえ感じられるマニエリスム的熟練をめざしたそれらの作品に一種の退廃を感じる。少なくともそこには戦前の裸婦像のようなおおらかさや澄明感はない。今回の展示にもラ・フォンテーヌ寓話に触発されたと思しき数点の作品が加えられていたが、技巧の限りを尽くしたような細密描写を見て痛々しさを覚えないだろうか。マニエリスムとは戦争記録画というデーモンに見つめられた画家にとって唯一の逃避場所ではなかったのか。東京国立近代美術館に収蔵された藤田の作品を通覧し、私は今さらながら絵画という営みの業の深さに思いを致した。
by gravity97 | 2015-10-12 11:18 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック