横尾忠則『言葉を離れる』

b0138838_20574077.jpg 横尾忠則のエッセー集が刊行された。『ユリイカ』に2011年から14年まで「夢遊する読書」というタイトルで連載された原稿を中心に加筆・修正した内容で、タイトルを『言葉を離れる』という。私は最近この雑誌をあまり読まなかったこともあり、この連載の存在自体を知らなった。マグリットの作品を配した表紙は横尾のデザインらしい鮮烈な印象であるが、実はこのイメージとタイトルも本書の内容と深く関わっている。基本的に横尾の履歴を追って語られるそれぞれの章はそれゆえ自伝的な要素も秘めているのであるが、それらを統一するテーマは読書、もしくは言葉であろう。今も横尾は朝日新聞の書評を担当しているし、なにより多くの本のデザインや装丁を担当してきたから、横尾と書物や言葉は大いに親和している印象があった。ところが意外なことに横尾は生まれてから成人するまでほとんど読書に無関心で、育った家には本が一冊もなく、自分の好きな絵と読書は水と油のような関係にあると感じていたというのだ。《従順な読者》と題され、ぎょっとした様子の人物は書物を前にした横尾の当惑を暗示しているかもしれない。この問題は横尾の「画業」を考えるにあたって興味深い、知られているとおり横尾はグラフィックデザイナーとして頭角を現したが、グラフィックデザインは常に文字を伴い、しかもそれらの文字はクライアントから与えられ、変更することができない。例えば上に掲げた本書の書影はマグリットの絵画と書名のコラージュによって実現されており、それ自体、横尾のデザインの本質を体現するかのようであるが、書物のタイトルはデザインの中に収められるべき与件としてあらかじめ定められている。横尾の仕事を考えるにあたって本書中、次のような言葉はまことに示唆的だ。

 絵を描くということはむしろ言葉を排除する作業だと思います。絵の中に少しでも言葉が残っているとその絵は消化不良の作品だと思います。絵の中から言葉を徹底的に排除することで絵が絵になるのではないでしょうか。

 いきなり本書の核心に触れてしまった。もう少しゆっくり本書を読み進めることにしよう。横尾のエッセーを読む時、いつも驚くのはその華麗な人脈である。ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、モーリス・ベジャールやロバート・ラウシェンバーグ、本書にも綺羅星のごときビッグネームたちとの華々しい交遊の一端が記されている。フェイスブックを連想するまでもなく、多くの場合、人と知り合うためには間に誰かを介す。本書においてはかかる関係のいくつかが明らかとされていて興味深い。例えば横尾に圧倒的な影響を与えた三島由紀夫に関しては、日本デザインセンターに勤務時に仲のよかった一歳年下のコピーライター、高橋睦郎、いうまでもなく今や名高い詩人を介して知り合ったという。京橋で個展を開いていた会場に高橋が三島を連れてきたことから両者の交流が始まる。神秘思想への傾倒、霊性への関心といった点で両者は多くの共通点をもつ。三島との出会いは1965年のことであるが、この前後の横尾の交遊の広がりはめざましい。その前年、ハイレッド・センターが帝国ホテルで開いた「シェルター・プラン」に横尾も参加しており、美術家との交流も始まっていたと考えられるが、当時から横尾は現代美術とは一線を画していたように感じられる。むしろ状況劇場、天井桟敷といったアングラ演劇に関わる仕事で注目を浴び、67年に始まる何度かの渡米に際してジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグ、先にも触れたジョン・レノンらの知遇を得る。ただしこの時期、横尾は怪我や事故にも繰り返し遭遇していることを私は本書を読んで知った。横尾は幸運と不運の連続を「地獄と天国を回遊するジェットコースターに乗っているようであった」と回想する。これらの出来事の不思議な連なりを横尾が一種のカルマとしてとらえ、独自の神秘主義に目覚めたことは十分に理解できる。70年代の横尾は主としてポスターと版画、本の装丁を仕事の中心に据えており、現在の横尾の多彩な活躍を知る私たちからすれば、仕事の幅が限られていたことにむしろ驚く。一方で横尾が常に一種のコンプレックスを抱いて作品に向かった点にも留意する必要があるだろう。青年時代に本を読んだ覚えがないという述懐は韜晦ではなく自らの置かれた環境の告白であり、横尾は自らをアーティストではなくデザイナーと規定したうえで自分が版画にのめり込むことができない理由を「デザインはすでにそれ自体が商業的目的を達成しているので、わざわざ版画にする意味も必然性もないのです」と説いている。ここにもデザイナーとしてのファイン・アートへのコンプレックスが透けて見えないだろうか。
 言葉との関わりという点において時代をやや遡ろう。年譜で確認するならばおそらく1970年、横尾は初めて小説の執筆依頼を受ける。横尾によればそれは次のような経緯であったという。

 生まれてこのかた両手で数えられるほどしか小説を読んだことのないぼくにある日、井上光晴という人から電話がかかってきました。「私、井上光晴という文学をやっている者です。あなたひとつ小説を書いてみませんか」(中略)井上光晴という名は聞いたことがあるけれどどんな小説を書く作家なのか知りません。それにしても唐突且つ乱暴な依頼の仕方です。なんでも今度、小田実、鶴見俊輔、いいだももらと共同編集で『辺境』という文芸誌を出すから、その二号に小説を書けとおっしゃるのです。まともに文章を書いたこともない素人の僕に左翼思想のお歴々が何を血迷って小説を書かせようとしているのでしょう。ぼくはこの井上光晴と名乗る人物はニセ者ではないかと思ったほどです。ぼくが必死に断れば断るほど相手は食いついて離れないヒルのような執拗さで食いついてくるのです。

 井上光晴という固有名詞の導入、そして「左翼思想のお歴々」といった言葉に思わず私は吹き出してしまった。井上を主人公にした原一男の「全身小説家」を見たことがある者であれば作家の「ヒルのような執拗さ」は理解できようし、一方でこのように呆れながらもこれまで3枚以上の文章を書いたことのない横尾が苦労して100枚ほどの原稿を書き上げたというエピソード、そしてそれがそのまま雑誌に掲載され、秋山駿によって文芸時評で取り上げられるという顚末も笑いを誘う。実はこの依頼には伏線があり、井上は瀬戸内寂聴の強い推挽を受けて未知のデザイナーに原稿を依頼したことを、瀬戸内が最近発行された中公文庫版の横尾の短編集のあとがきで明かしている。しかし横尾と井上は実は共通点があるのではないだろうか。b0138838_20583856.jpgまず二人の仕事が実際に結びついた場をお目にかけよう。1973年、講談社文庫の一冊として発行された井上の『他国の死』の書影を示す。装丁はいうまでもなく横尾忠則。横尾のデザインはショッキングな場合が多いが、これも相当に過激な装丁であり、70年代に横尾が装丁した書物の中で私がまず思い浮かべるのは本書である。朝鮮戦争に関わった関係者に対する執拗な尋問として構成された、重く長大な小説の表紙を飾るのは直接には内容と無関係な全裸の女性たちが行進する姿だ。後ろ姿ではあるものの当時、書店で手に取ることに勇気が必要であったことを記憶する。不死鳥であろうか、横尾らしい不思議な鳥の姿も見える。ところで井上は自分の半生を一種の虚構として語っていた。井上には『岸壁派の青春 虚構伝』という自伝があるが、そこに描かれた事実の多くが実は虚偽であったということがその後明らかとなっている。もちろん小説家が自伝を書いたからといって真実のみを記す責任など全くないことはいうまでもないし、本書で語られる横尾の経歴の一部に虚構が認められる点をことさら指摘しようというのでもない。私が注意を促したいのは芸術家の回想にはしばしば創造的な脚色、改変が認められることである。この点は今日活況を呈すオーラルヒストリーについては常に意識されるべき問題であろう。おそらくは意図的に具体的な年記に乏しい本書において、例えば最初の小説から数カ月後にやはり井上から次の小説の執筆を求められたという記述がある。しかし手元にある横尾の年譜を参照するならば、横尾が二番目の作品を執筆するのは1978年9月であるから、10年近い年月が経過していたはずである。(カタログ等に収められた横尾の年譜にはカタログによってしばしば異同が認められる)しばらく前に私は中公文庫で『ぶるうらんど』としてまとめられた横尾の小説集を読んだ。b0138838_2103642.jpgこれは2008年と2010年に刊行された二つの小説集の合本であり、収録された作品は2007年と2009年の間にいずれも『文学界』に掲載されている。ここに収められた小説がほぼ30年ぶりに執筆されたことの確証を現時点で私は得ていないし、横尾は小説以外にも多くのエッセーも発表しているが、この作家ににおいて絵画やデザインの仕事とテクスチュアルな仕事が補完的な関係にあると考えるならば、両者をクロノロジカルに検証することは意味があるだろう。ちなみに『ぶるうらんど』に収められた7篇の小説は確かに文学的に洗練されているとは言い難いが、少なくとも「まともに文章を書いたことのない素人」のそれではなく、なんともいえない味わいがある。タイトルの「ぶるうらんど」、青い世界とは端的に死の世界の暗喩であり、ダリとの邂逅など横尾の実体験を交えながら独特の死生観が語られている。表紙に引用されているのがベックリンの《死の島》であることについては今さら触れる必要もなかろう。
 1980年代に入って横尾は新しい挑戦を始める。一つは1980年、ニューヨーク近代美術館で見たピカソ展を運命的な啓示としてのグラフィックデザイナーから画家への転向、いわゆる「画家宣言」である。この経緯というか、この転向への驚き、そして激しい反発は私も鮮烈に記憶している。ニュー・ペインティングの勃興と同期したこともあり、藤枝晃雄は横尾を「画家がまず行くべきは予備校のデッサン室である」と罵倒した。当時、私は西宮の大谷記念美術館における横尾の回顧展でほぼリアルタイムにこれらの絵画に接したが、下手というより訳がわからない思いであった。本書において横尾はこの時期を人生で最も苦しい時期であったと回想している。最初の個展で発表された作品は全国の美術館に収蔵されて一定の評価を得たようにみえるが、本人も「このことは嬉しかったのですが、ぼく自身の作品はあまりにも未熟で、その上メッセージ性に欠けていました。失礼な言い方をすると購入した美術館の学芸員やコレクターに見る眼がないと本気で思っていました」というなんとも率直な感想を残している。私も似た印象をもつ。しかしそれ以来30年以上にわたって横尾は絵画の制作を続けて今日にいたっている。最初はしばしば文字が描きこまれ、デザインの仕事の残響をうかがわせていたが、最近はY字路シリーズなど、独特のテーマを得て新しい境地に達していることは知られているとおりだ。最初に引いたとおり、横尾は絵を描くことが言葉を排除する作業であると述べているから、横尾の絵画の展開を言葉という問題との関係で論じること、あるいは写真や映画といった他のジャンルとの関連において分析することも興味深いが、稿を改めるべきであろう。
 もう一つの挑戦は舞台美術である。本書を読んで私は横尾がモーリス・ベジャールの主宰するバレエ団のミラノのスカラ座における「ディオニソス」公演のための舞台美術を手掛けたことを初めて知った。それまでにも国内では天井桟敷の公演の舞台美術の経験があるにせよ、いきなり世界の檜舞台に立つこととなった訳である。妻とともにチューリッヒ、パリ、ミラノとヨーロッパの各都市を転々としながら、ベジャールやダンサーのジョルジュ・ドン、さらに衣装のジャンニ・ヴェルサーチら世界一流の芸術家たちとコラボレーションを繰り広げ、自らの構想を実現していく過程は興味深い。乏しい経験ではあるが、私もいくつかの展覧会を海外で企画したことがあるから、芸術を受容する階層、一つの作品を作り上げていくシステム、芸術をめぐるビジネスのスタイルなどが日本と欧米で全く異なることを思い知った。ディアギレフ、コクトー、サティに対するピカソとまで持ち上げるつもりはないが、横尾にとっても自分の作品を海外の美術館で紹介するといった単純な経験ではなく、音楽、美術、衣装からダンスまで様々なジャンルが混交し、作家のエゴが入り乱れる一種の総合芸術、バレエの中で作品を鍛えたことは創造の幅を決定的に広げる契機となったのではないだろうか。
 多様なジャンルにわたって数多くの作品を残し、世界のセレブリティたちとの華やかな交流を重ねる横尾を私たちは一種の天才とみなしがちであるが、本書を読むならば、横尾はむしろ幸運によって与えられた機会の中でこつこつと仕事を重ねて成功を収めた印象が強い。むろん横尾のことであるから、本書にはいたるところに運命的な出会い、神秘的なセレンディピティが投影されている。しかし横尾が天才であるとするならば、そのような機会を呼び込む才能、そして誘いがあれば臆することなく新しい場所に飛び込む勇気に求められるのではないだろうか。あとがきの中で横尾は近年、記憶障害がひどく、このためこの連載自体が二年ほど中断したと明かしている。「言葉を離れる」とはかかるパトロジカルな意味も負っている訳である。今年79歳を迎える一つの傑出した才能の半生の記録として、本書はなんとも味のあるエッセーといえよう。

by gravity97 | 2015-10-05 21:09 | エッセイ | Comments(0)
line

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
line