Living Well Is the Best Revenge

tomkins.exblog.jp

優雅な生活が最高の復讐である

「具体の画家―正延正俊」

b0138838_21155639.jpg
 タイトルに「具体の画家―正延正俊」とある。作家名のみでなく、具体美術協会に所属していたことを示して、展覧会をアピールしようとする美術館のやや苦しい戦略が見え隠れするが、確かにこのタイトルは正延の位置を暗示している。正延は具体美術協会の創立会員であり、解散まで在籍したメンバーの一人であるから、具体の中核といってよいが、白髪一雄や元永定正、あるいは村上三郎や田中敦子といったメンバーに比べて知名度が低い。しかし今回あらためてその画業を振り返るならば、作品の完成度はきわめて高く、今回の展覧会は具体美術協会においてこれまで見過ごされていた可能性に思いをめぐらす得難い機会となったように感じる。
 正延がこれまで正当な評価を受けなかった理由を挙げることはたやすい。初期の具体美術協会は派手なアクション・ペインティングで知られているが、正延は一貫して緻密な手法で絵画を描いてきた。さらに正延は1911年生まれであるから1905年生まれの具体美術協会のリーダー。吉原治良と6歳しか違わない。具体美術協会の会員たちが多く吉原と親子ほどの年齢差があり、それゆえたやすく師弟関係が成立したのに対して、正延と吉原の関係が微妙であったことは想像に難くない。おそらくこの理由によって正延はこのグループにおいても異質の絵画を描き続けることが許されたといえるかもしれない。65年というから作家が54歳の時にグタイピナコテカで開いた個展の出品作を導入部、そしてハイライトとした今回の展示は大いに見応えがあり、おそらく今後、作家の評価はさらに高まることとなるだろう。
 今回の展示でまず興味深く感じられたのは、戦前期、つまり正延が具体の結成に参加する以前に制作した一連の具象的な絵画である。具体美術協会の作家たちの個展はこれまでにもたびたび開催されてきたが、いずれも習作期とも呼ぶべき、このグループに参加する以前、端的に具象的な作品はほとんど展示されていなかった。これにもいくつかの理由がある。まず作家たちは当時まだ若く、具体美術協会に加わる以前にはほとんど作品を発表していなかった。さらに白髪一雄と田中敦子を例外として、いわゆる正式の美術教育を受けた作家は少なく、この意味でも彼らに作品を残すという発想はなかった。さらに具体美術協会の初期の活動の中で彼らの多くは一気に表現上のブレークスルーを遂げたから、それ以前の作品を意図的に自己の画業から外した可能性がある。これに対して、正延は具体美術協会結成時に43歳であり、それまでに多くの作品を制作していた。カタログにはそのあたりの事情をていねいに検証する論文が掲載されている、今回の展示には多くの戦前期の作品が出品され、それらはきわめてアカデミックで手堅い仕事である。なるほど同時代にあって正延の作品はほかの作品に埋もれてしまったかもしれず、それは東京と神戸で教鞭を執りながら作家としては刻苦していた正延の姿と二重写しになるかのようであるが、岸田劉生を連想させるマティエールの強調された絵画から、構成主義的、キュビスム的な絵画にいたる一連の作品は決して悪いものではない。絵画に真摯に応答する作家の姿勢は明らかだ。正延は戦後まもなく神戸市民美術教室で吉原に師事し、54年の具体美術協会の結成に参加する。私にとってはそれまで抽象ではあっても比較的穏健な作品を制作していた正延が、具体美術協会初期のスタイルに一挙に転じた点こそが興味深く感じられた。今回の展示には具体美術協会の機関誌『具体』の創刊号に掲出された正延の作品が『具体』誌の当該頁とともに展示されていた。私は作風の激変に驚いた。板の上にほぼモノクロームで絵具が塗りつけられた物質的な絵画はアンフォルメル風であるが、それまでの堅実な抽象絵画とは印象を大きく違えるのだ。私は具体美術協会という集団が正延のごとき年長で、ある程度作風を確立しつつあった作家に対しても、かくも変貌を強いたという事実に驚くのだ。具体美術協会は吉原治良という絶対的指導者に統率された集団であったから、かかる変貌は吉原が求めたものかもしれない。いや、私は次のように考える。正延が感じたであろう一種の集団的圧力、それはリーダーたる吉原も感じていたのではないか。そして同様の強迫は吉原をもとらえていたのではないか。シュルレアリスムから構成主義まで西欧のモダニズム絵画を自己の画業の中で追体験するかのように作品の制作を続けていたモダニスト吉原は1950年代中盤に大きな転機を迎える。それはしばしばカリグラフィックな線描を伴う物質的な絵画であり、正延同様に唐突な転回であった。しかも50年代後半の吉原の絵画は質的に必ずしも高くない。アクションを導入して、物質と精神の結合のごとき作品を量産した白髪や嶋本昭三らに比して、指導者たる自分の作品の質が劣っていることを吉原は意識し、それゆえ苦悩した。この点に関しては多くの証言が残されている。具体美術協会が活動の初期に残した物質的な絵画は相互に差別化されにくい。とりわけモノクロームの図版で確認するならば、誰の作品であるかさえ画面から識別することは困難である。このような同質性は異様にも感じられるが、ひるがえって彼らの独自性を保証していたかもしれない。若い画家たちが独特のアクション・ペインティングを編み出してかかるアポリアを克服したのに対して、吉原は物質的な絵画の中にとらわれてしまったのだ。
 多くの画家がアクションに可能性を見出し、リーダーたる吉原が物質の中に埋没したのに対して、正延は異なった手法で難局から脱した。今回出品された作品のうち、物質性が強化された作品は今触れた『具体』誌に掲載された作品ほかごくわずかであり、早い時期に正延は独自の画面に到達した。しかもそれはアクションとも物質性とも異なった手法であった。早くも55年に正延は縦長の画面を、ドードリングと呼ぶのであろうか、ほぼ同じ大きさのいたずら書き風の単位で埋め尽くす独特の構成による絵画を発表している。いかなる発想あるいは意図から正延がかかる画面に想到したかは定かではない。65年の個展のパンフレットに寄せた吉原のテクストにはマーク・トビーの名が引かれているから、吉原の蔵書等を通して正延がトビーのホワイト・ライティングを知った可能性は否定できない。しかしおそらくは正延は独自にかかる構造に到達したのではないか。吉原の指導の下にいる限り、具象への後退は許されなかった。しかし正延は決してアクションの画家ではなく、それを証明するかのように画面にストロークの跡が認められることはまれである。正延はオールオーバーという独特な画面構造を選ぶことによって新たな境地に立った。興味深いことに抽象表現主義絵画に広く認められたオールオーバー構造は具体美術協会においてはむしろまれであった。アクションに基づくストローク、そして画面の物質性はともにオールオーバー構造の成立を阻害したのだ。正延とともに同様の構造を画面に与えたのは、おそらく上前智祐だけであり、いずれも具体美術協会の活動に一貫してペインターとして関与した。いたずら描きのような無数の線の戯れは大きさや粗密を変えて画面を覆い尽くす。50年代後半にスタイルを確立した正延はこの後、いわばテーマズ・アンド・ヴァリエーションズとして作品の幅を広げ、その成果を一望に示したのが最初に触れた65年のグタイピナコテカにおける個展であった。油彩に加えてエナメルを使用することによって独特の形態が時に面的、時に線的に画面を構成し、時に沈潜し、時に躍動感のある優れた抽象絵画が成立している。私はこの個展に出品された、多様でありながら一貫する、正延の絶頂との呼ぶべき作品群がほとんど国内の主要な美術館に収められていることに安堵した。とりわけ大阪新美術館建設準備室が所蔵する1964年の《作品》は素晴らしい。このセクションの白眉とも呼ぶべきこの作品は具体美術協会の作家が制作した作品の中でも屈指といってよいし、抽象表現主義の絵画と比べても遜色がない。決して主流ではない一人のメンバーがこれほどのクオリティーを備えた作品を軽々と発表した点に具体美術協会の凄みがある。そしてこの作品は今日までほとんど顧みられることさえなかったのだ、
 展覧会でいえば第四章以降、個展以降の作品の評価は難しい。比較的作品数は少ないが、それは作家が制作しなかったためか、今回の展覧会に選ばれなかったか、いずれの理由か判然としない。さらに最後の部屋に集められたサムホールの小品についてはもう少し展示の中で説明がほしかった。どのような経緯で続けられたかわからないが、半世紀にわたって制作された小品は単に正延の作品の変遷を示すのみならず、作品としても魅力に富んでいるからだ。
 展覧会を一巡した後、再び初期作品が展示された部屋に戻り、早い時期に描かれ、吉原に激賞されたという《黄の塑像》を見る。確かに素晴らしい作品だ。この作品とほぼ同時期に描かれた《黒の塑像》を比較するならば、そこに描かれたモティーフが同一であることはたやすく理解され、ごていねいにもカタログにはそこで描かれた塑像のシルエットの写真が掲出されている。これらの半具象的な作品と一連のオールオーバー絵画を比べる時、私は両者が実は類似した構造に基づいているのではないかと感じた。つまり一見するとオールオーバーに塗り込められながらも、そこにはモティーフを隠す/隠されるという画面構造が認められ、私の印象では隠されるモティーフとは多くトルソ、人体のように感じられるのだ。このような構造から直ちに連想されるのはポロックであり、実際に正延の線的な抽象からはポロック同様、その内部の人の姿をうかがうことができる。正延の絵画がほとんど縦長のフォーマットをとることはこの問題と深く関わっている。正延の描くドードリング、あるいは線は決して野放図に引かれているのではない。私があえて構図性と呼ぶイメージの背後の骨格と表面を埋め尽くすオールオーバー構造とのせめぎあいは美しい緊張を画面に与えている。それにしても正延はこのような画面をいかに描いたのであろうか。とりわけ先に触れた大阪新美術館建設準備室所蔵の大作において稠密な線は筆で描かれたのか、それとも特殊な技法によって描かれたのか、私は深い興味を感じた。正延は制作中、家族もアトリエに入ることを嫌ったという。技法の面からも正延の絵画は今後検証されるべき多くの余地を残している。そして漠然としたフィギュアを残しながら画面を一体化する手法、それは吉原が戦後のごく短い時期に試しながら、十分に成功しえなかった絵画の可能性であったのではなかろうか。
 具体美術協会に関しては、リーダーの吉原をはじめ、白髪、田中、元永あるいは村上といった数名の作家たちが注目され、多くの展覧会が組織されてきた。しかし今回の展覧会を一覧し、正延のごとくこれまで周縁的とみなされてきた画家が私の考えでは抽象表現主義の名品に匹敵する絵画を制作していたという事実はあらためてこの集団の奥深さをうかがわせる。私の知る限り、一人のリーダーに統率された集団がこれほど多様かつクオリティーの高い絵画を量産した例はかつてない。これまでは今名前を挙げたような中心的な作家たちのみにスポットライトが当たってきたが、今回の個展はその周囲にも多くの優れた作家が存在したことを明らかにするとともに、具体美術協会においてまだ十分に究明されていない絵画の可能性を暗示している。今回の展覧会は西宮と高知という作家にゆかりにある二つの都市で開催される。正延の存在を示すために首都圏を含めた大都市圏で開かれてもよかったと感じるが、このように地域と関わる作家を地道に検証する作業こそが公立美術館の使命であろう。志の感じられる展覧会であった、
by gravity97 | 2015-08-06 21:19 | 展覧会 | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック