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「NO MUSEUM, NO LIFE ? これからの美術館事典」

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 NO MUSEUM、NO LIFE ? 美術館なくして人生なし、とでも訳すのであろうか。独立行政法人国立美術館によって企画され、東京国立近代美術館で開催されている展覧会を訪れる。国立の5美術館の所蔵作品によって展示を構成する試みは2010年の「陰翳礼讃」展に続き二回目であるという。前回はストレートな名品展であったが、今回は「美術館」をテーマにした変化球。おそらく見る者によって印象は大きく異なるだろう。インターネットを検索したところ、変わった切り口で楽しめたといった感想が多かったが、私が覚えたのはむしろ漠然とした不全感であった。
  「これからの美術館事典」というタイトルに即して展示はAからZまでのキーワードを追うかたちで構成されている。日本で企画された「事典」であるならば、「あ」から「ん」ではないかといった意地悪は言わないことにしよう。50近いテーマを設定するのは大変であろうし、展示の面積から考えてもAからZ、26のキーワードの方が会場を構成しやすいからだ。しかし会場をめぐってみるとやや事情が違う。例えばAならばArchitecture、Archive、 Artist、 Art Museumと四つの項目が扱われているのに対して、K、Q、Uについては項目がない。XやZといったキーワードを設定しにくいアルファベットに対してもそれぞれX-ray、Zeroといったやや苦しいキーワードが当てられているのに対してなんとも不徹底というか恣意的だ。そもそも展覧会をアルファベット順に構成するという手法はイヴ=アラン・ボアとロザリンド・クラウスの企画によって96年にポンピドゥー・センターで開かれた「アンフォルム」を模しているが、「アンフォルム」に事典形式が導入された理由は、キーワードをアルファベットに機械的に対応させることによって通常の展示のコンテクストを破壊するためであった。つまり26のキーワード(実際には28)を任意に設定することによって作家別とか時代順といった脈絡を欠いた展示の実現がめざされていた。しかし今回の展示においては複数のキーワードが存在するアルファベットとキーワードが存在しないそれが混在している。50個ほどの候補から最終的にキーワードを36個に絞ったとのことであるが、美術館と関わる言葉を恣意的に選ぶのであれば初めからアルファベット順の配列や「事典」という形式に拘泥する必要はないように感じる。
 このような不徹底はキーワードの選択そのものにも認められる。この展覧会が美術館という制度を主題にしたものであることはタイトルからも明らかである。確かにArchitecture、GuardあるいはStorageといった項目は美術館の形式、あるいは外形的事実と関わっている。しかし例えばHaptic、Naked/NudeそしてOriginalといった項目は展示される作品と関わっており、意味性のレイヤーが異なるように感じられる。私の感想を述べるならば、この展覧会がもし美術館あるいは展覧会の外形的な事実のみに焦点をあてていたら、きわめて刺激的な内容になったと思う。例えばHangingというキーワードと関連して、いわゆる金属製の吊り金具、ワイヤーが展示されている。通常は絵画の後ろに隠されているこの器具を「展示」することによって来場者は作品がいかに保守されているかを知るだろう。余談となるが、カタログ中でも触れられているとおり、日本の吊り金具は世界的にもきわめて優秀であり、私も以前、ポンピドゥー・センターから展示に立ち会うために来日し、その精密さに驚嘆した関係者(コンサヴェーターであったと記憶する)から、一個でよいから持ち帰らせてほしいと懇願された経験がある。あるいはTemperature に関してはどこの美術館でもよく見かける自記式温湿度計、Guardと関連しては、フランシス・ベーコンの作品を取り囲むように配された金属の結界、これらに焦点をあてた展示はあってよいし、それなりに多くの発見をもたらすだろう。しかしそのようなテーマの展覧会であれば、そもそも作品を展示する必要はない。実際、私はもしこの展覧会にそこまでの決意とともに「これからの美術館」を展望する覚悟があれば、つまり一点の「美術作品」も展示することなく、展示器具や資材、「作品」ではなく「資料」の展示によって構成されていたのであれば、それなりの見識を感じる。しかし理事長の「ごあいさつ」によればこの展覧会の目的は「キーワードに沿いながら、紀元前から現代、西洋から東洋までと幅広い、合計約4万点の国立美術館のコレクションの中から約170点の作品を厳選して紹介する」ことであるらしい。つまり美術館という制度を問うているのか、「名品」を紹介するのか、展覧会の目的がどっちつかずなのだ。4万点の中から約170点の作品がどのように厳選されたのか、その理由がよくわからない。例えばNaked/Nude のセクションだ。国立美術館の所蔵品から裸体に関連した作品を選ぶことは誰にとってもたやすい「キューレーション」であり、私は「これからの美術館」をテーマとした展示の中にこのような安易なキーワードが存在することに不審を感じる。さらにこのセクションに展示された裸体がほとんど女性であることにも驚く。ジェンダーについての申し訳程度の言及はカタログにもあるが、膨大なコレクションの中から選ぶ以上、単なる名品選ではなくもう少し批評的な視点を介在させることができなかったのだろうか。この項目に象徴的にみられるとおり、この展覧会ではそれぞれのキーワード、ことに美術館というテーマと直接の関係をもたないキーワードについては個々の作品が対応する必然性があまり感じられないのだ。もちろん国立美術館の所蔵作品であるから、作品のクオリティーは高い。しかし作品は「キーワード」を説明するために制作されたのではないはずだ。
 このブログの読者なら理解していただけると思うが、私は小説でも演劇でもメタ的な構造を好む。美術館/展覧会についての展覧会という発想は本来ならば、大いに私を楽しませてくれるはずであった。これに対して、今回の展示が煮え切らない印象しか残さなかったとすればその理由は明らかだ。この展覧会は美術館/展覧会へのメタ批評ではなく楽屋落ちに終始している。カタログの中でも触れられているとおり、美術館ないし展覧会を主題とした展覧会としてはいくつか先例がある。2001年、国立国際美術館における「主題としての美術館」、同じ年、東京国立博物館を会場とした「美術館を読み解く」、2002年、兵庫県立美術館の開館記念展「美術館の夢」あるいはこのブログでも取り上げた2010年、京都国立近代美術館における「マイ・フェイバリット―とある美術の検索目録/所蔵作品から」。これらの展覧会は私も見た覚えがある。このうちコレクションについてのメタ批評の域に達していた試みは「マイ・フェイバリット」のみである。むろんそれぞれに問題意識が異なるから一括して論じることはできないし、メタ・レヴェルであればよいという訳でもないことは十分に承知している。しかしそれらと比べても今回の展示は美術館としてのディーセンシーに欠けているのではないか。Handling という項目ではHanging の項目で展示されたミロスワフ・バウカの作品が東京国立近代美術館に搬入されてから展示されるまでの一部始終、カトーレックの作業の人たちの仕事ぶりが記録として映示されている。私はこの映像に恥ずかしさを覚えた。作品の展示が作業員たちの入念な仕事によって保証されていることは学芸員であれば誰でも知っている。しかしそれを一般の来場者にことさらに公開する必要があるだろうか。これに対してCuration の項目には「ここでは、本展の企画準備段階で生まれた資料類を展示することで、われわれ自身のキューレーションの一端をさらけ出すことにする」という何やら得意げなテクストとともに展示室の模型を前に作品配置について協議する本展の「キューレーター」らしき人々の写真が掲載されている。このような仕事は学芸員であれば(国立美術館ほど恵まれた環境になくとも)誰でも行っていることだ。私にはこのような作業は来場者にことさら見せる必要もないし、見せるべきでもないという信念がある。自分たちの「苦労」を誰にも知らせることなく展示に組み込むことが私たちの世代の学芸員の美学であったが、若い「キューレーター」たちは展覧会を通して自分たちの「苦労」を来場者たちに知らせたいらしい。さらに言えば、私の感覚では美術品の専門業者ではなく「キューレーター」こそがHandlingの項目に挿入されるべきではなかったか。あるいはMoney の項目では作品の展示はなく、日本の国立五館の収入(交付金をを含む)をルーブル美術館、ニューヨーク近代美術館のそれと比較した表が掲出されている。カタログにあるとおり、「これをどう読むかは、立場によって異なるだろう」が、少なくとも直示的な意味としては日本の国立美術館は欧米の美術館よりはるかに少ない収入で運営されているということであろう。国立美術館に国威の発揚を求める政治家であれば、憤って予算をつけてくれるかもしれないが、今日、日本の美術館において国立館が一人勝ちの様相を呈していることは美術館関係者であれば誰でも知っている。おそらくこの展覧会で美術館の楽屋落ちを楽しむ多くの学芸員たちに決して愉快な印象を与えることのないメッセージである。
 私は今回の企画の意図そのものには共感する。先にも述べたとおり、これほど大規模な展示でなくても、例えばコレクション展の一角、今回も「事物」という興味深い展示がなされていたくらいのスペースで、美術館や展覧会そのものに批評を加える展示を組織することは可能なはずだ。ワイヤーや額縁、作品が収められていたクレート、さらには(私自身であれば展示に加えることを躊躇するが)作品の調書といったアイテムが美術館や展覧会に対して果たす批評性はこの展示をとおして理解された。この場合、ことさらに作品を用いる必要はない。私たちは優れた作品に出会うために美術館や展覧会に通うのであって、気の利いた「キューレーション」の例証や図解として作品が引用されるのを確認するためではないのだから。
 蛇足かもしれないが、関連して最後にもう一言述べておく。今年は高松次郎をめぐる二つの大きな展覧会が東京国立近代美術館と国立国際美術館で開催された。ともに国立美術館を舞台としているが、実は別々の展覧会であり、展覧会としては国立国際美術館の「高松次郎 制作の軌跡」の方がはるかに印象的であった。理由はきわめて単純だ。国立国際美術館の展示では常設展示も全て使用して、圧倒的に多くの作品がクロノロジカルにきわめてシンプルに展示されていたからだ。これに対して東京国立近代美術館の「高松次郎 ミステリーズ」においては、タイトルが暗示するとおり、三期に分類された作品群をそれぞれ一人の学芸員が解き明かすという趣向で構成されており、配置も複雑であれば解説もやたらと多かった。難解とされる高松の作品を来場者にわかりやすく解き明かそうという後者の意図はわからないでもない。しかし来場者の啓蒙を前面に押し出す美術館の姿勢は私にはいささか押しつけがましく感じられた。高松の作品は確かに難解かもしれないが、誰かにその意味を解き明かしてもらわずとも十分に存在感があり、魅力的である。そもそも私たちは作品を見に来たのであり、作品の解釈を学びに来た訳ではない。「ミステリーズ」と「事典」、二つの展覧会が真犯人やら定義やら、一義的な答えを必要とする説話や書物をタイトルに付している点は暗示的だ。
 展覧会を組み立てることの困難は重々承知しているが、今や会場デザインやグラフィックデザインまで専門家を雇って(これについても言いたいことは多いが、ここでは控える)展覧会を実施する余力のある美術館は国立館以外にほとんど存在しない。この展覧会は独立行政法人国立美術館がいわば総力で取り組んだ展覧会のはずだ。異論もあろうが、あえて苦言を呈すゆえんである。
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by gravity97 | 2015-07-18 17:36 | 展覧会 | Comments(0)