J.M.クッツェー『マイケル・K』

b0138838_14541432.jpg クッツェーという南アフリカの作家の作品について論じるのは二回目となる。末期癌に冒された女性と黒人の浮浪者の葛藤を描いた「鉄の時代」も厳しい内容の小説であったが、本書もまた気楽に読める小説ではない。とはいえ後で述べるとおり、読後感は決して悪くない。私はクッツェーの小説をこの二つしか読んでいないのだが、両者は互いによく似ている。それは主人公たちの背景に広がる不透明な不穏さである。いずれの物語においても戦争あるいは暴動が発生していることが暗示されており、スラムや収容所といった不吉な状況が主人公たちといわば地続きでつながっている。しかしそのような状況と主人公たちの関係は明示されていないのだ。このため一種の不条理な状況が出現しており、本書から先日、このブログでレヴューしたアンナ・カヴァンの「氷」が連想されたこともこのような問題と関わっている。「鉄の時代」に描かれた虐殺事件には現実のモデルがあったとのことであるが、「マイケル・K」でKが彷徨する世界はさらに抽象度の高い内戦が続いているかのようだ。
 最初の数頁を読むだけで、主人公が担ういくつもの負性が明らかとなる。「マイケル・Kは口唇裂だった」という冒頭の一文に始まり、知的障害とみなされて学校から追い出され、恵まれない子供たちを集めた「ノレニウス学園」で保護を受けたことが記される。興味深いことに、Kの人種的アイデンティティーは明らかにされない。これは発表当時アパルトヘイト体制下にあった南アフリカで検閲されることを恐れての配慮ではないかと訳者はあとがきで述べている。やはり訳者によれば作中の「CM-40歳―住所不定―無職」というKの分類コードのうちCとはカラード、つまり混血もしくはアジア系を指しているというが、少なくとも人種的葛藤はこの小説においては前景化されることがない。「ノレニウス学園」を出た後、Kはケープタウンの公園管理局に庭師として勤務した後、公衆トイレの係員を務めるが、ある夜、二人組の男に気を失うまで暴行を受けたことを契機に夜勤を辞めて、再び庭師の仕事に戻る。この小説を通底する暴力のモティーフが最初に顕在化するエピソードである。31歳の6月、Kのもとに母親のアンナ・K(先に引いたアンナ・カヴァンとの頭文字の一致は偶然であろうか)から病院から強制的に退院させられたという知らせが届く場面から物語が起動する。アンナ・Kは家政婦として長く雇われていたが、浮腫のため寝たきりとなり、入院していたのだ。「マイケルは自分の義務と思うことから逃げたりはしなかった。何年も前にノレニウス学園の自転車置き場の裏でくり返し考えさせられた難題、なぜ自分がこの世に生れてきたのかという難題にはすでに答えが出ていた。母親の面倒を見るために生まれてきたのだ」アンナ・Kは自分が生まれたプリンスアルバートの農場に戻ることを願い、マイケル・Kはその望みをかなえようとする。しかし南アフリカでは移動することすら自由ではない。列車の座席の予約、さらには今居住する地区から出ることに対する警察の許可証が必要であり、いずれもカフカ的な官僚機構によって永遠に宙吊りにされている。Kは手押し車を改造して母を乗せ、文字通り自力でプリンスアルバートへの脱出を試みるが道中は難渋し、断続的に発生する市街戦が二人の行く手を阻む。時にトラックに乗せてもらい、時に間道を手押し車に母を乗せながら続けられる母と息子の道行きは弱った母の死によって突然に断ち切られる。Kはせめて母の遺灰をプリンスアルバート、彼女が働いていた農園に撒くことを願って旅を続ける。決して楽な旅ではない。時にKは兵士たちに徴用されて労働を課せられ、親切な一家に助けられ、旅を続ける。このあたりの描写はリアルでありながら、一種の幻想性さえ宿している。目的地のフィサヒー農場にたどりついたKはそこで山羊の群れ、ポンプと貯水池を見つけ、庭師としての経歴を生かして自給自足の生活を始める。人に見つからないように隠れ家を整え、携えていた種からカボチャとメロンを収穫する逸話からは誰しもロビンソン・クルーソーの物語を連想するだろう。しかしこのような生活も長くは続かない。街に出たKはそこで倒れ、キャンプに収容される。「ジャッカルスドリフ再定住キャンプ」の名が示す通り、Kのような流民を収容するために設置されたとおぼしきキャンプでKは労働の対価として食事と住居を与えられるが、そこに留まることを好まず再び脱走する。フィサヒーの農場に戻ったKは再び時に昆虫や植物の根さえを食用とする厳しい自給自足の生活を続ける。しかしその周辺を捜索に来た兵士たちによって再び発見されたKは体調の悪化とも相俟って病院へと送られる。続く第Ⅱ部では小説の中で焦点化される対象がKから彼を治療しようとする病院の若い医者へと転じる。この変化は重要である。このパートが存在することによって、私たちは初めてKを客観化する語りを知るのであるから。しかし予想されたことではあるが、Kはこの病院にも長居をすることはない。最後の短い断章、第Ⅲ部において、Kは母親が住んでいた街区に戻り、そこで知り合った男女と関係をもちながら、次のように独白する。「思い返してみるに、俺がやった間違いは十分な種子を持っていなかったことだ、Kはそう思った。ポケットごとに違った種子の包みを入れておけばよかった。(中略)それから、おれがやった間違いは種子を全部いっしょに一箇所に蒔いてしまったことだ。一時に一粒だけ蒔くべきだった」物語は再びKが農場への帰還を決意する場面で終わる。
 一読してわかるとおり、この物語は一種のロード・ノヴェルである。Kは物語の中で移動を続ける。ケープタウンやプリンスアルバートは実在の地名であるから、南アフリカの地理に詳しければ実際の距離や位置関係についても思いをめぐらしながら本書を読むことができるだろう。しかし冒頭のエピソードからも明らかなとおり、この国には移動の自由は存在しない。移動には官憲の許可が必要とされ、それがなければ流民とみなされて「再定住キャンプ」へ収容されるのだ。Kが一つの場所にとどまり、ゆったりとした生を送るのは「農場」に隠れ住み、作物を育てる場面であるが、その際にもKは兵士たちに見つからぬように細心の注意を払う。本書で描かれる世界は二つに画然と分かたれる。一つは農場における自由な生活であり、もう一つはキャンプや収容所における管理された生活である。後者において食と住居は保証されるが、前者においてはKの庭師としての能力がなければ生活は維持できない。実際に「農場」で時に虫を食べながら、ほとんど絶食して過ごすKの姿は非現実的にさえ感じられる。実際に病院においてもKはほとんど何も口にせず、第Ⅱ部で彼を治療する医師は次のように述べる。「もう一つきみのことで知りたいのは、あらゆる食物に対するきみの食欲を奪ったものとは、きみが荒野で食べていたものとは、いったい何かということだ。(中略)マナの味がきみの味覚を永久に麻痺させたとでもいうのか」マナという言葉が示されているが、食物を口にしない庭師からはいくつもの宗教的なイメージが連想され、本書が一種の寓意性を帯びていることは明らかだ。そもそもKという名前からカフカを想起しないでいることは難しい。本書に対してカフカとロビンソン・クルーソーの結合という評がなされたことはよく理解できる。とはいえKが何の寓意であるかは明らかとされず、第Ⅱ部でKを前にして当惑を隠しきれない医師は、私たちと同じ場に立っている。一方の世界が戦争や暴力、管理と結びついているのに対して、Kが希求するのは安らぎに満ち、大地と結びついた世界だ。種を蒔くことと遺灰を土に撒くこと、本書の核となるエピソード、生命が大地から到来し大地へと帰還していくイメージは美しい。キャンプや病院への収容と脱走を繰り返すKは二つの世界の間を往還する。二つの世界は共存しているといえよう。先にも述べたとおりこの物語に登場する地名は現実のそれである。一方でここに描かれた警察国家、誰ともわからぬ敵と永遠に戦争を繰り返す兵士たち、スラムと荒廃した土地の連なりのイメージは直ちに現実を反映しているとはいえないにせよ、私たちにとって決して未知のものではない。映画や小説で私たちは既にこのような光景に見慣れている。南アフリカという言葉からたやすく連想されるのはニール・ブロムカンプの「第9地区」に登場したエイリアンたちのスラムであり、あるいはアルフォンソ・キュアロンが「トゥモローワールド」で描いた警察国家、小説であればオーウェルの「1984年」は言うに及ばず、最初に挙げたカヴァンの「氷」、あるはポール・オースターの「闇の中の男」、そしてコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」。ブラッドベリの「華氏451度」から昨年の横浜トリエンナーレを連想してもよい。これまでこのブログで取り上げてきた作品やテーマばかりではないか。この小説は1983年に発表され、南アフリカの近未来を暗示しているとの評があったとのことだ。周知のようにアパルトヘイト体制は90年に崩壊したが、私の見るところ、この国はまだその傷から癒えてはいないようだ。そしておそらく30年前に予言されたこの小説の世界は現在、コロニアリズムに代わるグローバリズムという名の暴力によって南アフリカどころか世界的な規模で実現されつつある。日本でも人種隔離、端的にアパルトヘイトを称揚した女性評論家の発言は記憶に新しいし、フクシマに広がる荒廃した土地をKが旅したとしても何の違和感もないだろう。戦争に向かうこの国において、私たちはKのように一粒の種を大地に蒔くことができるだろうか。今という時点で読むことによって、私は本書が豊かな暗喩に富んだ傑作であることをあらためて思い知った。

by gravity97 | 2015-06-15 14:57 | 海外文学 | Comments(0)
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