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Living Well Is the Best Revenge

ハリ・クンズル『民のいない神』

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 未知の作家の抜群に面白い小説を読んだ。ハリ・クンズルという名前から直ちに作家の国籍を言い当てることは難しいが、クンズルはインド系のイギリス人。オックスフォード大学に学び、現在はニューヨーク在住とのことだ。インド系の英語作家といえば、直ちにサルマン・ラシュディが連想される。実際にクンズルはインドの文学祭に参加した際に、同国では出版が禁止されているラシュディの「悪魔の詩」を朗読するパフォーマンスを行ったこともあるという。しかしラシュディの小説がムンバイやカラチといったインド大陸を舞台としているのに対して、本書はアメリカ中西部の砂漠、きわめてアメリカ的な風景のもとに第二次大戦後から今日にいたるアメリカの精神史を凝縮するきわめて特異な内容の小説である。アメリカを主題としてインド系の作家によって英語で執筆された小説。日本という(実は特殊な)国家においては同一視される三つの要件、土地、民族、言語が一度分解されて、一つの必然性のもとに再び統合されたのがこの小説であるといえるかもしれない。今回はかなり内容に踏み込んで論じる。先入観をもたずに小説に向かいたい読者は先に本書を手にされたい。
 決して読みやすい小説ではない。特に冒頭部で読者は唖然とするだろう。「動物が人間だった頃、コヨーテはある場所に暮らしていた。『ハイキヤ! ここの暮らしにはもう飽きたぞ、アイキヤ、砂漠に行って、料理をすることにしよう』コヨーテはそう言って、研究所を作る場所を捜しにRVで砂漠へ行った。持っていったのは食パン十斤とラーメン五十袋。ついでに景気づけのウィスキーとマリファナも」冒頭から読者は珍妙でポップな神話風の語りの中に投げ込まれる。続いてエノラ・ゲイが広島に向かって飛び立つのを見送った飛行機整備士がUFOに拉致されるというこれまたぶっとんだエピソード、そして2008年、ニッキーという名のミュージシャンがロスアンジェルス郊外のモーテルでマリファナを吸って酩酊するという物語が続く。これらのばらばらなエピソードは果たして一つのストーリーへと回収可能なのであろうか。クンズルの手綱さばきは絶妙だ。断章形式で語られるいくつもの物語は相互にあいまいな文脈を形成し、時に矛盾しながら総体として「民のいない神」という傑出した小説をかたちづくる。ばらばらの断章から成立する小説形式から、私は最初、コルタサルの「石蹴り遊び」を連想した。しかし読み進めるうちに、この小説の断章形式はかなり綿密に構想されていることが理解された。それぞれの断章は西暦による暦年によってタイトルを与えられており、時系列として整理することが可能である。最初こそ相互に関係のないエピソードが重ねられているように感じられるが、読み進むにつれてこの小説はいくつかののサブストーリーを縄のように糾(あざな)っていることが理解される。中心となる物語は2008年と2009年の年記をもち、ほぼ現在の時制に立つ。アメリカに移住したパンジャブ人の家系に育ち、MITで物理学を学び、量子確率論を市場の予測に応用する投資会社の敏腕トレーダー、ジャズと妻リサ、彼らの息子で自閉症(この言葉を使用することに抵抗を感じるが、訳語として用いられているため、ひとまずこのまま用いる)のラージ、三人の親子をめぐる物語だ。ジャズの出自が作家を反映していることはいうまでもない。ジャズは多くの葛藤を抱える。インド系の一族とユダヤ人である妻の間には文化的な断絶があり、ことに一人息子が自閉症であることがわかってから、彼と妻、両親と妻の関係は悪化する。ヘッジ・ファンドとして荒稼ぎする会社の中にあっても彼は自分が正しいことをなしているという確信をもてない。とりわけ言葉をしゃべらず、頻繁に癇癪を起こすラージとの関係は緊張をはらんでいる。しばしば回想や連想が挿入されるため、必ずしも時間軸に沿っていないが、いくつも断章をとおして、ジャズとリサが知り合い、ラージが生まれるまでの物語、そして現在の彼らをめぐる不穏な状況が浮かび上がる。都会の生活に疲れた彼らは家族の再生を求めてカリフォルニアの砂漠に旅に出る。二番目のストーリーは1958年の年記をもつエピソードから始まる。この年、やはりカリフォルニア、モハヴェ砂漠で「アシュター銀河指令」なる宇宙的な存在との交信を主張する狂信者たちが大規模な集会を開く。この集会は一つの惨事とともに幕を閉じるが、そこに集まった者たちの後日談がもう一つの物語の系列をかたちづくる。彼らはカウンター・カルチャー、いわゆるヒッピー文化と親和し、フリーセックスと神秘思想、ニューエイジ思想によって結びついたコミューンを形成する。最終的に彼らは古い共同体から激しい弾圧を受けるが、彼らとそれを取り巻く人々の物語が二番目の系列だ。実はこれら二つの系列の物語は登場人物においてゆるやかに結びついていることが読み進めるうちに理解される。三番目の系列はわずか二つの断章から成り、年記としてはさらに以前の1920年、先住民の文化を研究するデイトンという男と妻の物語である。先住民の神話や言語を調査するデイトンに対して先住民たちは心を開かず、さらにデイトンが白人の子供を連れた先住民を見かけたことから、子供を誘拐した疑いのある先住民に対して人狩りが始まる。先住民=インディアンとの抗争という主題からはかつて論じたコーマック・マッカーシーの傑作「ブラッド・メリディアン」も連想されよう。これらのストーリーに加えて一つの断章によってのみ語られるいくつかのエピソードが語られる。例えば18世紀のスペイン伝道師についての報告。19世紀にモルモン教徒たちが幻視した光景。語られる物語は時代も登場人物も多岐にわたる。
 一見ばらばらなそれぞれのストーリーを束ねているのは何か。以上の説明から想像できよう。それはモハヴェ砂漠という土地、正確にはそこにそびえるピナクル・ロックと呼ばれる三本の尖塔状の岩山である。UFO信者たちはその傍らで大集会を開き、修道僧は天使に出会い、ジャズたちは事件に巻き込まれる。砂漠に屹立する三本の巨大な岩山とはまことにアメリカ的な風景であるが、実際には存在しないこのような風景が三位一体という神秘的啓示を暗示していることも行間から明らかだ。岩山に引き寄せられるように集い、驚くべき体験をする人々、かかるイメージから誰もが想起するのはスティーヴン・スピルバーグの映画「未知との遭遇」であろう。実際にこの小説においても宇宙の高次な存在との交信について語られ、先にも触れた冒頭に近い挿話においては、ピナクル・ロックの上に浮かぶ巨大な円盤から降り立った宇宙人たちに招かれて、一人の飛行機整備士が光の中に歩み出る。この場面から「未知との遭遇」のラスト・シーンを連想しないことは難しい。あるいはカリフォルニアならぬネヴァダの荒涼とした土地のモーテルに様々な人物が呼び寄せられるように集まるというディーン・R・クーンツのSFサスペンス「ストレンジャーズ」も連想されよう。
 しかしクンズルの小説は遥かに深い。もう一つの映像的記憶を召喚しよう。砂漠に直立する尖塔、このイメージからスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスが導かれることに異論はないだろう。実際にクンズルはこの小説の冒頭に三つのエピグラフを記しているが、そのうちの一つはキューブリックのフィルムの原作であるアーサー・C・クラークの言葉から引かれている。さて、よく知られているとおり、この映画の冒頭で人類の祖先とも呼ぶべき猿人が空に投げた骨(人にとっての道具の暗喩だ)は空中で回転しながら、宇宙船へと変わる。骨も宇宙船も人にとって道具として同じ意味をもつことを暗示するシークエンスであるが、かかる対照はこの小説にもたやすく認められる。1958年、ピナクル・ロックの前に集まるUFO教の信者たちに対して案内人(ガイド)は次のように唱える。任意の部分を引用する。「われわれは、星々の間でアシュター銀河指令部として知られている組織の代表だ。指令部はあなた方の文明を、歴史の夜明けからずっと監視下に置いてきた。(中略)しかしながらわれわれは今回、ルールに反して干渉する決断をした。あなた方が今、大変な危機にあるからだ。人類は物質をある未熟なやり方で扱う方法を発見した。あなた方が原子力と呼んでいる、原子を分裂させるテクノロジーだ」いかにもニューエイジ思想やオカルトにかぶれた戯言と批判するのはたやすいし、一方で本書は文化が資本によって収奪された今日、カウンター・カルチャーを再評価する試みと読めなくもない。ジャズは勤務先のヘッジ・ファンドでサイ・バックマンという辣腕トレーダーのもとで「ウォルター」なるシステムの開発に関わるように求められる。「ウォルター」とは地球規模の新しい量的分析モデルであり、市場におけるある種の予測可能なふるまいを見つけ出し、それを取引に利用して莫大な利潤を生むシステムである。「ウォルター」を稼働させることによってジャズは「1960年以降のCPUトランジスタ数とアフリカ系アメリカ人単親家庭男児の知能指数と、タイと東南アジアにおけるメタンフェタミン系覚醒剤蔓延の疫学的分析との間に周期的相関サイクルがあることに気づいた」50年代のUFO教をオカルティズムとして批判することはたやすい。しかしその一方で私たちが生きる時代に跳梁するヘッジ・ファンドが拠って立つ理論も一種のオカルティズムではないか。両者の対比は最先端のヘッジ・ファンドの金融工学も怪しげなUFO教とはなんら変わるところがないと説くかのようだ。しかも現代のオカルティズムはその影響力によって一つの国家の財政を破綻させるほどの力をもっているのだ。実際に自分たちの投資行動によってホンジュラスが財政破綻する可能性を知ったジャズは取引の中止を社長に訴え、自らのキャリアに幕を引くこととなる。
 ピナクル・ロックは空飛ぶ円盤と人類、神と人が出会う場である。そこは二つの世界が奇跡のように接する場であり、そこから消失と帰還という主題が派生する。ジャズとリサはラージを連れて砂漠にピクニックに行くが、ラージはピナクル・ロックの下の洞窟で忽然と消える。ラージを捜す二人、敏腕トレーダーの障碍をもった息子の誘拐という話題にジャーナリズムは食いつき、二人はメディア・スクラムの嵐に見舞われる。この事件は実際に近年、アメリカやヨーロッパで起きた幼児誘拐や、さらには両親に嫌疑がかけられた事件をモデルとしているだろう。しかし子供の消失は初めてではない。1958年に同じ場所でUFO信者たちが集会を開いた際にも参加者の一人、ジョウニーは娘のジュディーを失っていた。目撃者によればジュディーは光る男の子(グロー・ボーイ)とどこかに遊びに行ってしまったという。1970年の年記が付された断章ではジュディーの帰還について次のように語られている。スペース・ブラザーに一度連れ去られたジュディーは「ある日、まるで散歩から戻ってきたみたいな様子で、砂漠からあらわれた」このエピソードは物語の中で再話される。エピソードの一つとして、湾岸戦争下のイラクから眷属とともにかろうじて脱出したライラという少女は、中東に派遣される予定の兵士たちがイラクでの生活をあらかじめ体験できるように、モハヴェ砂漠の中に建設された現地そっくりの街でその住民として生活している。(魅力的な設定であるが、果たして実話であろうか)ある晩、知り合った黒人兵士から借りたナイトヴィジョン(暗視装置)を装着して出かけた彼女は、夜の砂漠を歩いて来る「光る男の子」を見つける。それは行方不明のラージであった。さらに消失と帰還という主題はラージにおいて奇妙な屈折を帯びる。砂漠からの帰還後、ラージは言葉を覚え、自閉症が治癒したかのような言動をとる。しかしジャズは喜ぶどころか、リサに対して、ラージが別人になったのではないかという恐怖を語る。ここからも一つの映像的記憶が喚起されるかもしれない。クリント・イーストウッドの「チェンジリング」である。そして同じ題名の小説が大江健三郎によって発表され、チェンジリング(取り替え子)がヨーロッパに伝わる伝承であること、神隠しや隠れ里といったエピソードが日本の民話の中にも典型的に認められることまで思いを馳せる時、この物語の射程はさらに広がるかのようだ。いくつものストーリーが複雑に嵌入しあい、さらに神秘主義からSF、ニューエイジ思想から民話やゴシップまでが砂漠に屹立する奇岩のもとで交錯する。
 タイトルの「民のいない神」とは何の暗喩か。エピグラフに掲げられたバルザックの言葉がその答えだ。「砂漠には何でもある。と同時に、何もない。砂漠は神だ。しかし、そこに民はいない」「民のいない神」とは物語の舞台となる砂漠のことであろう。以前、よくLA経由でニューヨークに向かったが、その際に上空から白茶けた砂漠が一面に広がる荒涼とした光景を何度も目にした。アメリカ中西部の砂漠とはアメリカという国家にとっての無意識、あるいは原風景といえるかもしれない。スティーヴ・ライヒやコーマック・マッカーシーといった私のお気に入りの音楽家や作家が砂漠を主題とした作品を発表していることもこれと関係しているだろう。Gods Without Men 、神が複数であることに注目しよう。UFO教の信者たちは宇宙の高次の存在を信じ、辣腕トレーダーたちーは小さな国家が破綻しようとも自らの利潤を崇める。先住民を指導する神父は天使に会い、兵士はイラク人を殺すために別の砂漠に向かう。登場人物の多くがアメリカに移住してきた者たちであることにも留意すべきであろう。様々の神が、いくつもの歴史が、無数の血統がアメリカという場所で出会う。本書はイギリスに生まれ、アメリカで暮らすインド系の作家でなければ書くことができない、アメリカについての壮大な寓話といえるかもしれない。
by gravity97 | 2015-05-19 20:54 | 海外文学 | Comments(0)