アンナ・カヴァン『氷』

b0138838_15585816.jpg アンナ・カヴァンは近年、日本でも再評価の高まっているフランス生まれのイギリス人作家である。私も以前「アサイラム・ピース」という短編集を読んで、独特の文体と作品にみなぎる緊張に圧倒された覚えがある。本書は1985年にサンリオSF文庫に収められた後、2008年に改訳復刊されたが、版元の在庫がなくなったため、今年、ちくま文庫で再び復刊されるという数奇な運命をたどったカヴァンの代表作である。不安定な精神を抱え、ヘロインを常用していたというカヴァンは本書を刊行した翌年、1968年に不審死を遂げた。(当時、ヘロインは違法ではなく、自殺の可能性は否定されている)本書の読後感を一言で言うならばJ.G.バラードの終末感とカフカの不条理文学の結合であろうか。まことに鮮烈な印象を与える傑作である。
 この小説は「私は道に迷ってしまった。すでに夕闇が迫り、何時間も車を走らせてきたためにガソリンは実質的に底をついていた」という一文で始まる。実にこのパッセージに本書の核心が凝縮されている。つまり、「氷」は主人公たる「私」が常に別の場所に向かってひた走るロード・ノヴェルであり、同時に主人公を取り巻く世界は尋常ならざる緊張を負荷されている。世界は大規模な気候変動によって寒冷化し、氷に閉ざされつつあるのだ。終盤に象徴的な情景を主人公が飛行機から眺める場面がある。このような描写だ。「虹色の氷の壁が海中からそそり立ち、海を真一文字に切り裂いて、前方に水の屋根を押しやりながら、ゆるやかに前進していた。青白い平らな海面が、氷の進行とともに、まるで絨毯のように巻き上げられていく。それは恐ろしくも魅惑的な光景で、人間の眼に見せるべく意図されたものとは思えなかった」大洋が氷に閉ざされてゆくヴィジョンは非人間的かつ幻惑的であり、本書の基調を形成している。気候変動による世界の破滅という物語はバラードをはじめ、SFに多くの先例があるが、物語の中ではそのような事態がなぜもたされたかについての説明は一切なく、破滅に抗う者もいない。人々はあたかも定められた運命であるかのごとく地表を、大洋を覆い尽くす氷からの脱出を試みる。終わりなき移動は本書に一貫するモティーフといえよう。寒冷化と呼応するかのように都市では内乱が発生し、略奪や暴行が蔓延し、伝染病や飢饉、戦争の噂も広がっている。崩壊しつつある世界の中をあてもなくさすらう主人公からは、以前このブログでも取り上げたコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」が連想されてもよい。しかしこの物語の異様さは登場人物たち、そして彼らの行動に背景や脈絡が与えらない点にある。今、あてもなくと述べたが、これは正しくない。名前をもたず外面的な描写を完全に欠いた主人公は物語を通じてひたすら「少女」を求めて彷徨する。主人公と少女の関係は冒頭で次のように述べられている。「あの少女に会いに行くという抑えがたい思いは自分でも理解できなかった。異国にいる間中、彼女のことが私の意識から離れることはひと時たりとてなかったが、かと言って、帰国の理由が彼女だというわけではなかった。この地域に何か不可解な切迫した非常事態が起こっているという噂を調査するためだ。だが、この国に着いた途端、彼女は強迫観念となり、私は彼女のことしか考えられなくなった」すでにこの時点で主人公の「少女」への執着は明らかであるが、「少女」とは誰か、主人公とどのような関係をもつか、物語の中では一切明らかとならない。今引用した一文からうかがえるとおり、主人公はヨーロッパの北部を連想させる地域(土地に対して「フィヨルド」という言葉が用いられている)が氷結する状況を調査するためにほかの国から派遣されたエージェントらしい。実際に身体能力の高さや多額の現金を所持していること、時に偶然を装って届けられる秘密の指示といったエピソードはこのような推測を補強する。しかし主人公の口からは自らの役割や少女との関係が一切説明されることがない。一人称による物語でありながら、読者と物語の間には常に不透明な膜が張りめぐらされているかのようだ。さらに作中にはもう一人、「長官」と呼ばれ、絶大な権力をもつ人物が登場する。物語の冒頭で夫のもとを逃れて出奔した少女を求めて、主人公は凍りつつある世界をさまよい、彼女が「高い館」と呼ばれる城館で長官に庇護されていることを知る。主人公は「高い館」から少女を連れ去ろうとするが、少女はしばしば主人公を拒絶し、逃亡する。いたるところで少女は消え失せるが、いたるところで見出される。私、少女、長官の「パ・ド・トロワ」(三人組の舞踏)として物語は進行する。しかしそれはいかにもかみあわないまま続けられるのだ。ここで三人がいずれも固有名を与えられていない点は注目に値する。カフカのK、オースターのブルーのごとく、登場人物は記号化、抽象化されているといってもよかろう。しかしこの小説を寓話と呼ぶにはあまりに鮮烈なイメージが次々に提示される。先に引いた凍結する大洋のイメージもその例である。さらに冒頭から任意の箇所を引く。「少女は私の正面、ほんの少し斜面を下ったところにうずくまっている。その体の白さも雪にはわずかに及ばない。巨大な氷の断崖が四方に迫っている。光は蛍光を帯びている。冷たく平板な影なき氷光。太陽もなく、影もなく、生命もなく、ただ絶対的な寒気だけが広がっている。私たちは押し寄せてくる氷の環の真ん中にいた」このようなイメージは描写というより幻視と呼ぶことがふさわしいのではないか。主人公の視界に少女はとらえられているが、主人公の位置ははっきりとしない。語り手の身体を欠いた奇妙な描写は頻繁に導入され、このため一人称で語られながらも読者は主人公に焦点化することが難しい。全編を通じて主人公たる私の視点と全能者の視点が混在する不思議な叙法が用いられている。別の言葉を用いるならば、読者はここで語られるのが現実であるか幻想であるか区別することが難しい。終末的で絶望的なヴィジョンを語るきわめて分裂的な語り。これがこの小説の魅力をかたちづくっているといえるのではなかろうか。
 物語の終幕で主人公たる私は軍用車を奪い、少女とともにブリザードの中を疾走する。先に記したような終末的ヴィジョンが横溢するこの小説はきわめて視覚的であり、それゆえ映像的記憶を強く喚起する。この小説における唯一の楽園的なヴィジョンとしては熱帯の島に住むインドリという歌うキツネザルについて語られ、そして実際に主人公は光と色彩にあふれた熱帯の町にごく短い期間、少女とともに滞在する。氷に閉ざされて崩壊の過程にある世界と、気候変動の予兆を秘めながらも陽光にあふれ、花々が咲き乱れる熱帯の町の対比は鮮やかであるが、かかる対比はこのブログでも論じたリドリー・スコットの「ブレードランナー」のいわゆる「インターナショナル・ヴァージョン」のラストシーン、暗鬱な雨が降り注ぐ街から抜け出し、緑と陽光の溢れる情景の中を滑空するデッカードとレイチェルのペアを連想させないだろうか。さらには氷結する世界をひたすら疾走する軍用車のイメージからは、車と列車という違いこそあるが、ポン・ジュノの「スノー・ピアサー」もたやすく連想されよう。
 本書にはクリストファー・プリーストの序文が付されている。プリーストは「氷」をスリップストリーム文学に分類される作品の中でも最重要の作品であると指摘している。スリップストリームとはメインストリームに対する概念で、主流文学に対する傍流文学とでも訳すべきであろうか。プリーストはこのような概念が最初にSFの領域で提起されたと指摘し、バラードと並んでジョン・スラデック、トマス・M・ディッシュ、フィリップ・K・ディックを挙げ、SF以外のジャンルからもアンジェラ・カーター、ポール・オースター、村上春樹そしてボルヘスとウィリアム・バロウズらの名を挙げている。なるほど私がこの小説に魅了されたはずだ。未読の作家も何人かいるが、スリップストリームの系譜は私のお気に入りの作家のラインナップとかなり重複しているではないか。最初に私はバラードとカフカの名を挙げたが、彼らもメインストリームの文学ではないだろう。ただし川上弘美は本書の文庫版のためのあとがきの中で、カヴァンの小説が、プリーストのいう「スリップストリーム」の小説よりもずっと「狭い」という的確な指摘を加えている。確かにカヴァンにとってスリップ/メインという対比は意味をもたないかもしれない。おそらくここに描かれた情景、次第に氷に閉ざされていく世界とその中を疾走する感覚は自殺未遂にいたる精神的な破綻を何度も繰り返し、ヘロインによって賦活された作家の心象風景であろう。そしてかかる極限的な精神から生み出された終末の光景に一種の崇高ささえ感じるのは私だけではあるまい。
by gravity97 | 2015-05-03 16:02 | 海外文学 | Comments(0)