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Living Well Is the Best Revenge

「PARASOPHIA : 京都国際現代芸術祭2015」

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 先日より京都で「PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015」が開かれている。ひとまずメインとなる京都市美術館と京都府京都文化博物館を訪れてみた。予想通りあまたの国際美術展と比べても遜色のない、充実した内容の展示であった。
 知られているとおり、このところ国内で国際芸術祭が相次いでいる。昨年夏の横浜トリエンナーレについてはこのブログでも評したが、その後も札幌で札幌国際芸術祭が開かれ、あいちトリエンナーレと瀬戸内国際芸術祭は来年に開催が予定されている。町おこし地域おこしを絡めた芸術祭のラッシュの中で、後発の京都国際芸術祭にとってその内容をいかに差異化するかということが大きな課題であったはずだ。展覧会に先立っておびただしいプレ・イヴェントが開催され、出品作家が数次にわたって発表されたが、出品作家を知って私はやや失望した。多くの作家が国際展の常連であり、さらにこの国際展のディレクターである河本信治氏が企画する展覧会への出品者であったからだ。ウィリアム・ケントリッジ、ピピロッティ・リスト、やなぎみわといった作家たちは既視感が強い。実際に展覧会を見た印象としても映像が多用される展示、あるいはカタログの形式は「プロジェクト・フォー・サバイヴァル」や「STILL/MOVING」といったかつて京都国立近代美術館で企画された展覧会を強く連想させる。しかし作家や展示方法の類似にもかかわらず、実際に会場を回ってみるとPARASOPHIAは国際現代美術展を知悉し、自身も第一回横浜トリエンナーレのディレクターの一人を務めた河本氏ならではたくらみや仕掛けに満ちた企画であり、国際展の在り方を相対化する、批判的、自覚的な意識が反映されているように感じた。以下、この展覧会の特質を三つの点から論じる。
 この展覧会の成功の第一の理由は、作家を国際展としては比較的少数の40組に限定し、それぞれに十分なスペースを与えた点だ。出品作家はこれまでに何度も国内で作品が展示された作家から、初めて名前を知り作品を見る作家まで多様であるが、数はさほど多くない。展示は二つの美術館以外にも市内に散在しているが、京都市美術館で8割以上を見ることが可能である。市内に設置された作品についても地図等のインフォメーションは豊富であるから、この時期、京都くらいの大きさの町であれば、ミュンスターの彫刻展のごとく自転車を借りて作品巡りをすることも楽しいだろう。現代美術ファンならずとも手頃に作品に親しむことができる作家数とスケールである。国際展に赴くととにかく作品数が多くて疲れ切ってしまうことが多い。確かにたくさんの作品を一度に見ることができるのは国際展の醍醐味であるが、作家数や作品数を増やすことに腐心して、結果として必ずしも質の高くない作品が散見される場合が多いのに対して、PARASOPHIA は明確な対案を提起している。次に論じる問題とも関わっているが、開催にあたって、主催者は出品作家に現地を確認させている。展覧会のフライヤーに次の言葉がある。「PARASOPHIAは準備期間の2年間を通じて参加作家のほとんど京都に招聘しました。作家たちは京都の歴史や文化遺産からだけでなく、人々の暮らし方からも多くのものを読み取り、京都と関わることで新しい作品に挑戦しました。京都市内の場所と出会い、その場の人々や歴史と対話することで新しいビジョンを得た作家たちもいます」予算規模にもよるだろうが、国内外から作家を招聘し、適切に対応するためには確かに40組という出品作家の規模は適正というか限界であったかもしれない。個々の作家には作品に応じてかなり広い空間が与えられる。美術館の場合、時に展示室を数室利用して作品が設置されている。このような贅沢な空間は国際展というより、連続個展といった方がよいかもしれない。映像を使用する作家が多いため、空間的な余裕は大きな効果を上げていた。充実した展示が多いためであろうか、PARASOPHIAは中心的な作品、一人の作家や一つの作品で展示が代表されることがない。確かにメインヴィジュアルのピピロッティ・リストややなぎのトレーラーは強い印象を与えるが、例えば横浜トリエンナーレにおける塩田千春やダニエル・ビュレンのごとき中心的な作品は存在しない。今回のカタログにはディレクターによる出品作家の選定基準が端的に記されている。「参加作家は『私が、いま(も)興味深いと思える作家』という基準で選びました。40組を統合するテーマや表現傾向があるわけではありません」興味深いことに2年前から始めた準備作業の最優先事項は、親しみやすい呼称を決定することであったという。PARASOPHIAとは「向こう側の別の知性」という意味で、言葉の意味と女性的で軽い音感の結合によって選ばれたという。展覧会のテーマや出品作家以前に呼称を決めるという発想は斬新であり、確かにパラソフィアという語感はこの展示にふさわしい。
 b0138838_2055227.jpg第二の特質は作品と会場、とりわけメイン会場とされた京都市美術館との強い親和性に求められる。以前から強く感じていたことであるが、1933年に開館したこの美術館は壮麗な帝冠様式の建築で、内装も実に凝っている。しかしながら恒常的に貸し会場として用いられてきたため、建築は展示壁の中に隠され、全貌をうかがうことができなかった。今回の展示では美術館のほぼ全体を用い、ふだん見ることのできない場所も実に効果的に使用されていた。例えば私としても初めてその存在を知った地下室を利用して二つの展示がなされていた。一つは高嶺格の《地球の凹凸》というインスタレーション、もう一つは「美術館の誕生」という展示だ。後者はおそらく事務局によって企画された展示であろうが、「大礼記念京都美術館の誕生」「接収期から京都市美術館の誕生まで」「現代美術と京都市美術館」という三つのテーマのスライドショーが上映されており、実に興味深かった。昭和天皇の即位の奉祝事業として建てられたこの美術館は戦後、米軍に接収された経緯がある。地下室で70年の時を隔てて私たちの前に示されるSHOE SHINEの文字、当時の靴磨きの看板はあたかもコンセプチュアル・アートのようではないか。そしてこの展示を見て私は長年の疑問の一つが氷解した。「現代美術と京都市美術館」のセクションでは1970年に中原祐介が企画した名高い展示、東京ビエンナーレ「人間と物質」の京都巡回について触れられている。その際にリチャード・セラは市美術館の庭に鉄製のスクエアを敷設し、セラの作品集にも掲載されている(設置場所が京都国立近代美術館と誤記されている文献もある)。私は以前より市美術館に赴くたびにそれとなく建物の近くを捜してみたのだが、見つからず、長らく不審に感じていた。しかし今回の展示に付されたキャプションによればこの作品のあった場所は現在収蔵庫が新設されているとのことなので、おそらくその際に撤去されたのであろう。同じように上野公園に敷設された鉄のサークルは多摩美術大学に移設されたと聞くから、この顛末を聞いてセラは《傾いた弧》同様に怒るのであろうか、それとも場と関係をなくした作品にもはや存在理由を認めないだろうか。
 この問題は国際展の在り方に一つの問いを突きつけるし、PARASOPHIAでかかる問題が問われたことは意味がある。「人間と物質」にあたってセラは東京で次の言葉を残している。「たいていの作家は(東京ビエンナーレのごとき国際展に)来る前にプロジェクトが出来ていて、いわばパッケージをもってやってきて、それを開いて見せているだけだ。それでは来た意味がない。ここ東京にいるなら、東京にいるという事実に立つべきだ。おれはいつもその場所での経験だけに興味がある」東京ビエンナーレの際にも多くの作家が来日したが、今回の展示においても作家たちを招聘し、自分たちの作品が展示される施設や街を体験させたことは大きな意味があるように感じる。作品と場との関係はミニマル・アート以来、何度となく作品とされてきた。この問題に関して注目すべき作品を発表していたのは田中功起である。田中はこの美術館をリサーチして、先にも触れた二つの出来事、米軍による接収と「人間と物質」展の開催に着目する。事前に田中は地元の高校生たちを集め、ワークショップを開催した。彼らは在日米軍に関するレクチュアを聞き、戦争と平和について討論する。展示室の床に布を設置するパフォーマンスはいうまでもなく「人間と物質」におけるクリストの展示の追体験だ。さらに彼らがバスケットボールの練習に励む映像は、接収されていた時期、展示室内にバスケットのゴールが設えられて、米兵たちがバスケットボールに興じていたというエピソードに由来する。この作品からは戦争と芸術とスポーツが一つの場に重ねられた美術館の記憶が立ち現れる。田中は必ずしもサイト・スペシフィシティーを原理とする作家ではないが、今回の発表はこの展覧会でなければありえない内容であった。
 今再び「人間と物質」に触れた。PARASOPHIAは35年前に同じ会場で開かれた国際美術展への応答と捉えることができるかもしれない。この機会に「人間と物質」関係の資料を確認したところ、奇しくも「人間と物質」にも同じ数、40名の作家が参加している。「人間と物質」の場合は日本人作家が12名含まれているが、全ての日本人作家と17名の外国人作家が最初の開催地である東京での陳列に参加したという。この点は「参加作家のほとんどを京都へ招聘した」というPARASOPHIAの取り組みと似ている。展覧会コミッショナーの中原祐介は次のように記している。「それ(人間と物質の関係の協調や体験)はまた、多くの参加者が、アトリエのなかであらかじめ作品をつくり、それを展示するのではなく、直接、場所をたしかめ、その状況を知ったうえで、仕事をするという行為とも結びついている。場所もまた抽象的なものではなく、この人物と物質の触れ合いのなかに包含される無視できない要素だからである」「人間と物質」あるいはほぼ同じ時期に開かれた「態度がかたちになるとき」、あるいは「アンチ・イリュージョン」といった国際展においても同様の臨場主義が認められ、「態度がかたちになるとき」についてはこのブログでも論じた。これらの展覧会においては作家が実際に現地で作品を構想し、設置するという意味において場と換喩的に関係が結ばれるのに対して、PARASOPHIAにおいてはむしろ事前に京都を訪れプレ・イヴェントなどに参加した作家たちがそこでインスピレーションを得て、あらためて出品作品を構想するという隠喩的な関係性が成立している。映像という表現はこのような手法に向いており、「人間と物質」とPARASOPHIAのかかる潜在的な関係性は私には大変興味深く感じられた。
 b0138838_207850.jpg三番目の特質は展覧会と関連した出版物に関わっている。今回、感心したのは会場入口にうずたかく積まれた無料のガイドブックである。来場者はそれを手に会場に向かう。このガイドブックが優れているのは、ほぼ作品の展示順に作品が掲載されていることだ。その点は冒頭に明記されており、逆に言うならば、このガイドブックに従えば展示作品を全て見ることができるのだ。当たり前のことのようであるが、これは親切な配慮である。巨大な美術館や倉庫で開かれる展覧会の場合、私たちは適切な順路を見つけ出すことができず、往々にして作品を見落とすことがある。もちろん必ずしもその順序に従って会場を巡る必要はないが、ガイドブックを片手に作家名を確認しながら進むことによって、来場者は正しい順路と作家についての最小限の知識を知ることができる。通常の国際展でも会場にガイドブックが用意されることがある。しかし多くの場合、それらは有料であり、ガイドブックというより、カタログが刊行されるまでの間、(多くの国際展でカタログは会期中、場合によって終了後に発行される)カタログの代用品としての中途半端な位置に留まっている。今回のようなガイドブックを作成するためには事前に作品の設置場所を定め、作品や作家についての情報を得ておくことが必要となる。PARASOPHIAにおいてこれが可能となったのは作家数の限定、そして事前の下見によるところが大きいだろう。それがなければ地下室が使用されたり、美術館の備品である巨大な展示ケースが展示に組み込まれることはなかったはずだ。無料かつ情報に富み、書き込みやマーキングが自由なガイドブック。決して驚くほどの工夫ではないのだが、その存在はていねいに作り込まれたこの展覧会にふさわしい。そしてかくも充実したガイドブックが無料で準備されたことによって、開幕と同時に会場に準備されたカタログは別の役割を帯びることとなった。350ページに及ぶカタログは出品作品に関するインフォメーションに富んでいる。デザインは河本氏の企画した展覧会のカタログを一貫して手掛けてきた西岡勉氏による。いつものように企画者による簡潔なイントロダクションに続いて、それぞれの作家について作家の言葉や関係者による解説が加えられている。例えばアラン・セクーラのセクションでは表象文化論学会で発表されたセクーラについて研究が掲載されており、それ自体が作家論を形成するかのようだ。インデックスがないため、検索に時間がかかる点が(おそらくは意図された)不便であるが、これほどの情報量をもった国際展のカタログを私は知らない。確かにディレクターや関係者が文章を書き連ねたカタログは数多い。しかし、このカタログでは展示の理念やコンセプトが長々と論じられるのではなく、あくまでも出品作家の資料集であることが目指されている。国際展に関する出版物は単なる報告と考えられがちであるが、PARASOPHIAにおいてはこの点に関しても深い配慮が認められる。
 以上、個々の作家や作品についてはあえて詳しく言及することなく、展覧会全体について論じた。実際には私も会場で多くの興味深い作品に出会ったのだが、それらについてはここでくどくど述べるよりも、まず実見していただくのがよいだろう。私たちは次々に開かれる国際展やらビエンナーレ、トリエンナーレにいささか食傷している。それは多く美術の本質とは全く無関係の、国威発揚、地域おこし、あるいは記念事業といったくだらない目的のアリバイとして作品が召喚されてきたことに起因する。しかし昨年の横浜トリエンナーレ、そして今回のPARASOPHIAと、ディレクターに人を得た時、日本においてもそれなりに興味深い展覧会を実現することも可能なのだ。奇しくも今、信楽のMIHO MUSEUMでもバーネット・ニューマンの奇跡的な展覧会が開催中である。春に向かい、まもなく京都も桜が満開となろう。この時期、二つの展覧会を合わせて出かけてみるならば、現代美術の素晴らしく充実したエクスカーションとなることを私は保証する。
by gravity97 | 2015-03-28 20:11 | 展覧会 | Comments(0)