「阪神・淡路大震災から20年」

b0138838_19322938.jpg 震災に関連したレヴューを続ける。といっても東日本大震災ではなく、今年の初めに20周年を迎えた阪神・淡路大震災と関わる内容である。
 先日、神戸の兵庫県立美術館で「阪神・淡路大震災から20年」という展示を見た。通常は常設展示に使用される展示棟を用いた三部構成の展覧会である。兵庫県立美術館の前身である王子公園の兵庫県立近代美術館は阪神大震災で最も激しく被災した美術館であったから、この館が震災と表現の関係を検証することを自らの責務とみなすことは十分に理解できる。実際に震災から5 年が経過した2000年、兵庫県立近代美術館時代にも「震災と美術」という展覧会が企画され、私も見た記憶がある。この展覧会では震災に触発された多くの作品が展示され、カタログも震災から展覧会が開かれた時点までの詳細な記録を掲載し、震災の記憶の生々しさをうかがわせた。それに対して、阪神大震災から相当の時間が経過した今回の展示では、より巨視的で抽象的なレヴェルで震災と美術の関係を検証する内容となっており、さらに興味深い。今回の展示の三部構成はそれぞれ「自然、その脅威と美」「今、振り返る―1.17から」「10年、20年、そしてそれから-米田知子」と題されている。タイトルから推測されるとおり、最後の第三部のみ個展形式をとり、第一部は他館から借用された作品、第二部はこの美術館のコレクションと震災の際にレスキュー作業の対象とされた作品を中心とした展示である。かかる構成は震災と美術というテーマが重層的な意味をもっていることを暗示している。私の言葉に置き換えるならば、第一部においては美術が震災を含めた自然災害をいかに表象するかという問題が問われ、第二部では逆に震災が美術作品と美術館にいかなる問いを突き付けたか、そして第三部においては震災の表象不可能性という問題が扱われている。
b0138838_19332571.jpg 第一部に展示された作品は比較的理解しやすい。文字通り、自然の脅威としての災害を描いた作品群が展示されている。噴火、台風、そして震災や津波といった自然現象を主題とした黒田清輝から大岩オスカールまで多様な作家による作品が展示されているが、自然災害の被害を記録した作品は比較的少ない。震災後の風景を描いた作品として私は以前、東京都現代美術館で鹿子木孟郎、京都国立近代美術館で池田遙邨という二人の画家のスケッチをまとめて見た覚えがあり、後者は今回も展示されていた。鹿子木には震災を描いた油彩画もあったように記憶する。震災の直後の情景を記録にするには手早く制作できるデッサンやスケッチが有効であるが、記録性において写真には及ばないかもしれない。展示の第二部には阪神大震災を主題とした作品も数点出品されているが、写実的な作例は少なく、上に掲げた福田美蘭の作品のごとく一種コンセプチュアルな表現さえ用いられていた点は留意すべきであろう。この点は東日本大震災においても反復されている。原子力災害という不可視の災害が発生したこととも関連しているであろうが、例えばChim↑Pom や竹内公太の作品は、いずれも映像として成立しており、私たちを襲う災厄が今や絵画のリアリズムを超えていることを暗示している。ところで自然の脅威は災害をもたらすと同時に美に匹敵するセンセーションの起源であることも今日広く知られている。それは崇高という感覚だ。自然の圧倒的な脅威とそれを前にした人間の卑小さの自覚は崇高という観念を呼び起こした。知られているとおり、ロバート・ローゼンブラムはかかる系譜をドイツロマン主義から抽象表現主義への理路として位置づけ、抽象的崇高という概念を提起した。しかし黒田清輝の筆による桜島の噴火から金山平三の描く荒天の海にいたるまで、日本においては崇高という感情を喚起するほどの自然現象や風景を眼前にすることは稀であり、この意味でここに展示された作品はやや中途半端な印象を与える。抽象的崇高という点から私はここに近年の中村一美の作品を加えたい思いがあるが、さすがに展覧会としては分裂的な印象を与えるかもしれない。
 第二部ではかかる夢想を断ち切るリテラリズムが徹底される。最初に津高和一の作品が象徴的に置かれている。いうまでもない、関西を代表する抽象画家であった津高は震災によって夫人とともに落命した。私は作家が存命中にアトリエを訪れたことがある。日差しのよいアトリエでたくさんの猫に囲まれていた夫妻の姿が今も目に浮かぶ。作家のみならず作品も震災で大きなダメージを受けた。この点は既に何度か報告されているが、今回の展示では震災によって物理的に損傷したジュリ・ゴンザレスやメダルト・ロッソの彫刻、マックス・クリンガーの版画などがその修復の記録とともに提示されている。天災とはいえ作品が損傷を負ったという事実は美術館としてはなかなか公表しにくい。今回このような形で展示に加えることが可能となったのは、それらが今日最善とされる方法で修復されたこととともに、やはり震災から20年という時間が経過したことが大きな理由であろうし、美術館が新築され、かつての機能が王子公園から岩屋に移ったことも影響しているだろう。美術館が倒壊した現場で破損した作品の記録を展示することはさすがに生々しい。とはいえ会場には被災した美術館の写真や当時の新聞記事が多数展示され、当時の記憶を留めている。当時、この美術館に勤務していた学芸員が何かのインタビューで、震災直後、美術館を遺体安置所として使用できないかという打診があったと述べていたことを記憶する。かつてキャロル・ダンカンは「美術館という幻想」の中で霊廟としての美術館について言及していたが、美術館と死者との関係は深く思考するに値する。この美術館は損傷が激しいため遺体安置所としても使用できなかったが、当時、避難所として使用され、展示室で人々が生活していた美術館も阪神間には存在するのだ。一方でこのセクションでは被災直後より続けられたレスキュー活動についても紹介されている。中心として取り上げられているのは芦屋にあった写真家中山岩太のスタジオから救出された作品と資料であり、会場にはカメラや資料群、救出されたネガからプリントされた写真作品などが展示されていた。このレスキュー作業は当時の芦屋市立美術博物館や兵庫県立美術館の学芸員、文化庁の呼びかけに呼応した「文化財レスキュー」の専門家チームが参加し、この事業としても最初の試みであったという。余震が続く中での作業は相当に困難であったと思う。展示されていた作品の中には中山が神戸の風景を記録した何枚かの作品があった。そこに写っていた阪急三宮駅の駅舎は戦災には耐えたものの震災で倒壊したとキャプションにあり、いささかの感慨を覚えた。この写真については後でもう一度触れる。このセクションの最後の部分は作品の保存・修復と教育・普及活動を扱い、この美術館で修復された作品や作品に寄せられた子供たちの感想などが紹介してあった。この部分には若干の異和感を覚えた。というのはここで紹介されている作品は例えば1998年に東灘区の邸宅から取り外された北村四海の鋳造レリーフであるが、年代からわかるとおり、直接震災との関係を有していない。先に述べたとおり阪神大震災に始まる「文化財レスキュー」のノウ・ハウは引き継がれ、先の東日本大震災の折にも多くの作品を救出した。レスキュー事業の全貌は二つの震災に関して全国美術館会議から発行された報告書に詳しい。震災は美術館で保存・修復にあたるスタッフにとっても修羅場であり、震災とコンサヴェーションは深い関係がある。しかしこの部分の展示では震災と直接関係のない作品が例示されているため、緊張感が殺がれるのだ。むろん修復作業にせよ普及活動にせよ美術館で日常的に続けられる活動である。いわば戦時の美術館を主題としたこの展覧会で平時の姿を見せられても少々当惑してしまう。今述べたとおり、阪神大震災直後、戦時の美術館においても修復や普及は続けられた。当時の資料を確認するならば、被災後日を置かずしてLAよりポール・ゲッティ美術館の担当者が来場し、破損した作品の処置について助言したという。(奇しくもゲッティ美術館も阪神大震災のちょうど一年前に地震で被災していた)先に述べた文化庁の文化財レスキューの活動もあったはずだ。被災し、修復された作品とともにこれらについて詳しく紹介した方が本展の趣旨にふさわしかったのではなかろうか。あるいは普及活動についても、会場に置かれたパンフレットによれば、世情が落ち着いた3月頃より、全国の美術館から寄せられた作品の絵はがきを避難所等に配布する作業のためにボランティアが活動したこと、あるいは市内の銀行のロビー等を利用して一種の移動美術館を開催したことが触れられている。震災下における修復や普及活動こそ展示に組み込まれるべきではなかっただろうか。
b0138838_19353486.jpg 第二部までが震災と美術の関係を多様な角度から問う内容であったのに対し、米田知子の個展として構成された第三部は趣を異にする。展示されたのは101×120cmのカラー写真が8点。いずれも無人の市街や風景、室内が撮影されている。実はこれらの写真は震災10年後の2005年、芦屋市立美術博物館で開かれた個展「震災から10年 米田知子展」に出品された作品であり、タイトルが示すとおり、震災から10年が経った芦屋市内の風景が写し出されていた。パンフレットによれば、この際には震災から間もない時期に被災地の風景を撮影したモノクロ絵画も合わせて発表され、二つの風景が対比されていたという。私はこの展示を見ていないので、出品作品数や二つの風景がどのように「対比」されていたかはわからないが、撮影対象は作品名として明示されている。例えば《空地Ⅱ―市内最大の被害を受けた地域》、《教室Ⅰ―遺体安置所をへて、震災資料室として使われていた》といった具合だ。これらの写真の意味については会場のパンフレットに的確に要約されている。少し長くなるが引用する。

 震災から10年近く経った時点で撮られたこれらの写真にはたとえば倒壊した建物のように震災に直結するイメージは全く見当たりません。人気のない部屋や、ぼっかり空いた更地など、むしろそこに何も「ない」ことが強調されているようにさえ見えます。写真は目の前にあるものを記録し伝える媒体であるという一般的な理解からすれば、なんとも逆説的なことかもしれませんが、この作品の場合は、震災の具体的なイメージが「ない」がらんと静まりかえった世界であるからこそ、見えない不安や恐怖、そして喪失感が、より強く感じられるのではないでしょうか。そこにはたった10年で「見えないもの」になってしまう、という怖さも含まれているかもしれません。

 美術でも文学でも映画でもよい、私たちは表現によっていかなる対象も表象 re-present できると考えている。字義通り、それは出来事を再=提示することだ。しかし果たしてそうか、歴史の中には表象しえない事件が存在するのではないか。正確にいえば表象することによってその本質を逸する事件が存在するのではないか。このような問題はユダヤ人問題の「最終解決」、ホロコーストをめぐって提起された。具体的にはクロード・ランズマンの1985年のフィルム、「ショアー」だ。現在、東京で上映されているらしいこの作品を私はかつてNHKのBS放送で見たことがある。今、確認すると奇しくも阪神大震災の年、1995年のことだ。私はTVを見る習慣がほとんどないから、この映像を見ることができたのは奇跡的な偶然であった。当時、私はこの作品について知らず、おそらく深夜、何かの理由があってTVをザッピングしている時に偶然に視聴したのであるが、一度目にすると私は目を離すことができず、最後まで見たことを覚えている。私が記憶しているのはかつて絶滅収容所があった場所を映しながら、サヴァイヴァーの回想がヴォイスオーヴァーされる場面、そして確か床屋でランズマンの質問に答える元SSの証言を隠し撮りする場面である。かくも強い印象を受けながら私がこの際の放送による上映を翌日以降見なかった理由は内容のあまりの重さに耐えかねたためであろう。震災がホロコースト同様に表象不可能な事件であるか否かという問題には議論の余地がある。しかしランズマンのフィルムは表象しえないものの表象という難問にいくつかのヒントを与えてくれる。知られているとおりランズマンは記録映像の類を一切使用せず、現在の絶滅収容所跡の風景と関係者へのインタビューによってこのフィルムを構成した。つまり徹底的に現在の視点に立つのだ。かかる視点を得て、不在という問題が浮かび上がる。彼が表象しようとしたのはそこに収容された万を単位とするユダヤ人がもはや存在しないという事実なのであり、それこそがホロコーストの本質なのだ。一事業者の善意によって何人かのユダヤ人が救われたという事件をあたかもホロコーストの表象のごとく差し出すスピルバーグの「シンドラーのリスト」をランズマンが全否定することは当然であろう。物語による表象は事件の本質を隠蔽する。さて、ジャン=フランソワ・リオタールは同じ絶滅収容所について、地震と関連した比喩によって論じている。人間の歴史にとってこの事件は地震計、つまりそれを外部から測定する基準までも破壊するあまりにも大きな地震であったというのである。ホロコーストと地震の類比、そして「ショアー」が制作されて10年後に日本で放映され、同じ年に阪神大震災が発生し、そしてさらにその10年後に米田知子がこれらの風景を撮影したという暗合は興味深い。ここに提示された風景は「ショアー」同様に惨事が発生した場所の現在の風景なのである。先に中山岩太が撮影した阪急三宮駅のイメージについて触れた。それはイメージの充実として存在する。しかし米田は充実ではなく空虚、存在ではなく不在によって事件を表象する。私たちはそれによってしか1995年1月17日の出来事に達することができないのではなかろうか。そして今、私たちは震災から20年、ここに撮影された風景から再び10年を経て作品に向かう。この作品においては時間が重層化されている。表象されるべき事件、表象された風景、作品を見る経験、それぞれが(偶然にも10年という等間隔で隔てられた)異なった時間に帰属しつつ、作品を見る体験の中で一体化されているのだ。この作品、そしてこの展示は深い思索性を秘めている。そして先に引用した一文の中でも明確に述べられているとおり、かかる距離感は経験の風化という問題にも関わっている。
さらに私はここに福島の原子力災害という補助線を引きたい。いまだに放射能を発しながら崩壊を続ける原子力発電所に隣接する地域では、更地さえも造成することができない。そこには2011年3月11日という、あの日のままの不在の光景が広がっているはずだ。かつて収容所にいたユダヤ人たちが殺されて存在しないように、かつてはそこで生活を営んでいた住民たちが強制的に疎開させられてもはや存在しないフクシマの光景。不可視でありながら致命的な放射能。かかる主題の表象は本質として不在の表象、表象の不可能性と関わるのではないだろうか。これに対して例えば現地で若者たちを集めてシュプレヒコールを上げ、それを記録することによってなにがしかの表現が成立したと考えるのは果たして正しい行いであろうか。震災をめぐる表現は作家の倫理の問題へと立ち返るのだ。
 今回の展覧会は未曾有の震災に対して美術家と美術館がいかに対応したかという記録として大きな意味をもつ。かつての私は阪神大震災のごとき体験は生涯にただ一度であろうと考えていた。しかしまもなく私たちはさらに悲惨な震災と原子力災害を経験し、一つの都市どころか東日本が死滅するかもしれない状況を経験した。ミロスワフ・バウカではないが、私たちが食間ならぬ災間にたまたま生を与えられているに過ぎないことは今や明らかだ。果たして私たちは時に表象の可能性さえ超えた出来事に、なおも表現で応じ、さらにその表現を後代に伝えていくことができるだろうか
by gravity97 | 2015-03-17 19:39 | 展覧会 | Comments(0)