「温故知新」

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 先のブログでドナルド・ジャッドのパーマネントのインスタレーションが設置されたチナティ・ファウンデーションを訪れた際の印象を記したが、先日、ジャッドがその場に立ち会ったならば卒倒してしまうような展示に立ち会った。4日間という短い期間であるが、京都の中心、室町通りに面した古い日本家屋で開かれていたジャッドと河原温の二人展、タイトルを「温故知新」という。この展示は公益財団法人現代芸術振興財団という組織によって企画され、出品された作品はこの財団の理事長が保有する「数ある現代アートコレクション」の中から選ばれたジャッドと河原温の作品の一部とのことである。会場は古くからの帯問屋であり、重厚な造りの日本家屋であるが、この財団との関係はわからない。
 会場にはジャッドのプログレッション系の作品2点と河原温のデイト・ペインティングが多数展示されている。(カタログにはこのほかに2点1組のジャッドの作品が掲載されているが、この作品は展示されていなかったと思う。さほど広い会場でもなかったから、このサイズの作品を見落としたとは考えにくい)このうちジャッドの作品はエナメルを塗ったアルミニウムの箱を組み合わせた作品であり、今述べたとおり壁に取り付けるプログレッション系の作品であるが、ジャッドのカタログを参照するならば1980年代後半に制作された比較的珍しいタイプの作品だ。展示方法に唖然とする。なんと台座の上に置かれているではないか。床置きならばまだわかる。そうではなくて、おそらくこのために制作され、作品と同じサイズの底面をもつ黒い台座の上に設置されているのだ。b0138838_20533215.jpgここでミニマル・アートの特性について詳述する必要もなかろう。作家によってそれなりに多様なそれらの作品に共通する特質の一つは台座をもたないことだ。ジャッド自身、あるインタビューの中で台座なき彫刻という概念が完全に彼自身の着想であることを言明している。ミニマル・アートが台座を排除した理由は明らかだ。それは作品が現実の空間に存在することを明確に示すためだ。ジャッドは「明確なオブジェ」という名高い論文の中で次のように述べている。「三次元とは現実の空間である。それはイリュージョニスムの問題、およびリテラルな空間、描かれた印や色彩の周辺や内部にみられる空間の問題から自由になる。作品は考えられる限り力強くなりうる」彫刻の台座とは絵画における額縁だ。それらは作品が現実とは別の世界に存在することを暗示する。ジャッドは作品に強度を与えるためにはそれが現実の中に存在することが必要だと考えたのである。ここでアンドレやモリスにまで言及する必要はないだろう。ミニマリズムの感性において作品は私たちが存在する現実と切り離されるべきではない。確かに今回の展示では底面積を同一にし、黒く塗られることによって台座は存在感を切り詰めている。しかしそれはあくまでも台座であり、現実とは審級の異なる「芸術」、会場の掲示に倣えば「現代アート」をその上に据えるために召喚されている。台座の存在は作品の意味構造を変えてしまう。プログレッションとは等比級数やフィボナッチ級数を原理として構成されたレリーフ状の作品であり、通常は壁面に直付けされる。今回の展示を見た後、私は手元にあるジャッドの展覧会カタログや作品集にもう一度目を通してみた。確かにプログレッションのうち、このタイプの作品のみ、壁付けされず床に設置された例が存在する。しかしそれらはいずれも巨大で奥行きのある作品であり、プロポーションとして壁付けに馴染まず、おそらく重量の点でも壁面に設置することが困難であったのだろう。それらは全て床に直置きされている。先に述べたとおり、今回の展示は古い木造の日本家屋が使用されているから、比較的小品とはいえども壁面に設置するための造作を施すことが構造的に不可能であったと推測される。奥行き30cmというサイズから直に床に置くことが躊躇されたかもしれない。しかし台座はないだろう。今回の展示はこの展覧会の企画者の作品への無理解をはしなくも露呈している。
 河原温はどうか。カタログで確認するならば今回は11点のデイト・ペインティングが展示されている。このうち、床の間に展示された《1987年5月1日》は巨大なサイズの作品であるが、ほかの作品はデイト・ペインティングで見慣れた比較的小さなサイズである。日付を確認するならば2005年8月と9月に制作された6点の作品が時期的に集中しているから、同じ機会に収集された可能性がある。デイト・ペインティングに関しては既にいくつかの研究があり、作品の制作にあたって制作の時間や表記、作品の色彩やカンヴァスのサイズについて厳密なルールがあることが指摘されている。《1987年5月1日》はおそらく最大級のサイズであり(デイト・ペインティングは表記された一日、24時間以内に完成されなければならないから、これ以上巨大な作品を制作することは不可能であろう)1998年の時点で10点が制作されているようだ。デイト・ペインティングには制作された当日の新聞の切り抜きが一種の証拠書類として同梱されている。 b0138838_20541377.jpg今回の展示ではそれらの資料も展示されていて興味深かった。日付を描くという一種匿名的な作品でありながら、その真正性を担保する工夫は随所に認められる訳である。河原は個展のオープニングはおろか、一切のインタビューに応じず、ポートレートも公開せず、自らの匿名化をはかっている。河原の大規模な個展は過去に何度か開かれ、偶然、現在もニューヨークのグッゲンハイム美術館で開催中であるが、作品の展示方法に関して作家は指示を与えるのであろうか。作家によってオーソライズされたであろう過去の展覧会を見た限りにおいて、デイト・ペインティングはホワイトキューブに機械的に設置された印象がある。少なくとも床の間はありえないし、そのように推測するいくつかの理由がある。今回、作品を掛け軸のごとく床の間に展示することによって企画者はそれが「現代アート」である点をことさらに強調しようとしている。確かに日付のみを記したカンヴァスは現代美術の文脈を理解していない者にとっては麗々しく床の間に飾らなければ「アート」と了解することは困難かもしれない。しかしカール・アンドレの煉瓦やダン・フレイヴィンの蛍光灯を想起するまでもなく、これらの作品は展示される場所によって意味を与えられるほど弱くはない。逆に作品が場を定義することさえあるはずだ。かかる作品をことさら和室のハイライトとして設置することは「和の空間との融合」ではなく、端的に作品に対して礼を失しているように感じられる。さらにこの作品は大作ではあってもデイト・ペインティングの一点にすぎない。デイト・ペインティングにおいては作品のサイズや完成度ではなく、そのコンセプトとそれを継続する行為が重要であり、作品は全て対等であるはずだ。サイズの大きな作品をことさらに重視する姿勢もまた作品の本質への無理解に起因しているように思われる。
 今回の展示に批判的に言及したが、この展覧会は逆説的な意味で現代美術、特にミニマル・アートとコンセプチュアル・アートにとってきわめて重大な問題を提起している。それは作家のインストラクションをいかに徹底するかという問題だ。ジャッドが作品の図面を工場に渡し、ソル・ルウィットがウォール・ドローイングの指示をドラフトマンに示すことから理解できるとおり、ミニマル・アートやコンセプチュアル・アートは実は作家のインストラクションがどの程度リテラルに実現されるかという問題と関わっている。作品の制作/遂行については作家がほぼ完全に掌握し、作品のオーセンティシティーの根拠をかたちづくる。しかし作品の展示という局面においては作家以外に多くの函数が存在する。例えば美術館における展覧会の場合、展示には必ず学芸員が介入する。伝聞であるが、以前、北九州と静岡を巡回したジャッド展の折、作品のインスタレーションに立ち会った作家は作品が多すぎるとしていくつかの作品の撤去を求めたという。それらの作品もカタログに掲載されているから、学芸員としては受け容れることが困難な要求である。結局どうなったかは知らないが、ジャッドがチナティに恒久インスタレーションを設置しようと考えた直接の理由はホイットニー美術館における回顧展の展示がひどすぎたからだというエピソードも知られている。ジャッドは次のように記している。「作品を注意深く設置するには、莫大な時間と思考が必要である。この点はいつも心に留めておくべきである」美術館や学芸員にとってなんとも耳が痛い言葉ではないだろうか。河原温に関してはさらにデリケートな問題が発生する。それは展示権という問題だ。通常、作品を所蔵する美術館はその作品を常設展示の一部として展示する権利を有するし、作家も作品が展示されることを望むから両者の利害は一致する。しかしテーマ展においてはどうか。実は河原は自身が望まないテマティックな展覧会に作品を加えることを一貫して拒否してきた。日本の美術館の場合、作品を貸与するにあたって作家が展示に同意したかまで確認する例はあまりない。日本の戦後美術を概観するような展示にデイト・ペインティングが出品されているような例を時折見かけるが、おそらく作家は出品を承諾していないだろう。この問題に関してはかつて井上有一の作品の展示にあたって、一緒に展示されている書家が気に食わないとして関係者が井上の作品を撤去することを要求し、係争となった事例があったように記憶するが、展示の可否について作者と所蔵家のいずれを優先するかは微妙な問題だ。ここではこれ以上敷衍しないが、歴史を遡れば、例えば退廃芸術展のようなケースもこの問題に対して示唆を与えるように思われる。もっとも私の知る限り、河原はいかなるテーマ展に対しても出品を拒否している訳ではない。かつて私はニューヨークに作家を訪ねたことがあるが、その際に河原はカスパー・ケーニッヒの企画による、デイト・ペインティングと他の作家の作品を年ごとに一点ずつ組み合わせた展示を高く評価していたことを記憶している。しかしおそらく河原が存命であったとしても、日本家屋を用いたジャッドとの二人展への出品を肯ったとは思えない。
 この問題は作家とコレクターの関係と深く関わっている。いずれの作家も実力のあるギャラリーによって作品が管理されていたから、作品が売却されるにあたっては作家もしくはギャラリーを介して作品の設置や展示について具体的なインストラクションを所蔵家に示したはずだ。実際にジャッドの作品を設置するにあたってはしばしば所蔵館の学芸員が立ち会いを要求し、デイト・ペインティングの借用にあたっては作家の同意書を確認する美術館を私は知っている。しかし私の推測では今回展示された作品はセカンダリーな市場、つまり最初の所蔵者が手離した後、別のギャラリーもしくはオークションを介して収集されたのではないだろうか。入口にサザビーズからの大きな花輪が飾られていたことがこのような推理の根拠だ。この時、作家の意図が所蔵者に正しく伝えられるかという点は大いに疑問であるし、存命であっても作家と直接のコンタクトがないまま、所蔵家は作品を所有し、展示することとなるだろう。
 誤解なきように直ちに言い添えるが、私は所蔵家が展示にあたって作者の意図に必ず従わなければならないと主張するほど傲慢ではない。今回の展示はそれなりに興味深いものであったし、成功していたか否かはともかく、日本家屋とミニマリズムを掛け合わせるという企画者の意図に一定の意味を認めることにやぶさかではない。私が指摘したいのは、奇しくもここで展示されたジャッドと河原温の作品は実体としての作品のみならず、それがどのように展示されるかという点もまた作品の構造の中に組み込んでいる点である。興味深いことにこの二人は展示との関係において記号論的に異なった文脈に拠っている。ジャッドの場合、作品が展示空間内でどのように配置されるかという顕在的で換喩的な意味構造が問題とされる。これに対して河原の場合はデイト・ペインティングがほかの作品といかなる潜在的な意味を取り結ぶかという隠喩的な意味が問題とされている。いずれも作品自体ではなく作品が展示と取り結ぶ関係を主題としている。このような問題はこれまでモダニズム美術の文脈では意識されることがなかった。例えばセザンヌの絵画はコレクターの客間に飾られようが物置に置かれようが、ピカソの横に展示されようが森村泰昌の横に展示されようが作品自体の意味は変わらない。しかしジャッドと河原の作品は展示される場やともに展示されるべき作品を選ぶのである。作品と場との関係はミニマル・アートにおいて決定的に主題化されたが、抽象表現主義の中にも明らかに同じ意識が兆していた。例えばロスコ・チャペルをはじめとする一連のロスコの建築的作品群、あるいは近く日本で公開されるバーネット・ニューマンの「十字架の道行き」連作。これらの作品は場をかたちづくり、本来的に移動することができない。この発想とチナティ・ファウンデーションは連続している。あるいは共に展示される作品との関係について、私はクリフォード・スティルのエピソードを想起する。狷介孤高として知られるスティルは多くの作品をバッファローのオルブライト=ノックス美術館に寄贈するにあたって条件を付したが、それは自分の作品を決してほかの作家の作品と一緒に展示してはならず、作品をほかの美術館の企画展に貸し出してはならないというものであった。彼らは建築によって、あるいは契約によって自らの作品が展示される状況を守ったのである。本来的に「場の美術」であるミニマル・アート、同一性を保証されて初めて成立するコンセプチュアル・アートにとって、作品のみならず作品の外部、作品をめぐる場も決定的に重要である。しかし残念ながら多くの作家たちはこの点について十分な戦略をもちあわせていなかった。今や「現代アート」は消費材として流通しており、金さえあれば誰でも手に入れることができる。この事実を端的に示す台湾の「現代アート」の「コレクター」の展覧会が現在、国立美術館を巡回し、『芸術新潮』の最新号には同じ「コレクター」のバスルームに飾られたマン・レイの油彩画が「アートと暮らす」麗しき実例として恥ずかしげもなく紹介されているのだ。彼らにとって作品は自分たちの資産であるから、どこに展示しようとどのように展示しようと自由なのである。しかしある一群の作品にとっては展示の状況も作品の一部であり、切り離して考えることはできない。偶然としては出来過ぎている気もするが、ジャッドと河原温はまさにそのような作家の代表なのだ。台座の上のジャッド、床の間のデイト・ペインティングは単なる消費材と化した「現代アート」の無残さを私たちに知らせ、「現代アート業界」をめぐる悲喜劇的な倒錯を象徴している。
 会場内は撮影が許されていたため、当日撮影した写真を示している。もし掲出に問題があれば、コメント欄にて連絡いただきたい。
by gravity97 | 2015-03-02 21:04 | 展覧会 | Comments(0)