「石原友明展 透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」

b0138838_1721814.jpg 「透明人間から抜け落ちた髪の透明さ」と題された久しぶりの石原友明の個展を東京で見る。きわめて画期的な内容であり、レヴューとして記録を残す必要を強く感じる。一見、抽象絵画を連想させるモノクロームの線描が描かれた平面は、最初こそこれまでの石原の作品からかけ離れた印象を与えるが、仔細に観察するならばそこには身体性やセルフ・ポートレート、アナログ/デジタルの対比といったこれまでの石原の作品の特徴がはっきりと刻まれ、何よりもいつもながらの明晰な知性の関与が明らかである。
 とはいえ、作品を正確に理解するためには少々の説明が必要であろう。展示された作品は大小とり混ぜて6点、すべて平面である。作品はサイズこそ違うが同じモティーフを表現していることは明らかだ。図版として掲げるとおりすべて画面全体にオールオーバーに広げられた曲線によって構成されている。このようなイメージからは誰もがたやすくポロックを連想するだろうし、ほかにも線的抽象を描く何人かの画家が連想されるかもしれない。しかしこの作品はいかなる意味においても抽象ではない。驚くべきことに、それは石原のまぎれもないセルフ・ポートレートなのだ。意味ありげなタイトルを参照するならば事情を理解することは困難ではない。「抜け落ちた髪の毛」とは石原のそれであり、線描と思われた無数の曲線は石原の身体から脱落した毛髪である。会場に置かれた解説はこのあたりの事情を次のように的確に説明している。「本展で石原友明は、Bathroom picture と題された一連のカンヴァス作品を展示する。主題は『自画像』である。これらの作品はカンヴァスにジェッソで下地を塗った後、特殊なインクで表面にプリントされている。 曲線によるモノクロームのドローイングに見える本シリーズは、作家自身の毛髪を集めてスキャニングしたものをベクタ形式のデータに変換(数値化)して、平面作品として構成したもの、つまりセルフ・ポートレートである」つまりこのイメージは浴室、おそらくはバスタブの中に残された自分の毛髪を一つの画面の中に配置し、スキャンして得られたものなのである。確かに画面に配置された線は連続することなく、多くが中断していている。さらによく見ると中断された端は微妙なふくらみを帯びており、それが毛根であることを暗示している。このような作品からは直ちにいくつもの美術史的記憶が喚起されるだろう。そもそもBathroom paintingというシリーズ名は先ほど亡くなった河原温の浴室シリーズを踏まえているだろうし、身体から廃棄された老廃物を作品化するという発想はアンディ・ウォーホルのピス・ペインティング(小便絵画)と同一だ。身体を一種のデータに変換して表象するという発想からはロバート・モリスの脳波絵画も連想されよう。
b0138838_173219.jpg 今回の発表には伏線がある。先の解説にも明記されていたが、ちょうど20年前の1994年、石原は「美術館で、盲人と、透明人間が出会ったと、せよ」というデュシャン風のタイトルをもつテクストを発表している。「見ることができるが見えない存在」と「見えないが見ることができる存在」のキアズム的な邂逅をつづった美しい文章であるが、そのテクストの中から今回の展示のために次のようなパッセージが引かれている。「透明になった自分から抜け落ちた髪が床に落ちる。からだから離れるとそれは徐々に透明でなくなっていった。そうして見えるものになり、死んで、もはや自分の一部ではなくなった髪を見つめるとなぜかそれこそが懐かしい自分自身の生きたからだを眼前するかのような反転した感覚にめまいするのだった」図版に掲げた私の手元にある同名のパンフレットの中にはこの一節が存在しないので、私はこの文章の出典を確認できずにいるが、このテクストにおいては見る/見えないという視覚的な問題ではなく、身体あるいは身体の残滓が問題とされている。写真を主たる媒体として用いながらも、しばしばオブジェとして作品を提示してきた石原にとって視覚と身体を往還することこそ作品の主題であり、かかる問題意識が現代美術の中核に位置していたことはあらためて指摘するまでもなかろう。
 さて、今日において遺棄された毛髪がなにかしらの意味を形作るとすれば、それは美術という領域ではない。それは犯罪捜査の場であり、犯行現場に残された証拠としての毛髪であるはずだ。何事かの結果、インデクス記号として毛髪は特異な位置を占める。私の毛髪とあなたの毛髪、肉眼つまり視覚によって両者を判別することは必ずしも容易ではない。しかし今やDNAの解析という手段を経て、かかる証拠物件はたやすく個人に同定される。美術史と犯罪捜査、実は両者は深い関係がある。ジョバンニ・モレッリとシャーロック・ホームズを引きながらロザリンド・クラウスは「もつれた髪の毛の塊」としてのポロックのポアリング絵画に言及していなかっただろうか。モレッリやホームズが視覚的に観察可能な手がかりから、多くアナログ的な手法によって(analogueには相似的という意味がある)証拠の背後の人物に迫るのに対して、石原が用いる毛髪とはDNA解析という非視覚的でデジタルな手法をとおして特定の個人と結びつく。ここにはきわめて興味深い逆説が存在する。すなわち先に述べたとおり、スキャンされた毛髪は現実の毛髪と毛根のふくらみまで一致する完璧なアイコン記号でありながら、そのアイコン性によっては意味を与えられず(例えば作品の中に石原以外の毛髪が混入していたとしても、イメージとして識別することは不可能である)、非視覚的な分析を経て初めてそれが表象する意味が明らかとされるのである。インデクスとしてのイメージ、聖骸布からウォーホルのピス・ペインティングにいたる、体液による一連の表現をこの作品の傍らに置く時、その批評的な位置は明らかといえよう。さらにサイズの問題についても石原の作品はきわめて興味深い問題を提起する。私はコンピュータ・グラフィクスには詳しくないため、解説の受け売りとなるが、この作品においてはベクタ形式のデータが用いられているらしい。ベクタとはjpegやtiff に類した画像処理のフォーマットであり、この形式を用いて画像を処理することによって「イメージを劣化させずにサイズを無限に拡大かつ縮小でき等身大という概念もなくなる」とのことである。ここで私たちは接触によって得られるインデクス記号の特質が実物大、等身大であったことを想起しよう。今挙げた聖骸布でもラウシェンバーグの自動車タイヤプリントでもよい。インデクス記号においてイメージは多く等身大、実物大として実現される。この意味において興味深い例は高松次郎が用いる「影」というインデクス記号であるが、ここでこれについて詳しく論じる余裕はない。石原の用いる毛髪というイメージは二つの意味を具備している。すなわちその起源(出所、犯人)との関係においてはインデクス記号であり、その形状(似姿、相似)においてはアイコン記号である。そしてベクタ形式で処理されたことによってサイズが非関与的な要素となっているのである。これに対して、石原のイメージの意味にとって関与的な要素はむしろイメージの形状ではないか。作品を注意深く眺めるならば一点だけ曲線の形状が異なる作品があることに気づく。ほかの作品が Bathroom picture というシリーズ名をもつのに対し、その作品は trim と題されている。いうまでもなくtrim とは刈り込むことであり、ほかの作品がバスタブに残された濡れた状態の毛髪をスキャンしているのに対して、trim は散髪直後の乾いた毛髪をスキャンしているのだ。trim の曲線が多く丸まった形状で表現されていることはこの点を暗示している。つまり両者のイメージの相違は、濡れた/乾燥した、あるいは脱落した/刈り込まれたという意味と対応しているのだ。
 毛髪のイメージは特殊なインクを用いてカンヴァスに定着されている。しばしば写真による表現を発表してきた石原がカンヴァスという支持体を用いた点は注目に値する。しかし過去を振り返るならば、この作品には先例が存在する。それは1989年頃に制作されたカンヴァスに感光乳剤を塗布して自身のヌードを転写した一連の作品である。複数のカンヴァスを螺旋状に積み上げた信濃橋画廊での発表は今も鮮明に脳裏に浮かぶ。この時、カンヴァスは皮膚のメタファーと考えられよう。この点は会場の解説も明確に論じている。「石原は、データとして変換された身体のパーツを改めて画布を張ったあるサイズのカンヴァスに定着させることで、『新しい皮膚と身体を与え再身体化』させるという」カンヴァスを皮膚と見立てる発想はさらに以前の皮革を用いた一連の立体作品に由来しているだろう。89年の仕事も身体を皮膚としての身体に定着させるという点において今回の作品と共通する。しかし前者において身体がきわめて視覚的に与えられ、接触を介した等身大のイメージであったのに対して、新作における身体は非視覚的であって、今述べたとおり最新の技術を用いることによってサイズは一定しない。アナログとデジタル、色彩とモノクローム、両者をめぐってはいくつかの対比を組織することが可能であろうし、毛髪が身体の一部であることを想起するならば、両者を隠喩と堤喩という記号論的な観点から分析することも可能であろうが、ひとまずここで留める。
 石原の新作は毛髪という身体の残滓を用いたセルフ・ポートレートであり、作家の身体はイメージからデータへ、アイコンからインデクスへ変換されている。それはテクノロジーを介在させた類像性批判とみなすこともできようし、今や身体性がデジタルなデータによって完全に管理されていることへの批判とみなすこともできよう。(モリスの脳波計ではないが、私たちは健康診断の際に渡されるデータの一覧として自身の身体を表象することさえできるのではないか)しかし最後に付け加えておかねばならないのは、石原の新作はかかる概念的、非視覚的な問題を提示しつつ、まず作品として強い強度を有しており、それゆえ圧倒的な印象を与える点である。しかもこの作品はこれまでの石原の探求の延長上にあり、抽象と具象、平面と立体、アナログとデジタルといった対立を巧妙にくぐりぬけながら、石原しか表現しえない新たな境地をみごとに示している。本稿では詳しく論じることができなかったが、この新作は先に言及した高松次郎の影と比較することによって、現代美術に対してさらに豊かな問題提起をなすことができるだろう。意図的に開催時期を合わせたか否かは定かでないが、石原の個展の会期中、高松のよくオーガナイズされた回顧展が竹橋で開かれている。私は石原の「毛髪」に高松の「影」がアップデイトされた姿を見る思いがした。せっかくの機会であるから両方を訪ねることをお勧めしたい。石原の個展は1月18日まで。会場は恵比寿のMEM。
by gravity97 | 2014-12-16 17:08 | 展覧会 | Comments(0)

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