「横浜トリエンナーレ2014」

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 横浜に五回目となる横浜トリエンナーレを訪ねる。今回のアーティスティック・ディレクターは森村泰昌が務めている。作家がディレクターの役割を果たすのは第二回の川俣正以来、二回目となる。川俣の場合は当初のディレクターに予定されていた磯崎新が降板するというアクシデントを受けての着任であったが、今回のディレクターは数年前から予告されていたから、森村は万全の態勢で準備に望んだはずだ。期待どおりの素晴らしい展示であった。これまで私はこのトリエンナーレを全て訪れている。どの回もそれなりに充実しており、甲乙つけがたい印象があるが、逆にいえば突出して素晴らしい展示もなかった。これは組織化された大展覧会の宿命といえるかもしれない。ところが、今回のトリエンナーレの展示の特異さと充実に私は圧倒される思いであった。これはきわめて単純な理由による。ディレクターである森村の意向が展覧会の隅々にまで反映され、きわめて個人的な思い入れによって構成された展覧会でありながら、その批評性が普遍的なレヴェルに達しているのだ。
 展覧会のテーマはいつになく文学的だ。「華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」。「華氏451」とはいうまでもなくレイ・ブラッドベリのディストピア小説のタイトルだ。華氏451度とは紙が自然発火する温度であり、この小説に描かれる全体主義国家では書物が禁じられている。主人公は書物を焼くことを職務とする「ファイアマン」であるが、一人の女性と知り合うことによって焚書に疑問をもち、社会から追われていく。最初にこのテーマを聞いた際には、かかる特殊なテーマを国際展の中に取り入れことが果たして可能か、少々不安に感じたが、展覧会を訪れると直ちに疑問は解消された。この小説から導かれる検閲や焚書、沈黙、忘却あるいは炎といった主題は展示の中で幾度も繰り返されて展覧会の通奏低音を形成し、結果としてこの展覧会は私たちが現在直面する状況を審美的なレヴェルのみならず社会的なレヴェルにおいても問い直しているのだ。このレヴューを執筆している最中に日本でも進歩的とみなされてきた新聞が自らに批判的な記事を署名原稿であるにもかかわらず掲載拒否したという報に接した。私たちが現在の憲法のもとで当然の権利と考えていた表現の自由さえもかくもたやすく奪われることを知るならば、この展覧会のテーマは実にアクチュアルである。(ガイドブックの末尾に記されたこの展覧会の「名誉会長」として悪名高きNHKの会長、そして先日なんともぶざまな謝罪会見を行った朝日新聞の社長の名が並んでクレジットされていることに、私はブラックユーモアを通り越して不気味さすら感じた)そしてそれが最新の表現ばかりでなく、この半世紀の間に発表された日本と欧米の多様な表現、時に驚くべき作家をとおして表明されることに私は新鮮な感慨を覚えたのだ。
 もしこれから展覧会を訪れるとすれば、構成に従って、つまり二つの会場のうち、横浜美術館から始めることをお勧めする。展示自体が一つの脈絡をもった物語を構成しているため、新港ピア会場から始めると小説を途中から読むようなぎこちなさを味わってしまうだろう。横浜美術館の展示の劈頭において私たちは沈黙に迎えられる。マレーヴィッチの絶対絵画とジョン・ケージの「4分33秒」の楽譜とはこの展覧会にとって完璧なイントロダクションではないか。すでにいくつかのレヴューでも指摘されているとおり、かかる導入は横浜トリエンナーレのごとき展覧会においては通常ありえない。このような展覧会に求められるのは祝祭性であるからだ。引き続き、私にとって未知の作家であったジョシュ・スミス、そしてアグネス・マーティンから村上友晴にいたるミニマリズムの絵画、モノクロームで表現性を欠いた沈黙の絵画が続く。冒頭にかくも禁欲的な作品を配置した点にディレクターたる森村の暗黙の意志、すなわちこのトリエンナーレを通常のそれとは全く異なった、いわば反トリエンナーレとして実現しようとする思いは明らかである。ディレクターの意向がどの程度反映されるか、あるいは作家の選定にあたって展覧会のアソシエイトたちといかなる協議がなされたか不明であるとはいえ、明らかに今回のトリエンナーレは従来の予定調和を目指していない。早くも導入部においてディレクターのかかる決意を感じた私は襟を正して次のパート、「釜ヶ崎芸術大学」に向かった。このパートの背景を理解することは容易だ。かつて「なにものかへのレクイエム」と題された森村の個展を見た私にとって、森村がレーニンに扮して西成で演じた《なにものかへのレクイエム(夜のウラジミール)》の前景にたむろする労務者たちが「釜ヶ崎芸術大学」の構成員であることはたやすく了解された。ここでも祝祭性を否定し、文字を覚えることから始める未組織労働者の「芸術」に焦点をあてた展示は濃厚な社会性とともに、文字が文字として認識されない「華氏451度」の世界の一つのメタファーを提起している。続く展示も刺激的だ。オーウェルの「1984年」から「華氏451度」までディストピアとはメディアが果たすべき機能を失った世界の物語であり、それゆえ私はそれがまさに現在の日本の暗喩であるとも感じるのだが、続く展示に配されるのはTVというメディアの暴力性を扱ったポップ・アートの陰画、エドワルルド・キーンホルツのTV受像機をモティーフとした作品や鏡文字で印刷された「華氏451度」のペーパーバックを台の上に山積みしたドラ・ガルシアの作品であり、バーミヤンの破壊された石仏と爆撃によって燃やされたカッセルの図書館を結びつけるマイケル・ラコウィッツという作家の作品である。このセクションは「第3話 華氏451はいかに芸術にあらわれたか」と題され、無名作家とよく知られた作家を取り混ぜながら、展覧会のテーマを明確に反映している。そしてこのセクションで最も挑発的な展示は第二次大戦中、多くの文学者が著した翼賛的な文芸書を集めた「大谷芳久コレクション」であろう。そこには野口米次郎から瀧口修造にいたる意外な名前が認められる。戦争記録画は今日に伝えられているが、これらの書籍を今日目にすることは難しい。なぜならここに展示された書籍はそれぞれの著者にとって焚書に付されるべき過去の汚点であるからだ。対比的に松本竣介の家族に宛てた私信が展示されていたが、両者を単純に色分けすることが目指されていたわけではないだろう。存在してはならない書物とはまことに「華氏451度」的なテーマではないか。
b0138838_2182556.jpg 横浜美術館の展示の後半はややテーマ性を離れ、芸術家の作家性とでも呼ぶべき主題をめぐっている。FRPによって成形されたバルーンと「何もすることがない」という言葉がぎっしり繰り返されたドローイング、福岡道雄による二種類の作品は象徴的な導入といえよう。それにしても現代美術の最先端を紹介する展覧会に福岡が1960年代に制作した作品を展示するセンスはただものではないし、さらに驚くべきことに福岡の作品は時代のカッティングエッジを構成する作品と一緒に並べられてもなんら遜色がないのだ。そして関西の80年代の美術に親しんだ私にとって、この展覧会からは先鋭さとともに大いに懐かしさも感じられたのだ。b0138838_21101234.jpg「第5話 非人称の漂流」というセクションは1980年代、毎年春先に開かれていた京都アンデパンダン展において林剛と中塚裕子が一室を全て用いて発表していた「Court」という一連のインスタレーションの「再現」である。どのような経緯でこれらのインスタレーションが展示に加えられたかはわからないが、これらの作品と先般、京都国立近代美術館で小さな回顧展が開催されたヨシダミノルの作品、というよりヨシダの一家が会期中、美術館の中で生活するというハプニングは、京都アンデパンダン展の名物とも呼ぶべきおなじみの風景であった。森村は松井智恵ややなぎみわといった作家と親交があり、さらにこのセクションの副題として用いられている「Still Moving」あるいは「第二話」のタイトルに掲げられた「漂流する教室」といったキーワードからは、現在、京都で京都国際現代芸術祭を準備している河本信治が京都国立近代美術館在職中に企画したいくつかの展覧会が想起される。今回のトリエンナーレには国際性と現在性の傍らに、森村のバックグラウンドである関西の地域性と80年代の時代精神が絶妙に同居し、ことに私のような者は大いに楽しめた。しかしそれらの作家やキーワードはお友達の紹介や引用ではなく、展示構成の中に必然性をもって配置され、みごとな効果を上げている。これまでの横浜トリエンナーレにおいて作家の選択はある程度中立的な印象を与えた。それは何人かのディレクターやキューレーターの合議で決定される以上、当然なのであろうが、今回の作家と作品の選択には森村の強い思い入れが感じられ、美術の最前線を見せる国際展というよりもよく考え抜かれたテーマ展を見るような驚きが随所に散りばめられているのである。このような驚きと楽しみは連絡バスに乗って向かった第二会場の新港ピアにおいても強められることはあっても裏切られることはない。
 新港ピアの会場入口、「第11話 忘却の海に漂う」のセクションの冒頭にはやなぎみわが台湾で購入したという特注のトレーラー、移動舞台車が置かれている。やなぎは近年、演劇に傾斜し、いくつかの公演についてはこのブログでも触れた。今回はいわば新作の舞台装置の展示である。トレーラーが導入されたことには理由がある。やなぎが予定している新作とは中上健次の「日輪の翼」であり、この小説では七人の老婆たちを乗せ、二人の若衆が運転するトレーラーが熊野から皇居にいたる聖地を巡礼する。今回の展示を見て新作への期待は増すばかりである。新港ピアではジェンダーや民族といった問題も緩やかに射程に収められている。「日輪の翼」の最後で老婆たちは何処ともなく消えていくが、友人の祖母が残したセミヌードをめぐる消滅と忘却、記憶と虚構といった問題をアーカイヴの手法で作品化したベイルートのアクラム・ザタリの作品も本展のテーマを深く内面化している。あるいはメルヴィン・モティというオランダの作家はエルミタージュ美術館の作品が戦時中、館外へ疎開したという史実を背景に、作品が展示されていないエルミタージュ美術館のギャラリーツアーを上映する。ここでは焚書ならぬイコノクラスムがテーマとされている。そしてその傍らには地面に横たわる人体状のオブジェが燃やされるアナ・メンディエッタの「シルエッタ」が上映されているのだ。この展示において「華氏451度」の暗示するテーマが様々に変奏されつつ、地下水脈のごとくいたるところで出現する点がおわかりいただけるだろう。燃え上がる炎のモティーフに対しては、忘却の海、水平の海のイメージが対置される。順序が逆になったが「第10話 洪水のあと」は今年第5回展が開催される福岡アジア美術トリエンナーレと連携し、過去にこの展覧会に出品したアジアの作家の作品が紹介されている。私はここに展示された作品のレヴェルの高さに驚いた。特に映像作品が素晴らしい。バングラデシュ、チッタゴンの海上で巨大な船舶を有毒物質に対する防御手段を一切講じないまま素手で解体する人々を映し出すヤスミン・コビールの映像、そして閉鎖された工場の廃墟で清掃作業を続ける女性工員たちを記録したチェン・ジェレンの作品は釜ヶ崎から南西アジアまで広がる貪欲な資本主義社会への抵抗という意味において「釜ヶ崎芸術大学」に呼応し、さらにそこで繰り広げられる労働者たちの苛酷な仕事ぶりは、やはり横浜美術館に展示されていた美術家たちの「たった独りで世界と格闘する重労働」とも鋭い対比を示している。横浜美術館でバルーンにぶら下がっていた福岡道雄の姿と、100人の労働者と相撲をとって負け続けるハァ・ユンチャの姿からはいずれも美術という営みを相対化する批評的なユーモアが感じられるのではないだろうか。キム・ソンヨンが撮影した玄界灘の不穏な海の情景に始まるこのセクションは、燃料切れのヘリコプターが次々に墜落する黙示録的光景(いうまでもなくベトナム戦争末期の象徴的な情景だ)で幕を閉じる。ディン・キュー・レの作品においてもヘリコプターを呑み込むのは静かに広がる海であり、展示全体が「忘却の海」を暗示していることが理解されよう。
 さらに私が感銘を受けたのはこの展示の中でこれまで日本の美術館においても相応の検証がなされていない二人の作家についてテーマと関連させながら回顧的な紹介がなされていたことである。殿敷侃と松澤宥である。日本では珍しいアースワーク的な広がりをもったプロジェクトを展開した殿敷と、日本的な概念芸術の一類型を提起した松澤。殿敷は活動時には美術雑誌等でしばしば作品を目にしていたが、早世したこともあり、作品をまとめて見る機会はこれまでほとんどなかった。今回は映像によっていくつかのプロジェクトが紹介されていた。作家の介入(労働)を介して物体が作品へと変わるという発想は横に展示されていたジャック・ゴールドスタインの映像とも呼応しているだろう。松澤宥については確か以前に川口現代美術館で回顧展が開かれたと記憶しており、作家自らが白い装束をまとって執り行う儀式もどこかで見た覚えがある。確かに忘却や消滅は松澤が多用するキーワードであるが、「オブジェを消せ」という啓示を受けた作家が情念的なオブジェや以前の展覧会で使用された品々をこれほど残していたとは知らなかった。松澤の作品は私のテイストとは相容れないが、今後検証されるうえで大きな手がかりとなる展示であり、この展覧会では本来美術館においてなされるべき作業も行われている。そしてそれがあくまでもテーマとの関連において要請されている点には留意する必要がある。
 論じるべき作家や作品はまだ多く残されているが、ひとまず私は今回の展覧会を一望した。国際展をこのように一つの文脈の中に論じることは通常ありえない。なぜなら先にものべたとおりこのような国際展においては表現のカッティングエッジを紹介することが求められており、選ばれる作品に統一的な脈絡など初めから求められていいないからだ。このブログを書き始めてからも何度か訪れたにもかかわらず、私はこのトリエンナーレをレヴューしようと思ったことはない。「メガ・ウェイヴ」、「アートサーカス」、「タイムクレヴァス」そして「アワ・マジック・アワー」、これまでのテーマを並べるならばいずれも抽象的でそれゆえいかなる作品も包含可能であることがわかる。これに対して今回の展示を特徴づけるのは、文学的かつ切迫したテーマ性であり、このテーマに基づいて選び抜かれた作家とよく練られた展示構成である。今述べたとおり、この展示をめぐるならばいくつかのモティーフと関連した作品が相互にゆるやかな関係を保ち、時に思いがけない関係を結びながら随所に配されていることが理解される。このような体験に類した展覧会として、私は例えばこのブログでも論じた2007年、ヴェネツィアにおける「アルテンポ」を想起する。ヴェネツィア・ビエンナーレと併催されながらも、むしろ博物学的な現代美術展において展示された作品は相互に不思議な関係を結んでいた。思い起こせば、私が森村の「荒ぶる神々の黄昏」と題されたシリーズを最初に見たのも、同じ折、サンマルコ広場の近くのギャラリーであったから、もしかすると森村も「アルテンポ」を見ていたかもしれない。「アルテンポ」が今回の展示にインスピレーションを与えたということは果たしてありうるだろうか。
 横浜トリエンナーレは今後も開かれるだろう。しかしおそらく今回ほど刺激的な展示に出会うことは二度とあるまい。今回の展示は国際展の常識をことごとく外している。「横浜トリエンナーレ2014」とは森村という傑出した才能が、国際展という枠組を借りて、現在私たちを取り巻く状況に対して、他者の作品によって批評を加えるというまことに贅沢な、おそらくは空前絶後の試みなのだ。
Commented at 2014-09-17 12:16 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by gravity97 | 2014-09-15 21:16 | 展覧会 | Comments(1)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック