「OTHER PRIMARY STRUCTURES」

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 先般、昨年ヴェネツィアで開催された1969年、ハロルド・ゼーマンの「態度がかたちになる時」の再現展示について論じた。こういった展覧会が流行っているのであろうか、今度はニューヨークのジューイッシュ美術館で1966年に開かれた「Primary Structures」が同じ会場で「Other Primary Structures」として「再現」された。展示は今月の初めに終了し、私は未見であるが、カタログを取り寄せ、インターネットで関連情報を検索したところ、なかなか興味深い展覧会であることが理解された。
 オリジナルの「Primary Structures」はジューイッシュ美術館のキューレーター、キーナストン・マクシャインによって企画された大展覧会で「若いアメリカとイギリスの彫刻家たち」というサブタイトルが付されていた。primary structure とは基本構造とでも訳すのであろうか、単純な形態の無機的な抽象彫刻を集めた展示であることを暗示している。今日、この展覧会はミニマル・アートの最初のデモンストレーションとみなされているが、事情はそれほど単純ではない。出品しながらもロバート・モリスやドナルド・ジャッドは当時においてこの展覧会への反発を語っているし、実際に出品作品を参照するならば、一見してミニマル・アートと了解される作品はさほど多くない。展示空間を作品の函数とするミニマル・アートは作品そのものより設置された状況を検証する必要があるが、近年発表された、例えばジェームス・マイヤーの「minimalism : art and polemics in the sixties」のごとき研究書には当時の展覧会風景が記録された写真が多数収録されており、このような作業は比較的容易になった。上に示したとおり、今回の展覧会カタログは二分冊というか、再発行された66年の展覧会カタログも付されている。このカタログを入手できずにいた私としては今回のリイシューは大いにありがたい。2冊のうち左側が「Primary Structures」のカタログであり、今回の展覧会カタログがこのフォーマットを踏襲していることも理解されよう。ないものねだりを承知のうえで言うならば、カラー図版であればなおよかった。しばしば指摘されるとおり、Primary Structuresの特質は形態とともに色彩にも認められ、多くの場合、派手な色によって表面が彩色されているからだ。東野芳明は「女が彫刻を叩くとき 色彩彫刻の新しい波」というテクストでこの展覧会をレヴューし、この展覧会に出品された作品の特質を台座の不在、工業用素材の使用、単純な形態の使用、そして鮮やかな色彩の四点にまとめている。東野らしい的確な要約である。一方、クレメント・グリーンバーグは早くも1949年に発表した「新しい彫刻」において来るべき彫刻の特性として「蜃気楼のごとく、形も重みもなく、ただ視覚的に存在する」ことを挙げているが、これらの彩色彫刻はこの言葉に対応するかのようだ。展覧会の入り口にはアンソニー・カロの《タイタン》が置かれている。カロはイギリスでヘンリー・ムーアの助手を務め、アメリカではデヴィッド・スミスと親交があったからこの展覧会の出発点として象徴的である。先に述べたとおり、この展覧会にはイギリスとアメリカの若い世代の作家たちが出品しているが、今回あらためてカタログに掲載された図版を参照するならば国籍によって作風の違いがかなり明確であるように感じられる。先ほど出品されている作品が単純で無機的と述べたが、実はかなりの数の作品が単純でも無機的でもないのだ。多くの金属彫刻が有機的なシルエットをもち、複雑な構造を呈している。それらはしばしば人体を喚起し、多くはイギリスの、今や名を知られることもない彫刻家の作品である。工業用素材を用いた単純な形態の立体がなお横たわる人やうずくまる人の暗示を伴っている点に彫刻における人体イメージの潜在力を感じるのは私だけではなかろう。これに対して、アメリカの作家たち、特に後にミニマル・アートと呼ばれる動向を推進した作家たちの作品は人体への連想を断ち切っている。おそらくここに非人間的な美術としてのミニマル・アートの独自性がある。ヨーロッパ美術のヒューマニズムを可能性ではなく限界と読み代えることによって戦後のアメリカ美術は現代美術の前線を広げたのである。(知られているとおり、マイケル・フリードは非擬人的とみなされたミニマル・アートに一種の演劇性を認めて批判を加えているが、ここではこれ以上議論を敷衍することは控える)絵画において抽象表現主義が同時代のフランス絵画に対して優越を示したように、彫刻においても同時代のイギリスの若い作家たちとの比較を通してアメリカ美術の特異さを誇示することがこの展覧会の意図であったとするならば、陳列された作品の寡黙とはうらはらにこの展覧会が秘めたしたたかな政治性も明らかである。
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 ただしここは「Primary Structure」について語る場ではない。もう一度、「Other Primary Structure」に目を転じよう。この展覧会を企画したのはジェンス・ホフマン、記憶にある名前だ。「態度がかたちになる時」に関しては先に述べたとおり、ジェルマーノ・チェラントによって2013年、ヴェネツィアで再現されているが、これに先んじて若手作家によってこの展覧会をアップデートする試みがなされた。サンフランシスコとデトロイトを巡回した「When Attitude Became Form Become Attitude」と題された展示については、先にチェラントの展覧会についてこのブログで論じた際にも触れた。この展覧会を企画したのがジェンス・ホフマンであり、確かにこの展示と「Other Primary Structures」は発想が似ている。カタログに寄せたテクストによれば、ホフマンが過去の展覧会を再構成するという手法の可能性に想到したのは、1991年にLAのカウンティーミュージアムで企画された「退廃芸術展」を見た際であったという。次いでホフマンは「態度がかたちになる時」をめぐる一連の再構成の試みについて触れた後、今回の試みについて説明している。3月から8月までの会期は、前半のOthers 1と後半のOthers 2という二つのパートに分けられ、いずれも15名前後の作家が出品している。作家の分類はほぼ機械的である。つまり出品作品は1960年から69年までの60年代をカヴァーしており、1966年に開催された「Primary Structures」によってこのディケイドはほぼ二分されている。Others 1 は60年代前半、Others 2は60年代後半に発表された作品によってそれぞれ構成されている。しかし展覧会は「Primary Structures」に影響を与えた作品群とそこから影響を受けた作品群といった文脈を形成することはない。それどころか、ここに集められた作品はいずれも「Primary Structures」で展示されていたとしても大きな違和感を与えないのだ。これは何を意味するか。「Primary Structures」に展示された作品はイギリスとアメリカという国籍の限定を受けている。つまり「Other Primary Structures」の出品作はほぼ同じ時代にあって、ほかの地域で制作された同様の傾向をもつ作品を紹介する展覧会なのである。ホフマン自身、次のように記している。「タイトルにあるotherは二つの意味をもっている。一つは文字通り、追加的とかさらに多くの作品を見せるという意味である。二番目はポストコロニアル的な意味における『他者』、すなわち西欧の優勢な美術史学的な正典(キャノン)において周縁化され、抑圧されてきた多くの文化的、民族的、あるいは政治的グループとしての『他者』を喚起する意味である」いうまでもなくここで重要なのは二番目の意味だ。美術の脱中心化という発想から私が連想するのは1999年にクイーンズ・ミュージアムで開かれた「グローバル・コンセプチュアリズム」である。points of origin というサブタイトルの複数形が暗示するとおり、この展覧会では日本を含む世界各地にコンセンプチュアル・アートの起源を求め、系統樹ではなく同時発生としての美術史を構築することが試みられていた。このような傾向は90年代以降顕著であり、私は同様に同時性、あるいはグローバリズムをテーマにした国際展をいくつも思い浮かべることができる。チェラントによる「態度がかたちになる時」の目的が69年の展覧会に実際に展示された作品を可能な限り集めて展示を再現することであったの対し、この展示の目的は文字通り「別のプライマリー・ストラクチュアズ」を提示することにある。b0138838_114620.jpg最初に述べたとおり、私は今回の展示を見ていないが、ジューイッシュ美術館のHPを確認するならば、実際の展示では精密に作られた当時の美術館の建築模型の中に66年に展示された作品がミニチュアで配されて展示の再現が図られる一方で、展示室内には今回の出品作の背後に前回の会場写真が大きく引き伸ばされて展示され、いわば展示が二重化されていたようである。このような展示の意図は明らかだ。今回の出品作と前回の出品作が互いに似ていることを示して、文字通りOther Primary Structuresの可能性を示唆しているのだ。
 あえてここで具体的な作品を挙げることはしない。代わりに作家の国籍を示そう。パキスタン、アルゼンチン、ブラジル、レバノン、イスラエル、ベネズエラ、日本、クロアチア、ポーランド、フィリピンそして韓国、みごとに第三世界を中心としたラインナップではないか。何人かの作家については私も知っていた。例えばブラジルのリジア・クラークとヘリオ・オイティシカ、フィリピンのデヴィッド・メデラ。ただ私はこれらの選択になんとも政治的というか、端的に商業的なセンスを感じてしまうのだ。出品作家が比較的少なく、知られていない作家が多いといった事情もあろうが、出品に際しては特定のギャラリーが介在している場合が多く、所蔵しているコレクターも限られている。日本についてはもの派と関連する作家、吉田克朗、小清水漸、関根伸夫、管木志雄、高松次郎、李禹煥が出品している。高松次郎の《ネットの弛み》がプライマリー・ストラクチュアと関係しているか否かについてはここでは論じない。しかし数年前からのニューヨークの「もの派」ブームに便乗して、現地でおなじみの作家をポストコロニアリズムの傍証として動員した印象が拭えないのだ。おそらく同じ時代に単純な形態、工業用素材の使用、表面への彩色といった特性を有する作家はヨーロッパにも多くいたはずだ。(ちなみにこれらの要件は多くもの派にはあてはまらない)しかしこの展覧会では彼らを排除し、ポストコロニアル体制下の「プライマリー・ストラクチュア」を捏造するためにあらためてこれらの作家が召喚されたのではないか。私はこのような恣意性には与することができない。さらに意地の悪い見方をするならば、私は今回の作家と作品の選定にマーケットの要請が関わっている気がするのだ。「態度がかたちになる時」に出品された作品の多くがその場限りの展示であって、保存や売買が困難であったのに対して、(再制作も数点含まれているとはいえ)「Primary Structures」周辺の作品、非欧米に由来する実体的な作品は新しい市場をかたちづくる。近年の具体美術協会の絵画の異常な高騰を想起してもよい。私にとって今回の展覧会はポストコロニアリズムが文化において一つの正義となることの危うさを物語っているように感じられた。

24/08/14追記
MOMAのカレンダーを確認したところ、リジア・クラークの展覧会が5月から本日まで開催されていたことを知った。具体やもの派もそうであったが、新奇な売れ筋を求めて、最近のニューヨークのアート・マーケットの「選択と集中」にうんざりするのは私だけであろうか。

by gravity97 | 2014-08-17 11:07 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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