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Living Well Is the Best Revenge

蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』

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 このところブログの更新が滞りがちであったが、上の書影を見ればその理由が理解していただけることと思う。一月近くこの大著を読み続け、知的な興奮に満ちた幸福な時間を過ごしていた。小説であれば数日でこの程度の分量を読むことは不可能ではない。しかし本書は精読を要求し、そもそも研究の対象であるギュスターヴ・フローベールの『ボヴァリー夫人』に関する十分な知識が前提とされる。本書の序章と第一章はすでに『新潮』の1月号に掲載され、その折に本書の刊行は時期も含めて予告されていたから、私は本書の発売に先んじて『ボヴァリー夫人』を再読することから始めた。およそ30年ぶりに再読して思うところもあったが、それについては措く。明らかであるのは『ボヴァリー夫人』研究である本書は、研究の対象よりはるかに量が多く内容も濃密であることだ。
 実は本書が執筆されていたことはずいぶん以前から知られていた。蓮實は「フローベールの才能を欠いた友人」として知られたマクシム・デュ・カンなる人物について論じ、本書の姉妹編とも呼ぶべき『凡庸な芸術家の肖像』なる大著を四半世紀前、1988年に上梓した。この書物の成立の理由について蓮實はあとがきのなかで次のように述べている。「すでに書き始められていた『ボヴァリー夫人論』からの逸脱、という解釈は一応は成立する。その間『ボヴァリー夫人論』は放置され、ときに同時進行することがあったとはえ、はかばかしく進展したとはいえないからである。だが、逸脱というからには、ある時期まで、『凡庸な芸術家の肖像』を書こうという意志が抑圧されながらも『ボヴァリー夫人論』執筆の背後に持続しており、それがあるとき唐突に本道から逸れていったことになるのだろうが、事態はそのように進行したのではない」蓮實重彦『「ボヴァリー夫人」論』_b0138838_16102315.jpgあるいは本書のあとがきによれば、資料の中からみつかった筑摩書房の担当者が記したとおぼしき、蓮實の名と「ボヴァリー夫人論」という二つの書き込みがあるメモには1989年という年記が記されていたという。蓮實は同じあとがきの中で、この浩瀚な論文が成立した経緯について日付を明記しながら説明し、本書がいかなる意味においても「生涯の書物」ではなく「著者の老年期に書かれたテクスト」であることを強調している。しかし本書が少なくとも数十年のスパンで持続された一つの小説への関心によって執筆され、時間を費やして完成されたことに私は深い感銘を覚えた。最近の博士論文の粗製濫造の風潮によって読むに堪えない「博士論文」が活字となる中で、一人の学者が知的な能力のすべてを投入し、その「老年期」にかくも充実した成果として結実させたことに心を打たれるのである。それゆえ読者たる私も思わず襟を正して本書に向かった。
 それにしてもなぜ「ボヴァリー夫人」なのか。私が最初にこの小説を読んだのは中学か高校の頃であった。当時の私はヨーロッパの19世紀文学を濫読していたから、同じ時期にスタンダールやバルザック、ドストエフスキーやトルストイも読んでいたはずだ。といっても毎月の小遣いで買うことのできる本は限られていたから、小説を選択するにあたって唯一の基準は文庫本となっているか否かであり、フローベールの小説を本書しか読んでいない理由は、今回も再読した生島遼一訳の新潮文庫版以外にこの作家の小説を文庫で入手することが困難であったことに尽きる。しかし今挙げた作家のラインナップの中でフローベールは特に印象の強いものではなかった。「ボヴァリー夫人」しか読んでいないことも理由の一つかもしれない。しかし例えばドストエフスキーの長編の思想性、デュマの冒険小説の血湧き肉踊る興奮と比べ、田舎での結婚生活に倦怠した人妻が不倫と借財の果てに自殺するという物語はさほど面白いものではなく、それゆえ今回再読するまで細部についてはほとんど忘れていた。「カラマーゾフの兄弟」でもよい「赤と黒」でもよい、ある程度の小説読みであれば本書より小説として優れた長編を挙げることは困難ではないはずだ。一方、有名な「ボヴァリー夫人は私だ」という言葉に象徴される一連のスキャンダル、作家が風紀紊乱の罪に問われたという背景が蓮實の関心を引いた訳でないことも明らかだ。それどころかこの長大な研究にテクストの外部、作家の個人的閲歴に関する記述はほとんど存在しない。それではなぜこの小説が選ばれたのか。一言で述べるならば、それは本書の「テクスト的な現実」の厚みに由来している。「テクスト的な現実」、それこそが本書の中心的な主題だ。かかる「テクスト的な現実」が例えばスタンダールの、ドストエフスキーの小説にも読み取れるか否かについて私は即断できない。私の考えではおそらく「ボヴァリー夫人」が選ばれた理由はそれが蓮實の専門とするフランス語で書かれていること、そしてそれが「レアリスム小説」の典型とみなされてきたことによる。いうまでもなく「レアリスム小説」と「テクスト的な現実」は無関係であるどころか、後述するとおりしばしば対立する。言葉を換えるならば、蓮實が関心をもつのは優れた小説ではなく、テクストが現実としていかに編成されているかであり、極端な物言いをするならば、ある程度の格を備えておれば、どのような小説を取り上げてもよかったのだ。私たちは本書を「ボヴァリー夫人」について論じた研究とみなしてはならない。本書はテクスト的な現実が小説の中でいかに露出するかについて、たまたま「ボヴァリー夫人」を通して分析した研究なのである。
 それでは次の問い。本書の核心とも呼ぶべき「テクスト的な現実」とは何か。Ⅶ章の末尾のあたりに、今述べた問題とも関連してヒントとなる一文が書きつけられている。少し長くなるが引用する。

 とはいえ『ボヴァリー夫人』という長編小説が、その刊行いらいこんにちにいたるまで、ほぼ百五十年にもわたって、ひたすら「テクスト的な現実」から人目をそらせ、それとは異なるテクスト外的な「現実」へと視線を誘い、それを言語的に表象するものとしての「フィクション」ととらえずにはいられない欲求を多くの人々にいだかせがちな作品とみなされているのも否定しがたい事実である。そのとき、人は「レアリスム」の典型的な作品としてこれをとらえ、多くの場合、「モデル」という「テクスト的な現実」にはおさまりのつかない外部の概念を想起しながら、「テクスト」を読もうとしがちなのだが、それは、ことによると散文のフィクションとして書かれた長編小説の宿命かもしれない。

 ここでも触れられるとおり、「ボヴァリー夫人」についてはしばしばモデル探しがなされた。しかし蓮實はモデルや作者といったテクストの外部を完全に捨象し、テクストに表明された事実のみに即して作品を分析することを試みる。それがどのような発見をもたらすかについては、例えば第Ⅰ章に即して次に論じるとして、ここではこのような読みは私たちが通常小説の読解とみなしている行為と全く異なっている点を指摘しておきたい。私たちは小説を通して作者の意図を読み取ることが読書という行為の本質であるという通念に拘束されてきた。しかし蓮實は作者の意図といった漠然とした概念に全く信を置かない。もしそのようなものがあったとしても、それは何よりも「テクスト的な現実」として作品の中に露呈されていなければならないのだ。構造主義を経過した私たちにとって、このような発想は決して意外ではない。美術の分野で形式的な批評になじんだ私にとって、むしろ当然であるようにさえ感じられるのだが、今でさえ幼稚な批評家たちの文章の中には小説の背後に作者の意図や考えを読み取ることを当然とする発想がしばしば認められる。蓮實の文学研究はこのような読解に徹底的に抗い、徹頭徹尾即物的だ。それでは私たちも本書を章に沿って読み込んでいくことにしよう。

 「読むことの始まりに向けて」と題された序章において、蓮實は本書がフローベールの「ボヴァリー夫人」を論じる内容であるといささか同語反復的な断定を加えたうえで、この小説が発表された19世紀中葉とはジャーナリズムの発達に伴い、「テクストをめぐるテクスト」が成立した時期であることを指摘する。このうえで蓮實はサント=ブーヴからボードレールにいたるこの小説をめぐる「批評的エッセー」の系譜を瞥見する。次に蓮實はそもそも論じられるテクストとしての「ボヴァリー夫人」が不確定、あるいはあいまいな対象であることを論証する。蓮實の論証はヴァリアントをめぐるテクスト・クリティークのレヴェルから乗合馬車の窓の位置をめぐる記述の矛盾といったレヴェルまで多岐にわたるが、このような不確定性の分析こそ本書の主題であることを、蓮實は次のように宣言する。「『「ボヴァリー夫人」論』の著者は、矛盾する『文』の共存がきわだたせる『不確かさ』、あるいは『曖昧さ』を、この作品ならではのフィクションの『テクスト的な現実』と呼ぶことを提案する」先にも述べたとおり、この長い論考の鍵となる概念が「テクスト的な現実」であるから、序章に掲げられたこの文章をしっかりと記憶に留めるならば、以後の蓮實の議論を追うことはさほど困難ではない。
 「ボヴァリー夫人」をめぐる「テクスト的な現実」は第Ⅰ章「散文と歴史」において実に鮮やかに私たちの目の前に提示される。冒頭に蓮實は「ボヴァリー夫人とは何か?」というきわめて単純な問いを提起する。「ボヴァリー夫人は私だ」という作家の有名な言葉なども連想されようが、蓮實の分析は徹底的にテクスチュアルなレヴェルでなされる。蓮實ならずともこの問いに答えることはさほど難しくない。小説の中でマダム・ボヴァリー、つまりボヴァリーというファミリーネームをもつ男性の妻の位置を占める女性は三人いる。シャルル・ボヴァリーの母親、シャルルの初婚の相手であり急死した年上の未亡人エロイーズ、そしてこの小説の主人公たるシャルルの二番目の妻、エンマ・ボヴァリーである。私たちは「ボヴァリー夫人」がエンマ・ボヴァリーの物語であることを疑うことはない。例えば新潮文庫版の裏表紙には次のような簡単な要約が付されている。「田舎医者ボヴァリーの美しい妻エマが、凡庸な夫との単調な生活に死ぬほど退屈し、生まれつきの恋を恋する空想癖から、情熱にかられて虚栄と不倫を重ね、ついに身を滅ぼすにいたる悲劇」しかし原著を精読した蓮實は驚くべき「テクスト的な現実」を発見する。三人の「ボヴァリー夫人」たちは、「ボヴァリー母」「ボヴァリー老夫人」「ボヴァリー若夫人」「彼の妻」といった様々な呼称で呼ばれることはあっても、なんと「エンマ・ボヴァリー」という固有名詞は一度たりともこの小説の中に書きつけられていないのだ。蓮實の論証は様々なヴァリアントや証言を動員してきわめて実証的になされ、その詳細についてはここでは繰り返さない。蓮實は「ボヴァリー夫人」における「エンマ・ボヴァリー」という記号の物質的な不在こそが「テクスト的な現実」であり、それにもかかわらずこれまでこの点を誰も指摘しなかったと説く。蓮實によれば、それは人が「テクスト」を読むことをあまり好まないからであり、短い紹介や作家の評伝のみならず多くの理論的な研究もこの「テクスト的な現実」を見逃している。この長編の中にあえてフローベールが「エンマ・ボヴァリー」の名を記さなかったことは意図的である。私たちはこのような事実から始めなければならない。つまりエンマ・ボヴァリーの悲劇というフィクションが存在するのではない。私たちに与えられたのは「ボヴァリー夫人」と題され、印刷された活字というひとまとまりのテクストのみなのである。蓮実はこの章を次のように結ぶ。「印刷された活字のつらなりにほかならぬ『散文』のフィクションとして、『ボヴァリー夫人』を『読む』ことが、いま始まろうとしている」
 「懇願と報酬」と題された第Ⅱ章も私には実に刺激的に感じられた。蓮實はまずこの小説の中でさほど重要とも思われない二人の人物の共通性に止目する。一人は最初の「ボヴァリー夫人」、つまりシャルルの母であり、もう一人は舞台となる田舎町に住む薬剤師オメーである。「ボヴァリー母」は物語の最初に登場し、シャルルを都会の中学に通わせることをシャルルの父親に提案する。一方薬剤師のオメーは徹底的な俗物として描かれ、エンマが服毒する砒素とも関わるのであるが、奇妙なことにこの小説は「彼(オメー)は最近レジヨン・ドヌール勲章をもらった」というエンマともシャルルとも無関係な一文で終わる。この小説はシャルルが中学に現れた場面で始まるから、二人はともメイン・ストーリーの外部でありながら、物語の最初と最後、対照的な位置を占めているといってもよかろう。しかし蓮實はこの二人に興味深い共通点を見出す。例えばこの小説においてはごく端役であってもほとんど全ての登場人物にフルネームが与えられているのに対して、ボヴァリー夫人(いうまでもなくシャルルの母)とオメー氏のみは姓で呼ばれて洗礼名についての記述がないという「テクスト的な現実」が存在するのだ。二人はもう一つ、主題的な共通性も有している。「懇願と報酬」というタイトルが暗示するとおり、ボヴァリー母にあっては息子シャルルを都会の中学へ入れること、オメーにあっては端的に自分の叙勲を懇願する。その相手は前者にあってはシャルルの父であり、後者にあっては国王であり、両者の願いは最終的に叶えられるがその経緯は明かされていない。つまり彼らの懇願に対して報酬を与える存在は物語の外に存在するのである。このような分析自体は興味深いが、決して驚くべきものではない。私が圧倒されたのはこのような主題的枠組を作品の形式へと還元する蓮實の発想のしなやかさである。どういうことか。先に私はこの小説の末尾の一文を書き写した。今度は最初の一文に目を止めよう。「私たちは自習室にいた。すると校長が制服でない普通服をきた『新入生』と大きな教師机をかついだ小使いをしたがえてはいってきた。いねむりして連中は目をさました。みんな、勉強中のところを不意打ちくったように立ち上がった」少なくとも、今回「ボヴァリー夫人」を再読して、私は冒頭からこの小説が説話論的にかなり歪な構造をしていることをあらためて認識した。いうまでもない。冒頭の「私たち」である。nousとは一体誰か。新入生とはシャルルのことであるから、おそらく「私たち」とはクラスメイトであろう。引き続いて「新入生」がクラスにとけ込めない様子が記録されるから、おそらくこの判断は間違っていない。しかしこの語り手は名前も与えられることがないまま、いつのまにか「新入生」を彼もしくはシャルルと呼ぶ匿名の語り手へと引き継がれるのだ。「ボヴァリー夫人」において語りの位置はきわめて不自然で、読み手は居心地が悪い。少なくとも冒頭において話者が具体的に物語の中にいるかどうか不明確であり、読み進むに従ってそれが超越的な話者であることが次第に明らかになったとしても、話者の権能、すなわちそれが全能の話者であるか、特定の視野や権能を有した話者か判然としないのである。蓮實はこのような話者とボヴァリー母とオメーの懇願に対して、思いついたように報酬を与える物語の外の存在に同型性を認める。蓮實は次のように記す。

 「僕ら」に含まれる「僕」は、シャルルの母親に息子の中学入りを許したボヴァリー氏のように、あるいは薬剤師オメーに勲章を下賜した匿名の「国王」のように、物語の要請を無視する不可視の「超=説話論」的な力の無根拠な介入によってフィクションを開始せしめ、その役割を終えると物語から撤退するものだった。ただし、その撤退は無償の振る舞いではない。「超=説話論」的な要素の介入や撤退は、非時間的に形象化されうる物語に時間を導入するものだからである。

 作品の主題に関する分析を語りの形式の問題へと転じるアクロバティックな分析から私は例えばマイケル・フリードの60年代の美術批評を連想する。フォーマリズム批評の典型とも呼ぶべきこの時期のフリードの論文においても「テクスト的な現実」ならぬ作品の形式が問われる。それは誰もが読んでいたはずの/見ていたはずの事実である。しかしそこにわずかに兆した綻びによって作品の意味を一変させ、作品についての見方を根底から変える手法は、論じる対象こそ異なるものの蓮實の文学研究における跳躍と似ている。そしてまさにこのような認識論的飛躍こそ、私が優れた批評に期する特質なのである。
 さて、私はこの長大な論考10章中のまだ二つの章について論じたにすぎない。この調子では相変わらずブログの更新がおぼつかない。やや異例であるが、本書のレヴューは二回に分け、まず前半をアップすることにする。残りの章も同様の発見や示唆に満ちていることはいうまでもない。それらについては次回のブログでやや駆け足で論じたい。
 なお蓮實の読者であれば誰でも知っているとおり、蓮實は物語と小説という二つの言葉を意識的に使い分けている。しかしこのレヴューでは両者を蓮實に即して厳密に区別することはあまりにも煩瑣に感じられるため、特にそのような区別をせず、文脈に応じて用いていることをお断りしておく。

12/08/14 追記
上に記したとおり、本ブログについては続けて後編をアップすべく、実際に筆を進めてもみたのであるが、蓮實の大著を自分の関心に沿って要約することは予想以上の難作業であり、何より私の狭い関心によらず、直接本書を通読いただいた方が本ブログの読者にとっても有益であると判断したため、本書に関してはここで筆を擱く。諒とされたい。
代わりという訳ではないが、同じ著者がおよそ40年前に発表した有名な「宣言」の冒頭の一文をアップしておく。
by gravity97 | 2014-08-03 16:14 | 批評理論 | Comments(0)