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優雅な生活が最高の復讐である

「官展にみる近代美術」

 
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  早いうちに見て、もっと早くレヴューしておくべきであったと悔やまれる展覧会が神戸で開かれていた。福岡、府中、神戸と三つの美術館を巡回した「官展にみる近代美術」である。既に終了しているので事後報告となるが、地味ではあってもきわめて重要な展覧会であったと感じられる。私は官展にも、「植民地の美術」にも全く疎いから、適切な批評ができるか心もとないが、少なくともこの展覧会について何かしらの感想を文字として残す必要を感じる。
 展覧会のタイトルの上に四つの都市の名前が重ねられる。東京、ソウル、台北、長春。東京はともかく、残りの四つの都市は韓国(旧朝鮮)、台湾、満州国という日本によって統治されていた国の首都であり、このうち中国東北部に存在した満州国は今はない。出品リストを参照するならば最も古い作品は1909年、新しい作品は1945年に制作されている。カタログに付された年表の上限は1889年、下限は1947年である。1989年とは大日本帝国憲法が発布され、東京美術学校が開設されたというこの展覧会にとってメルクマールとなる年であるが、下限としては第二次世界大戦終結の2年後が設定されている。あらかじめこのように空間と時間を限定したうえで本展のテーマとして設定されたのはタイトルに示されたとおり、国家によって組織された公募美術展、官展である。舞台が四つあるから、当然ながら官展も四つの名前をもつ。すなわち東京においては「文部省美術展覧会」もしくは「帝国美術院展覧会」であり、それぞれ文展、帝展と略称された。朝鮮では「朝鮮美術展覧会」、台湾では「台湾美術展覧会」そして満州国では「満州国美術展覧会」。それぞれの地域で第一回展が開かれたのはそれぞれ1922年、27年、37年であり、それはこれらの地域が大日本帝国の版図に組み入れられた時期を暗示しているだろう。これらの展覧会名が韻を踏んでいることも当然である。これらの展覧会は日本の植民地政策の一環、一種の宣撫工作として実施されたのだから。これらは1907年に開始された日本の文展をモデルとして組織され、植民地主義が貫徹している。したがって朝鮮と台湾における官展の劈頭に掲げられた文書に現地の美術に関する次のような認識が明記されていたとしても驚くには値しない。すなわち朝鮮に対しては「朝鮮の美術は曾て三国時代より高麗時代に亘りて非常なる発達を為し、次で李朝時代の初期に於ても尚燦然たる光華を放つて居つたのであるが、其の中庸以来漸次陵夷して復た振はず、遂に制度の廃弛時運の衰微に伴い殆むど昔日の観を失ふに至つたのは真に遺憾に勝へぬ次第である」台湾に対しては「領台四十有余年、皇化に潤ふ島民は楽土安業に其の日を送っているのであるが、さてかうなつてはじめて心の余裕も取り戻し、美術に対する関心も持ち始めるようになつた。そして目覚めた眼をあげて島内の美術界を眺め渡しときに、そこには非芸術的な建物と服飾、幼稚な色彩に色どられた寺廟の装飾を得ただけであって、美術的には全く荒廃しきった姿の外何物もなかつたのである」偏見に満ちた、書き写すだけで気分が悪くなるような文章であるが、宗主国が植民地を教化し、善導するという発想は日本に限らず当時の欧米列強と同一であり、もちろんだからといって免罪されるはずもない。さらに官展という発想自体が本質において美術の国家統制であり、民主的な運営からはほど遠いものであることは、文展設立当初からの審査制度をめぐる紛糾、展覧会の改組をめぐる混乱からも明白であり、昨今の日展の審査をめぐる数々の疑惑を想起するならば、同じ体質が今日まで持ち越されていることもまた明らかではある。今回のカタログは資料的価値が高く、各展覧会に関する貴重な情報が掲載されているが、それによればこれら外地における展覧会の審査にあたっては審査員として日本画であれば結城素明から山口蓬春、洋画であれば藤島武二から梅原龍三郎にいたる錚々たる面々が現地に赴いている。これらの資料を繙いても実際の審査がどのように進められたか、とりわけどの程度現地の関係者が加わったかについては判然としないが、例えば朝鮮美術展においては日本人受賞者の賞状からは朝鮮人審査員の名が削除され、日本人審査員への謝金は現地の審査員への謝金の10倍近かったといった記述からも、おそらく審査自体が植民地主義を濃厚に反映させ、当落や入賞者の決定に関しては日本人審査員が決定的に与っていたと考えてほぼ間違いないだろう。作品ジャンルの変遷やジャンルごとの作品数、あるいは各地に伝えられてきた絵画と「日本画」の関係など、詳しく検討してみたい問題は多いのだが、残念ながら私の能力を超えている。ここでは私が関心を抱いた点についていくつかの所感を記すに留める。
 この展覧会の地味な印象は、出品された作品がいずれもよく似ている点に帰せられるかもしれない。出品作品はジャンルとしては大半が東洋画と西洋画に分類されるが、後者がいわゆる洋画として西欧に由来し、東アジアのいずれの国にとっても外来の表現であったのに対して、東洋画という概念は日本画も内包しつつ、朝鮮や台湾固有の絵画も包摂することが可能な便利な概念といえよう。実際には朝鮮美術展覧会には「書・四君子」と呼ばれる独特のジャンルが一定期間存在していたことが検証されている。もしそれぞれの地域に「日本画」に対応する固有の表現が存在したとすれば、それらの表現が官展という制度といかなる摩擦を引き起こしたかという点に私は興味を覚える。もっとも実際にはかかる抵抗はさほどなかったかもしれない。なぜならば第一に日本も含めて東アジアの美術は中国の圧倒的な影響を受けてきたから、「日本画」が特に独自性をもつということはなかっただろう。逆にこのような親近性が官展という制度を植民地に導入するうえで助けとなったと考えらるかもしれない。第二に先に述べたとおり、このような官展の実施が宗主国による宣撫工作の一環であるならば、必ずしも強権的な文化支配が目指される必要はなかったからだ。実際に収録された論文によれば、例えば朝鮮において総督府が朝鮮美術展の審査員を決定するにあたっては現地画壇の意向が重視され、この結果、内地の官展では諸団体の確執が続いていたにもかかわらず、「鮮展では内容的にも内地の展覧会より多様性をおびていて、なによりもうれしいことである」という伊原宇三郎の物言いは興味深い。まさに「五族協和」という展覧会の理想を逆説的に暗示しているかもしれない。それにしても「植民地の美術」が提起する問題の射程は実に深い。例えば近年いくつかの展覧会で検証されつつあるとはいえ、大陸ではなく南方諸島と美術の関係はどうか。近年、文学の領域では何人かのキーパーソンをめぐってこの問題が深められつつある。あるいはかつてこのブログでもレヴューした維新派にみられる南太平洋への志向など、大日本帝国の版図の表象は今日にいたるまで多くの作家の想像力を刺激してきた。ずいぶん以前に読んだため小熊英二であったか李孝徳であったか判然としないが、昭和初期の国家の表象という問題に触れた論文の中で、私は当時の日本に時差があったという指摘に驚愕したことを覚えている。あるいは当時の時刻表を参照するならば、今日のトーマスクックのごとく、国内と大陸が鉄路によって結ばれている状況は一目瞭然である。かかる空間的拡張が当時の人々の美的感性に決定的な影響を与えたことに疑いの余地はない。
 少し話がずれた。展覧会に戻ろう。展示された作品の穏健さ、同質性は出品作家の多くが日本で美術教育を受けたことにも起因しているだろう。宗主国が高等教育をとおして植民地の文化に決定的な影響を与えることは驚くに値しない。実際に大陸の官展に出品された作品のいくつかは日本の文展や帝展に並んでいたとしても異和感がない。多くの作品が一種のエキゾチシズムを漂わせていたとしても、それは扱われた主題による。朝鮮であればチマ・チョゴリや祭礼、台湾であれば熱帯的な樹木や草花の繁茂。しかしこの展覧会を見るならば、これらのモティーフは当時の日本の画家たちにも好まれ、実際に山口蓬春や和田三造(いずれも大陸の官展で審査員を務めた作家だ)らによって日本でも作品の主題とされていたことが明らかとなる。現地の画家が描いた大陸の風景と日本の画家が描いたそれに積極的な差異を見出すことは難しい。日本の画家が描いた大陸、かかる主題系列から直ちに連想されるのが戦争記録画であることはいうまでもない。ここで戦争画の問題にまで踏み込むことは問題をあまりに広げてしまうが、同じ大陸の風景を記録した日本人による絵画として朝鮮美術展覧会や満州国美術展覧会に出品されていた作品と、いわゆる戦争記録画がいかなる補完関係にあったかという問題は今後深く掘り下げられるべきであろう。おそらくそれは平時と戦時の対立のみに還元されることはない。構図や技法、人物と観者の関係なども含めて多角的な分析が可能ではないだろうか。
 四つの官展に出品された作品に積極的な差異を見出しにくいことは今述べたとおりであるが、作品の数としては圧倒的な不均衡がある。東京、ソウル、台北の作品はほぼ同数が出品されているのに対し、長春の作品はきわめて少ない。巻末の資料によれば展覧会の開催数自体が、文展帝展は30余回、朝鮮美術展覧会は23回、台湾美術展覧会が16回を数えるのに対して満州国美術展覧会は8回、しかも最後の回は設営直後にソ連軍が新京に侵攻したため公開されなかったという。そして満州国という国家自体も混乱の中に消滅してしまったため、美術館や大学といった作品を庇護すべき機関も存在せず、さらに日本人の引き揚げに際しては書画類の持ち出しが禁止されたため、多くの絵画が現地に遺棄されたという。これらの作品の命運は満州国という虚構の国家を象徴しているようではないか。このため今回の展覧会では記録写真によって展示の模様が紹介され、逆に写真図版を通して、この展覧会に出品された作品が同定されて国内の美術館から追加出品された例もあったと聞く。満州国美術展覧会のセクションに出品された作品は少ないが、何点かの洋画にきわめて独自のモティーフが導入されている。それは地平線である。例えば劉榮楓という画家の二点の洋画はいずれも画面が地平線で二分され、落日と虹が描き込まれている。いうまでもなく地平線は広大な大陸において初めて一望可能なヴィジョンであり、ほかの地域の絵画には認められない。ただしほぼ同じ時期に地平線というモティーフがこの時期、広くに日本に導入されつつあったことは2003年に東京国立近代美術館で開かれた「地平線の夢」という展覧会で綿密に検証されたとおりだ。この展覧会を企画した大谷省吾はこのような構図の由来をダリの影響、古代ギリシャ・ローマへの憧憬、そして大陸の風景に求めている。今述べたとおり実景としての地平線は内地では得ることの困難なヴィジョンであり、その起源をダリやイヴ・タンギー、デ・キリコといったシュルレアリスムに求めることは決して強引ではないだろう。この時、当然ながら日本の官展からは排除されていたシュルレアリスム的な構図が長春の官展では広く受容されていた可能性が浮かび上がる。さらにいえば同じ時代に地平線や水平線を伴った構図が多用されたもう一つのジャンルは戦争記録画である。戦況を俯瞰するうえでは深い奥行をともなったプラトー構造が適切であったのだ。なおも論を敷衍するならば、戦争記録画には今述べた構造が顕著な、例えば鶴田吾郎の《神兵パレンバンに降下す》のごとき作例とともに藤田嗣治の一連の絵画に顕著な、蝟集する兵士たちが垂直の壁をかたちづくるオールオーバーで平面的な作例も数多い。このような対照、つまり戦争記録画の形式的分析にはなお多く研究の余地がある。
 この展覧会から浮かび上がる問題は際限がない。最後にもう一点だけ、私が関心を抱く主題を記して筆を擱くことにしよう。それは官展とモダニズムの関係である。今、シュルレアリスムとの関係について触れたが、基本的にアカデミズムとして成立する官展とモダニズムの関係は微妙である。日本国内における両者の関係についてはいくつかの先行研究や展覧会が存在するが、大陸という函数を得て、新しい視野が広がる。残念ながらこの展覧会でこの問題は十分に検証されていない。それは満州国美術展覧会のセクションの相対的な貧弱さと関係しているだろう。私の考えではソウル、台北が東アジアの一端としてヨーロッパに対して同じようなポジションを占めるのに対して、「出品者名簿には日本人や中国人だけでなく白系ロシア人と思われる名前が混じっていた」満州国にはコスモポリタニズムの萌芽が認められる。長春ではないが、例えば同じ満州国の大連において1924年から27年にかけて安西冬衛らは日本のモダニズム詩の先駆的な存在となる詩誌『亞』を発行し、尾形亀之助も参加している。当時の大連が国際都市であったことについては多くの証言が残されており、この地域が東アジアにあって早くからヨーロッパのモダニズムを受容していたことが理解される。もし満州国美術展覧会の作品が多く残されていたら、この問題にも多くの知見がもたらされたと考えられるのだ。カタログの裏表紙にこの展覧会のタイトルの英訳が記されている。Toward the Modernity : Images of Self & Others in East Asian Art Competition まことに含蓄のあるタイトルではないか。
by gravity97 | 2014-07-27 10:35 | 展覧会 | Comments(0)

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