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優雅な生活が最高の復讐である

奥泉光『東京自叙伝』

b0138838_2135565.jpg 先日、レヴューしたポール・オースターもその例であるが、数年にわたってこのブログを続けているとどうしても好みの作家、何度も取り上げる作家が出てくる。オースター同様、奥泉光も新刊を中心に取り上げること、これで三回目となった。本書も奥泉らしい奇想と巧妙な語りが一体となった秀作である。
 「私の記憶と云うのは大変に古くまで遡るのですが、その大半は切れ切れの断片にすぎず、だから纏った人生の記憶の始まりと云う事になると、弘化二年、西暦で云えば一八四五年、この年の正月二十四日、青山権田原三筋町から火が出て、一帯を焼いた火事がありました。これが最初の記憶だ」人を食ったような一文から本書は始まる。全六章から成る本書の第一章は「柿崎幸緒」という人名らしきタイトルが付され、ほかの章も人の名を冠しているから、おそらく柿崎とはこの章の語り手と推察される。そして実際に章ごとに語り手は変わるが、通常の小説における視点の交代とは様相を違える。火事とともに記憶を語り始めた柿崎はまもなく安政の大地震に遭遇し、次のような感慨を得る。「一個の確信が私に出し抜けに押し寄せた。即ち、私が地震に遭うのは今回が初めてではないとの確信だ」火事と地震の記憶が繰り返し刻印された語り手、本書のタイトルを参照するならば、それが何の暗喩であるかは明白だ。本書の語り手は東京という土地のゲニウス・ロキ(地霊)なのである。そして読み進めば明らかとなるとおり、この語り手はしばしば人以外のかたちをとる。ミミズやカゲロウといったエフェメラルな生き物、そしてとりわけ好むのは鼠である。奥泉の小説、例えば『神器 軍艦「橿原」殺人事件』の読者であれば、奥泉の小説の中で鼠に与えられた特権的な位置に馴染んでいるから、さほど驚くこともないだろう。火事や空襲、襲撃などで語り手が危機に陥るや何処からともなく大量の鼠が発生し、語り手を導く。この小説における語り手は、江戸末期に武士の養子となる孤児「柿崎幸緒」から東日本大震災発生時の福島第一原子力発電所の作業員「郷原聖士」まで6人の人物に、小説中で用いられる言葉を使えば「凝集」、私の好む言葉では焦点化しつつ、一世紀半にわたる東京の変貌を語る。レオボルド・ブルームのダブリン、フランツ・ビーバーコップのベルリン、私たちは一つの都市を文学によって表象するいくつかの先例を思い浮かべることができる。それらの小説においては主人公たちの彷徨を介して、都市が空間的に立ち現れるのに対して、本書の特異さは複数の語り手を得て、空間のみならず時間的にも都市像が形成されていく点であろう。東京の地霊という本書のテーマからは荒俣宏の『帝都物語』が直ちに連想される。実際に明治から現代へといたる時間的な広がり、実在の人物を点在させる手法、平将門や震災といったモティーフは両者に共通している。しかし荒俣の小説がウェルメイドな伝奇小説であって、あくまでも伝統的な小説の結構を保っているのに対し、奥泉は小説の形式にも様々の企みをこらす。例えば各章を無数のパートに分割し、それぞれの冒頭に短いレジュメを書きつける手法だ。章の冒頭にその章の梗概を記す手法はさほど珍しくない。例えば今挙げたアルフレート・デーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』がその例だ。しかし章の梗概は通常であれば冒頭に書き込まれるのに対して、本書では梗概というより短いキーワードが太い活字とともにきわめて頻繁に地の文章に介入する。キーワードと本文を併置する書式から私が連想したのは小説ではなく歴史の教科書である。b0138838_21354597.jpg縦書きと横書きの差異こそあるが、私が昔学んだ歴史の教科書はその時代のトピックを太ゴシックで短く示したうえで詳細を地の文で解説するという形式がとられていた。両者の相似は本書が一種の歴史記述であることを念頭に置くならば不思議はないが、この部分がなくてもテクストをつなぐことは可能であるから、このような表記はある意図のもとになされている。つまり読者は、次の章の成り行きをあらかじめ目にしたうえで物語を読み進めるのだ。説話論的に述べるならば、本書は先説法の集積によって形成されている。かかる時制は興味深い。ここでは未来を予告しつつ現在が記述される。このような手法がはらむ意味については後で論じるとして、読者の意識を中断する仕掛けは無数のキーワード表記だけではない。この小説は主に口語調の敬体で語られるが、時折奇妙な表記に出会う。ソンナ、コンナ、スッカリ、マアといった副詞や連体詞がなぜか片仮名で表記されるのだ。「この頃はソンナ酒好きでもなかったがマア付き合った」といった調子だ。読み進むうちに慣れてくるとはいえ、このような表記はかなり異様である。レジュメとぎくしゃくした片仮名表記によって物語はたえず中断され、私たちは読書に集中することができない。このような揺らぎは語り手にも共有されている。先にも述べたとおり、本書は主として6人の語り手によって順番に語られるが、それぞれの語り手は必ずしも自らの位置を把握していない。一例を挙げるならば第二章の「榊春彦」に焦点化する前、つまり第二章の最初の部分で「私」は猫、カゲロウ、浅蜊、そして鼠へと次々に焦点化し、しかもそれらの記憶は曖昧である。関東大震災の到来を機に「私」は榊春彦として語りを始めるが、その後も榊の意識の中には様々な生き物の記憶が混在する。語り手の意識のぶれ、一貫した意識の流れをたえず阻害する夾雑物は、小説の形式を介しても暗示され、読み手にも経験されるのである。
 いつもながら形式に拘泥してしまった。内容に戻ろう。先に述べたとおり、本書では江戸末期から現代にいたるまで六人の話者がまるでリレーをするかのように、東京という土地をめぐる物語を語る。「柿崎幸緒」は江戸から明治、幕府の武士から新政府の官員へと変わり身の早い男だ。「榊春彦」は軍隊との関係が強い。陸軍幼年学校から士官学校、陸軍のエリートコースを歩み、英国留学から関東軍、ノモンハン事件に立会い、敗戦にいたるまでの日本陸軍の栄光と転落を体現している。第三章の「曽根大吾」は戦後の裏面史であろうか。曽根は東京大空襲のあたりから記憶を獲得し、闇市で頭角を現し、ヤクザたちとの闘争を繰り返して勢力を拡大し、ヒロポンから取り込み詐欺、不動産売買に手を広げ、裏の世界の顔役となるが、最後は軍の隠匿物資をめぐる暗闘に引き込まれ、車ごと焼き殺される。第四章の「友成光宏」は混乱から繁栄への戦後史の分身だ。京都大学を卒業して商社に勤務し、サンフランシスコ講和条約絡みのアジア賠償、労働争議といった騒然たる世情を背景に勢力を拡大し、保守党政権と密接な関係を築く。一方で皇太子成婚、浅沼委員長刺殺から東京オリンピック、さらにはビートルズ来日といった戦後日本のメルクマールとなった事件とも関わっていたことを自慢する。友成に関してもう一つ特筆すべきは、テレビ放送と原子力発電の日本への浸透を画策した点である。物語の中で友成は「読買新聞」の正刀杉次郎、いうまでもなく読売の正力松太郎とともに戦後日本の核アレルギーを払拭すべく策動するのであるが、実は友成は長崎で被爆も体験している。安保闘争あたりで語り手は友成から離脱し、第五章の「戸部みどり」で初めて女性の視点をとる。時代は昭和から平成へ、バブルの狂熱が東京を包む。八百屋お七の生まれ変わりでもあり、放火現場で自分に覚醒した戸部は都立大学の法学部を卒業し、法律事務所に勤務する一方で、夜な夜な都心のディスコに足を運んではバブルに沸き立つ東京を満喫する。戸部は地下鉄サリン事件や山一證券廃業といった事件にも関わり、彼女自身がバブルの絶頂から崩壊へという時代の病理を正確に再現するかのごとき転落を続ける。最後に登場する「郷原聖士」は先にも述べたとおり、東日本大震災の際に福島第一原子力発電所で自らに覚醒する。この章は比較的短く、原発事故の顛末の後、派遣労働、ネットカフェ、通り魔事件といった比較的最近の出来事が郷原を通して語られる。
 今、ごく簡単に要約したが、このような内容を知ったとしても本書を読む楽しみが損なわれることはない。六人の人物の物語は相互に複雑に入り組み、このあたりはいつもながら奥泉の語りの真骨頂といってよいだろう。そして東京をめぐるおよそ一世紀半の物語も虚実入り乱れたまま物語の中に嵌入し、現実と創作の境界は不明確となっていく。本書の語りの独自性は複数の話者にあるが、興味深いことにこれらの話者は必ずしも相互に排他的ではない。それが典型的に示されるのは第三章の最後の場面だ。曽根は軍の隠匿物資の隠し場所を知るために、ある男を脅してほしいと依頼される。その男とは榊春彦、いうまでもなく第二章の語り手である。友成は自分に会って自分を脅すことを求められるのだ。まことにフィリップ・K・ディックの「スキャナー・ダークリー」的な状況というべきであろう。「榊晴彦はかつて私だった人間にすぎない。いまは全然私ではない。したがって榊は赤の他人である。とコウ箱根へ来る道すがら、私は自分に言い聞かせてきたのですが、実際会ってどうだったかと云えば、これがヤッパリどうにも薄気味悪い」しかしかかる説話論的矛盾を奥泉はあっさりと解決する。つまり語り手が同時に存在する場合は章のタイトルを与えられた話者が優位に立つのである。第三章の終わりで曽根は榊を撃ち殺すが、同時に乗っていた車が炎上する。それを目撃していたのが第四章の語り手、友成であるから、この場面では殺す私と殺される私、そしてそれを目撃する私、三人の「私」が共存している訳だ。動物から人間までさまざまのかたちをとる「私」というトリックがこのような状況を可能にしている。ちなみにかつて「私」であった者の固有名を羅列してみよう。ビートルズ来日時のジョン・レノン、三億円事件の実行犯、三島由紀夫、数々の通り魔事件の犯人。ほとんど錯乱的な内容であるが、実は物語の初めでは一人の人物の中に比較的固く「凝集」ないし焦点化されていた「私」は物語の進行につれて、つまり時代が下るにつれて拡散し遍在することとなる、戸部みどりに至っては超満員のディスコに蝟集する若者たちが全て「私」であるという「原生動物的快楽」を味わいさえするのである。とめどなく増殖、拡散する「私」というテーマは星野智幸の「俺俺」を連想させないでもない。
 さて、交代する語り手というテーマは文学史において一つの主題系列をかたちづくる。それは転生という主題だ。私はこの系譜を形成するいくつかの作品を連想する。例えば三島由紀夫の「豊饒の海」五部作であり、なによりも中上健次の「千年の愉楽」である。中上の小説においては紀州の「路地」を舞台に高貴で不吉な血の宿命で結ばれた若者たちが、淫蕩と悪行の果てに次々に夭逝していく様が描かれ、彼らの短い生涯を見届けるのがオリュウノオバと呼ばれる産婆である。(このような構造が「百年の孤独」の登場人物とウルスラの関係と相似であることはいうまでもない)この時、興味深い問題が浮かび上がる。つまり転生という主題はしばしば反復という問題と結びつくのだ。「千年の愉楽」では半蔵、文彦、オリエントの康といった別々の名前をもつ美貌の青年たちが憑かれたかのように無残な死を繰り返す。この傑作を読み終えた時、私たちはこの反復が実に豊穣であることを知る。中上の死後、熊野大学にも出講した経験のある奥泉が本書を執筆するにあたってこの小説を意識しなかったと考えることは難しい。本稿を書き進めるにあたって「千年の愉楽」をぱらぱらと参照した私は「ラプラタ綺譚」の冒頭に書きつけられた次のテクストに引き寄せられた。

 オリュウノオバは或る時こうも考えた。自分の一等好きな時季は春よりも生きとし生ける物、力のありったけを出して開ききり伸び切った夏、その夏よりも物の限度を知り、衰えが音もなしに量を増し幾つもの管が目づまりし色あせ、緑色なら銀色に、紅い花なら鉄色に変わりはじめる秋、その秋よりも枯れ切った冬、その冬よりも芽ぶく春。オリュウノオバは時季ごとに裏山で鳴く鳥の声に耳を澄まし、自分が単に一人のオリュウではなく、無限に無数に移り変る時季そのものだと思っていた

 引用の最後の部分など「東京自叙伝」を予示するかのようではないか。さらにこのパッセージは奥泉の小説の本質と関わる重大な問題を提起している。前段で言及されるのはいうまでもなく四季の循環である。「東京自叙伝」が歴史、つまり時間を主題としていることは明らかだ。ところで古代ギリシャ人は時間をクロノスの時間とカイロスの時間に区別していた。クロノスが線的に流れる時間であるのに対して、カイロスとは循環する時間であり、端的な例は四季である。中上の引用は「千年の愉楽」における時間がクロノスではなくカイロスのそれ、回帰し、循環する時間であることを暗示している。ひるがえって「東京自叙伝」の場合はどうか。確かにここで語られるのは1845年から2011年まで一世紀半にわたるクロノスの時間、帝都東京のクロニクルである。しかし実はそれは本質においてカイロスの時間、反復される時間ではなかったか。かかる反復を保証する出来事は何か。いうまでもなく震災と火事だ。原子力災害を一種の火災と考えるならば、私たちはこの土地でこれらの二つの災いが幾度となく反復され、2011年3月には凶々しく同期さえしたことを知っている。壊滅の予感。その日以来、私も仕事で東京に行くたびに語り手たちと同様に興奮と緊張を味わう。なぜなら今や、いつ次の大震災が襲うかもしれず、一方で日々放射能によって汚染されているこの都市はもはや一種の死相を呈しているからだ。その一方、このメトロポリスは6年後のオリンピックに向けて、日本中の富を収奪して異様な虚飾をまといつつもある。確かに今日、かくもエキセントリックな都市は世界でもほかに例がないだろう。未来を予告しながら現在を記述する本書の叙述は、東京という都市の繁栄が常に壊滅を前提に築かれていることを暗示しているかのようだ。「マアどちらにせよ、近い将来、東京は壊滅してしまうのだから―と申しますか、すでに壊滅しつつあるわけですから、あれこれ考えても仕方がありません」本書は富士山爆発の幻視とともに幕を閉じる。しかしこのような壊滅もまた東京の転生の一つの相に過ぎないと考えるならば、本書はこの異例の都市にふさわしいまことに特異な「自叙伝」といえよう。
by gravity97 | 2014-07-10 21:37 | 日本文学 | Comments(0)

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