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Living Well Is the Best Revenge

ポール・オースター『闇の中の男』

ポール・オースター『闇の中の男』_b0138838_1124527.jpg このブログでオースターについて触れるのは三回目となる。最初にレヴューした際には「新刊が翻訳されるたびに買い求め、一度も裏切られたことがない」と記したが、実は『オラクル・ナイト』の後、『ブルックリン・フォリーズ』と『写字室の旅』の二冊を読み落としていたからこの言葉は撤回しよう。2007年に原著が刊行され、このほど翻訳が出た『闇の中の男』に目を通す。久しぶりとはいえ、いつもながらオースターを読む体験は快い。
 ブログで応接した「幻影の書」と「オラクル・ナイト」も楽しめたが、オースターの小説としてはいずれも話がいささか込み入り過ぎた印象があった。特に後者においてはオースターが得意とする劇中劇ならぬ小説内小説があまりにも錯綜していた気がする。『闇の中の男』もまた小説の中で別の小説が語られる。しかし次に述べるとおり、物語相互の審級は容易に区別されて、説話の構造は比較的単純だ。そしてこの小説にはオースターの新しい境地が認められる。「エレガントな前衛」という呼び名のとおり、これまでオースターの小説の多くはニューヨークが舞台であっても強い寓意性と抽象性を帯びていた。しかしこの小説においてオースターは現実の事件と深く切り結ぶ。発表の時期を考えるならば、それが9・11、同時多発テロやイラク戦争であることに不思議はない。本書がオースターの小説としては珍しく不穏さや暴力性を秘めていることはこの点と関わっているだろう。今回も多少内容にも立ち入りながら論じる。
 物語はタイトルどおり「闇の中の男」のイメージから始まる。闇の中で不眠に苦しむ男。家の中には娘と孫娘がいると記され、それぞれの年齢も記されているから、この男が年配であることも理解される。娘のミリアムは5年にわたって独り身で、孫娘のカーチャは最近タイタスという夫を失い、壊れた心を抱えていることが冒頭で語られる。これまでオースターのいくつかの小説に認められた父と子という主題に代わって、本書では父と娘、そして孫娘の関係が物語の一つの軸を形作っている。ここでは主人公の男に名前が与えられず、タイトルが定冠詞や不定冠詞を伴わぬ Man in the Dark である点にも注意を喚起しておこう。いうまでもなくこれは闇の中の男が固有名をもつ誰かではなく、端的に人類を象徴していることを意味している。無明の中にある人類。闇の中の男は自分に向かって物語を語り始める。(正確に述べるならば、闇の中の男は男をめぐる物語ではなく、男が語る物語によって小説の中盤で名前を与えられる。オースターらしい技巧だ)冒頭で読者は次のような言葉に出会う。「私は男を穴の中に入れた。これは悪くない出だしに思えた。話を動かしはじめる上で、有望な設定ではあるまいか」このパッセージを見落とさなければ、物語の構造を理解することは容易だ。すなわち物語の中で語られる物語は、眠れない男が闇の中で紡ぐ「穴の中の男」の物語であり、実際にこの数行後で、穴の中に横たわって雲のない夜空を見上げる男の物語が始められる。男の名はオーエン・ブリック、男は自分がクイーンズに住み、手品を生業とする30歳の男であること、フローラという女性と結婚していることも知っている。しかしブリックが穴の中に佇む世界は私たちが知り、彼もまたなじんできた世界とは異なっている。ブリックは直ちにニューヨーク郊外を舞台とする内戦の中に巻き込まれ、トーバック軍曹なる上官から「戦争を所有している男」を殺害することを命じられる。ブリックはこの世界の中でもうひとつの歴史と出会う。ブリックが生きるのは2007年の世界であるが、そこでは世界貿易センターが破壊された同時多発テロは存在せず、イラクではなくアメリカ国内を戦場として戦闘が続けられている。ブリックは独立州連合の側に加わり、彼らの敵、連邦軍の大統領の名はジョージ・W・ブッシュ。この小説の中に凶々しく書きつけられる唯一の固有名、かつての合衆国大統領の名はブッシュ・ジュニアに対するオースターの強い反感を暗示している。あとがきによればオースターにとって9・11以上に、その前年、共和党が勝利を「盗んだ」大統領選への憤りがこの小説の出発点にあったという。一つのカタストロフィーに対する考えうる限り最も愚かな対応、この点で二人の二世政治家、ブッシュ・ジュニアと現在の日本の首相もまたみごとな相似形を描いていることも指摘しておきたい。
 小説に戻ろう。これ以降、物語は「私」と「男」の間を往還する。二つの世界を往還する物語の形式は今日さほど珍しいものではない。それどころかエリクソンから村上春樹まで、私のお気に入りの作家がよく用いる手法だ。「闇の中の男」、名をもたない男は孫娘と毎日映画を観て、感想を話し合う。オースターと映画との親和はこれまでも指摘され、「幻影の書」では失われたフィルムが小説の主題になっていたことは既に論じたとおりだ。本書においても「大いなる幻影」「自転車泥棒」「大樹のうた」、そしてとりわけ「東京物語」について二人は語り合う。最初の三本を立て続けに見た後、カーチャは映画について鋭い洞察を加える。「人間の感情を表現する手段としての、命なき事物たち。それが映画の言語なのよ。そのやり方を理解しているのはすぐれた監督だけだけど、ルノワール、デシーカ、レイとなったら最高の三人だものね」彼女はこれらの映画に登場するシーツや洗い物の皿、ヘアピンがいかに映画の言語として魅力的であるかを語る。命なき事物たちの語り、例えば「ムーン・パレス」における伯父の蔵書、「偶然の音楽」における石の壁。私は同様の原理がいくつかのオースターの小説にも用いられていることに気づく。カーチャの洞察は一個の小説論としても成立しうるだろう。そして二人が映画を観ることにはもう一つの意味があった。とりわけカーチャにとって映画を観ることは、それによって別の映像を消してしまう意味があったのだ。このことを知った時、私たちは「命なき事物たち」、une nature morte という言葉に込められたもう一つの残酷な含意を理解する。このあたりの構成の巧みさはさすがオースターである。「闇の中の男」の語りは一種の意識の流れであり、彼は孫娘と会話を交わす以外にはほとんど行為することがない。彼は亡くなった妻ソーニャを回想し、第二次世界大戦下でのユダヤ人をめぐるエピソードをたどり、「穴の中の男」の物語を語り続ける。
 穴の中の男、オーエン・ブリックは軍曹の指示に従って内戦下のアメリカをウェリントンという街に向かう。破壊された街の中でブリックはモリーというウエイトレスやハイスクール時代の憧れの女の子、ヴァージニア・プレーンと出会う。オーエンがたどる奇妙な道行きはオースターの小説を読み慣れた者にとってはおなじみだ。ところで私は最近のアメリカ映画にこの小説と似た構造がしばしば認められことに興味をもった。例えばアルフォンソ・キュアロンの「トゥモロー・ワールド」(2006)あるいはマーク・フォスターの「ワールド・ウォーZ」(2013)、ほかにもいくつも例を挙げることができるが、これらのフィルムに共通する特質は、一つには近未来における内戦状況が描かれていること、そして登場人物たちは突然このような状況に投げ込まれ、物語の背景というか状況の説明がほとんどなされないことである。今世紀に入ってこのような内容のフィルムが次々に発表された理由は明らかだ。何の理由もなく、突然に内戦状態に巻き込まれる経験、それは明らかに9・11の同時多発テロの暗喩だ。かつては戦争には原因があり、宣戦通告があり、戦場と銃後があった。しかし今日の戦争は日常と戦時、兵士と市民、戦地と都市が地続きの中で継起するのだ。それは2001年のニューヨークだけではない。イラク、アフガニスタン、パキスタン、同時多発テロをさらに徹底するかのようにこれらの国においてアメリカ軍が理由のない、宣戦布告のない、見境のない戦争を続け、9・11をはるかに超える市民と兵士の死者が発生していることを私たちは知っている。映画に戻るならば、ビンラディン暗殺を扱った「ゼロ・ダーク・サーティー」にこのような状況が描かれていることはこのブログでも論じたとおりだ。したがってこの小説は同時多発テロを起源としており、物語の中でブリックがモリーに「9月11日」、「世界貿易センター」といった言葉から何を連想するかを問うことは必然的といえよう。私たちは同時多発テロを主題としていくつかの小説が執筆されたことを知っており、そのうちの一つ、ドン・デリーロの「墜ちてゆく男」(「闇の中の男」と「墜ちてゆく男」は韻を踏むかのようだ)という優れた小説についてはすでにこのブログでレヴューした。オースターは同時多発テロの存在しなかった世界を描くことによって、逆説的に暴力に支配された世界を浮き彫りにする。ブリックの物語の最後にオースターは次のような言葉を書き付けているが、それは9・11以後の私たちの世界を象徴するかのようではないか。「戦争の物語。一瞬でも気を緩めたら、それらはすかさず押し寄せてくる、ひとつまたひとつまたひとつ…」
 ブリックの物語は暴力的に、かなり唐突に終わる。むしろ断ち切られるという印象だ。そしてこの小説は形式のみならず内容自体も二重化されており、ブリックをめぐる物語の結末は小説の最後で繰り返されることとなる。それはすかさず押し寄せてくる戦争の物語だ。オースターの小説でこれほどまでに戦争と暴力が前景化された例はない。おそらく9・11とそれへの報復としての同時多発テロ同様に正義のないイラクやアフガニスタンへの侵攻を経て、世界は変わってしまった。アウシュビッツの後で詩を書くことが野蛮であるように、2001年を経過したオースターはこのような小説しか書けなかったのであろう。今引いた言葉が発せられる直前で闇の中の男は次のように自問する。「そう終わるしかないのか、イエス、おそらくはイエス、これほど残酷でない結末を考えることは難しくはないが。でも何の意味がある? 私の今夜のテーマは戦争だ。戦争がこの家に入ってきたいま、衝撃を和らげたりしたらタイタスとカーチャへの侮辱だと思う」この問いが作者オースター自身に共有されていることに疑いの余地はない。この意味で本書はポスト9・11をテーマとした最良の表現の一つといえるだろう。
 そしてこの小説には救いがある。ブリックの物語が終わった後、新しい物語が始まる。闇の中の男はやはり眠れずにいる孫娘カーチャをベッドの中に招き入れて、今度は亡き妻、ソーニャの思い出を語る。老人と孫娘の対話としてつづられる二人のなれそめ、諍いと和解の物語は戦争と暴力とは対極の営みがこの世に存在することを静かに表明する。21世紀という「戦争が家に入ってくる時代」を生きる私たちにとって、それはささやかな物語である。しかしこの物語がカーチャを癒し、最後の場面の希望を導いたことも明らかである。この時代にあっても物語は闇の中の光となりうる。物語によって闇を照らす存在、闇の中の男とは私たちにこの物語を届けたオースターのことかもしれない。
by gravity97 | 2014-06-09 11:35 | 海外文学 | Comments(0)