白井聡『永続敗戦論』

b0138838_1041373.jpg 遅ればせながら話題となっている『永続敗戦論』を読む。世評に違わずきわめて刺激的な論考である。それは本書の中で全く新しい思考が開陳されるからでも、思考のパラダイム・チェンジがなされるからでもない。実際に白井が論じる問題の多くは既に多くの論者によって提起されているといってもよかろう。しかしそれにも関わらず本書が感動的な理由はこの年若い学者の文章に現実を前に立ちすくむことなくその因由を正面から問う気迫がうかがえるからだ。白井自身もあとがきに次のように記している。「いま必要なことは議論の目新しさではない、『真っ当な声』を一人でも多くの人が上げなければならない、という思いに駆られて私は本書の執筆に取り組んだ」私の経験に照らしても、おそらく現在ほど私たちが「真っ当な声」を上げることの無力感に苛まれる時代はかつてない。
 三章から成る本書の劈頭で「私らは侮辱のなかに生きている」という中野重治/大江健三郎の言葉が引かれることは当然であろう。2012年7月、脱原発集会で大江によって発せられたこの言葉は私たちの怒りを代弁している。私も今に至る自民党政権に対して怒りを覚えたことは数限りなくある。しかし少なくとも自分が侮辱されているという思いを抱いたことはなかった。震災を奇貨として「ショック・ドクトリン」を繰り広げる安倍政権の異様さはまさに異次元的といってよい。例えば冒頭で例示される原子力政策だ。国民の大多数が福島の惨劇の前に原子力というエネルギーへ拒絶反応を示しているにもかかわらず、再稼働はいうまでもなく外国へ原子力プラントを売り込もうという厚顔無恥な発想、これはもはや政治家としての人格の問題であるように感じられるが、御用マスコミと官僚、御用学者の三位一体のもとにかかる不正義が大手をふるい、民意が反映されることはない。私たちはいつからかかる絶望的な状況の中に閉じ込められてしまったのか。白井も震災以後の状況の異様さを認識している。最初に白井はかかる状況を「『戦後』の終わり」と規定し、その特性を次のように粗描する。長くなるがそのまま引用する。

 今日の日本社会が「本音モード」に入ってきたとは、こうした「否認の構造」が急速に崩壊しつつあることを指している。社会は「本当は知っていたけれども建前上口に出すのを憚ってきた本当のこと」を次々と語り出している。それはある意味で当然のことではある。原発事故を契機としてこの国の社会・権力の地金がはっきりと露呈してしまった以上、いまや曖昧なかたちで隠されたままにとどめられるべき事柄など存在しない。それは、卑劣漢であることがバレた卑劣漢が卑劣な振る舞いを躊躇う理由はないのと同じことだ。

 もちろん本書においてこのような認識は次に述べる「永続敗戦」という問題と関連して論じられる。しかし私はこのような状況は震災以前より新自由主義の台頭と軌を一にしていたように思われる。利潤と効率を唯一の価値と奉じて、格差や不公平を肯定する感情はリーマン・ショック以後、この国を蝕み、教育や医療、文化といった領域にも広がりつつある。社会自体がディーセンシーを失いつつある状況を震災、とりわけ原子力災害をめぐる当事者たちの見苦しいふるまいが加速させたように感じるのは私だけだろうか。
 本書に戻ろう。白井のいう「本音モード」とは現在の日本において、「戦後」という歴史感覚の欺瞞性がもはや隠蔽できないまでに揺らいでいることを暗示しているだろう。私たちは長い間、第二次世界大戦の「戦後」を生きてきた。しかしかかる「戦後」の本質とは何であったのか。白井によればそれは「終戦」という言葉を用いることによって、「敗戦」を否認することであり、「敗戦後」は存在しないとみなすメンタリティーである。再び白井の言葉を引く。「敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は『永続敗戦』と呼ぶ」この議論が加藤典洋によって1995年に発表された「敗戦後論」と関連して論じられたことは私には興味深く読んだ。b0138838_106960.jpg私も「敗戦後論」をほぼリアルタイムで読んだ記憶があるが、なんとも晦渋というより不透明な印象を受けたことを覚えているし、実際に加藤の論文は当時批判的に受容された。しかし白井によれば加藤の議論の本質は、戦争放棄という平和憲法の理想主義が冷戦体制の存続と天皇制の護持という暴力ないし不正義を前提としているという歪みを指摘した点にある。多くの日本人が敗戦をなかったものとして「永続敗戦」を生きたのに対して、徹底的に敗戦に拘泥した作家として加藤/白井は大岡昇平を評価する。戦時中捕虜となったことを理由に芸術院会員への推挽を拒否した大岡の真意は昭和天皇に対して「恥を知れ」というメッセージを送ることであったという。私は本書を読んであらためて加藤の所論を明瞭に理解することができた。
 続く第二章において白井は今日、最もクリティカルな二つの政治問題と関連させて「永続敗戦」の力学を説明する。一つは領土問題である。白井は尖閣諸島、北方領土、竹島問題という中国、ロシア、韓国との領土をめぐる係争を個別に分析しながら、日本の立場がきわめて場当たり的である点を指摘する。ただしここではどちらの国の主張が正しいかを検証することが目的とされているのではない。白井の論証は逐条的な入り組んだものであり、詳細については直接読んでいただくしかないが(ただしこれらの領土問題が沖縄問題と実は密接な関係にあること点にはあらためて注意を喚起しておきたい)、アメリカに対しては敗戦によって成立した従属構造を際限なく認めて永続化させる一方で、これらの国々に対する居丈高な態度はアジアに対して「敗北の否認」を持続させるという心性を反映している。そしてこのようなメンタリティーを象徴するのが、アメリカの右派シンクタンク、ヘリテージ財団という場で尖閣諸島購入を得意げに記者発表する「卑小なナショナリスト」、石原慎太郎のごとき存在である。そしてもう一つは北朝鮮問題だ。2002年、小泉首相は電撃訪朝し、以後、拉致問題を理由として強圧的にこの国と対峙してきた。しかし実はこれ以前、日本政府のプライオリティはむしろ国交正常化や核兵器問題にあった。かかる転換の理由、日本において拉致問題がことさらに重視された理由として(それが非人間的な蛮行であることは間違いない。しかし拉致被害者は日本だけでないのだ)、白井はこの問題がアジアに対する日本の立場を加害者から被害者へと転換させ、それゆえ永続敗戦の根幹をなす敗戦の否定という心情と親和したと指摘する。アメリカには従属しながら、アジアに対しては敗戦を否定するロジック、これこそが「永続敗戦」であり、この意味で「拉致問題に関して小泉首相から下駄を預けられた」現在の首相が、「憲法九条がなければ、拉致被害者を守ることができたかもしれない」といった妄言を繰り返す一方で、中国や韓国にも挑発的な言動をとり続けることは一貫した態度といえる。(ただし安倍政権がアメリカに従属どころか、今や見捨てられつつあることは最近の情勢が物語るとおりだ)
 本書の第三章は「戦後の『国体』としての永続敗戦」という表題をもつ。国体という言葉から直ちに連想されるのは天皇制である。先に大岡昇平に関連して触れたとおり、天皇制もまた本書の主題と深く関わっている。これもまた相当に入り組んだ議論であり、本書を直接参照していただくことが望ましいが、私の問題意識に引き寄せていくつかの点を指摘しておきたい。ひとまずこの問題について白井は次のように約言している。「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は永続敗戦である。永続敗戦とは『戦後の国体』であると言ってもよい」ついで白井は天皇機関説、あるいは久野収と鶴見俊輔の所論を手がかりに天皇制=国体の二重性について論じる。このような二重性は「永続敗戦」にも内在している。すなわち大衆レヴェルでは敗戦を否認し、その根拠として戦後日本の「平和と繁栄」を顕揚する。(ただしこの平和と繁栄も単に地政学的な偶然の結果であることも白井は指摘している)一方、指導層においては無制限かつ恒久的な対米従属を続けることである。白井は自民党の有力政治家たちの言動を負いながらきわめて逆説的なかたちでこのような心性を検証する。すなわち何人もの政治家によって言葉を変えて繰り返される「戦後」の総決算というスローガンは、逆にそれが永遠に実現しないこと、対米従属を永続させたいとする志向を暗示しているというのだ。本人たちに自覚があったか否かはともかく、反米を唱えつつアメリカに追従すること、それがきわめて高度な政治的テクニックであることに疑いの余地はない。しかし安倍政権にいたっては「屈従していることを自覚できないほど、敗戦を内面化」したため、かつては大衆レヴェルにおいて機能していた敗戦否認という心理の刷り込みが、政権内部において「抑えのきかない夜郎自大のナショナリズムとして現象し」、今やアメリカも日本を見放しつつある。このような状況を白井が「戦後の終わり」とみなし、第一章で詳しく論じたことは既に述べたとおりだ。さて、ここで白井は片山杜秀を引用しながら、国体の本質について次のような重要な指摘を行う。「里見(岸雄)は水戸学や『国体の本義』が声高らかには決して謳わず、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心とでも言うべきものを赤裸々に抽出してみせた。端的に言えば犠牲を強いるシステムとしての国体である」犠牲を強いるシステムという言葉から私が直ちに連想したのは、このブログでも応接した高橋哲哉の『犠牲のシステム 福島・沖縄』である。今回確認したところ本書のはるか以前に刊行された高橋の論考に片山杜秀や里見岸雄への参照はみられないから、「犠牲のシステム」という言葉は偶然の一致であろうが、この暗合は大いに示唆的だ。国体たる天皇制が戦前はおろか戦後も犠牲を強いるシステムであったことについて、白井は豊下楢彦の実証的な研究を援用する。それによればサンフランシスコ講和条約と同時に調印された不平等条約、日米安全保障条約において米軍の駐留を要請したのはアメリカではなく日本であり、驚くべきことに昭和天皇自身が共産主義勢力の侵入と国内での蜂起によって自らの立場が危うくなることを恐れて、時に吉田茂やマッカーサーをも飛び越えてアメリカの当局にかけあったという。この過程で沖縄は捨石とされ、結果として米軍基地によって要塞化されたことについては今挙げた高橋哲哉の論文でも明確に指摘されていた。高橋は「犠牲のシステム」を次のように定義していた。「犠牲のシステムでは或る者(たち)の利益が、他のもの(たち)の生活(生命、健康、日常、財産、尊厳、希望等々)を犠牲にして生み出され、維持される。犠牲にする者の利益は、犠牲にされるものの犠牲なしには生み出されないし、維持されない。この犠牲は、通常隠されているか、共同体(国会、国民、社会、企業等々)にとっての『尊い犠牲』として美化、正当化されている」今日、「犠牲にされるもの」として福島と沖縄を名指しする時、高橋の主張はわかりやすい。そしてこの一節を白井の論考に重ね合わせるならば、戦後の日本社会は「永続敗戦」という国体を護持するために、犠牲のシステムという機制を内面化していることが理解されよう。今日、多くの政治家たちの言葉の端々に国民に犠牲を強いることを恬として恥じない心性が感じられることは何の不思議もない。
 しかし今や私たちは新しい段階、「戦後」の終わりに際会している。歴代の自民党政権の「永続敗戦」の下でひとまず多くの国民は「平和と繁栄」を享受することができた。それが例えば沖縄の住民に「犠牲のシステム」を強いることによって成立したことは明らかであり、震災に伴う原子力災害が明らかにしたとおり、今や原子力発電所の所在地の住民は明日にでも新たな「犠牲のシステム」の中に組み込まれるかもしれない。それを認めたうえでもなおこれまでの政権が反米と対米従属、敗戦の否認という「永続敗戦」を続けたことによって、私たちは一種のパクス・アメリカーナの恩恵に浴し、かつては一億総中流化と呼ばれた時代さえあったのだ。しかし今やアメリカの権威は地に墜ち、国内では格差が助長される一方で排外主義と差別主義が大手を振っている。「永続敗戦」という私たちの戦後史に誇るべきものなど何もない。しかし今や「永続敗戦」どころか「卑劣漢であることがバレて、卑劣な振る舞いを躊躇うことのない卑劣漢たち」が政権の中枢を占め、私たちを支配しているのだ。本書の読後感はまことに暗澹たるものである。しかし私はあえてこのレヴューを草した。なぜか。本書のあとがきにも引用されたガンジーの言葉を記してその答えとする。

 「あなたがすることはほとんど無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためのである」

by gravity97 | 2014-06-01 10:13 | 思想・社会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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