『疎外と叛逆 ガルシア・マルケスとバルガス=リョサの対話』

b0138838_14444224.jpg 先日、ガルシア・マルケスの訃報が届いた。87歳というから天寿を全うしたといえなくもないが、20世紀文学の巨人がもはや筆を執ることがないことは惜しまれる。さいわいマルケスに関しては数年前に新潮社から全集が刊行され、このブログでもレヴューした自伝『生きて、語り伝える』も日本語で読むことができる。(ただしこの自伝で扱われる時期はヨーロッパ滞在の直前、「百年の孤独」が出版されるはるか以前である。果たして続編は執筆されていたのであろうか)また先日、書店で新刊としてマルケスの講演録が刊行されているのを見かけたから、日本でもこの作家の全体像に触れることは比較的容易である。ガルシア・マルケスとラテンアメリカ文学のもう一人の巨人、マリオ・バルガス=リョサ(本書ではジョサと表記されているが、邦訳の多くでリョサと表記され、このブログでもリョサと表記してきたため、これを踏襲する)の間で交わされた1967年の二つの対話をメインに、リョサによるマルケス論、リョサへのインタヴューといったやや雑多な四編のテクストを寄せ集めて、偶然にもマルケスが没する直前に刊行された本書は短いものであるが、それなりに興味深い内容だ。
 本書の中心をなすマルケスとリョサの対談が実現した経緯については冒頭に説明がある。それによれば1967年9月、ペルーの国立工科大学が傑作『百年の孤独』を刊行した直後のコロンビアの作家ガルシア・マルケスをリマに招待した。ちょうど同じ時期にやはりラテンアメリカ文学屈指の名作『緑の家』を刊行してまもない(『緑の家』は1966年発行)ペルーの作家、リョサも休暇のためにリマに滞在していた。この機を逃さず国立工科大学は二人の対話を計画した。対話は9月5日、マルケスをゲスト、リョサを聞き手とする公開質問のかたちで行われたが、二人は時に攻守を替えて楽しそうに対談を続けた。満員の聴衆を前に実現したこの公開対談は一度では終わらず、二日後に第二部が開かれた。本書に収められた対話が二部に分かれていることはこの理由による。対話の記録は翌年、リマのミジャ・パトレス社から「書籍というよりはパンフレットのようなかたち」で出版されたが、それ以降再版、あるいは他書に収録されたことがなく、現在では完全に幻の書となっていると訳者があとがきに記している。内容に鑑みてもこのような第一級の資料が日本語で読めることはありがたい。
b0138838_1449810.jpg なんといっても1967年という時間が特権的だ。『百年の孤独』が発行されたのがこの年の5月であるから、おそらく大きな反響を読んでいる渦中で催された対話であったはずだ。片や、リョサも「ロムロ・ガジェゴス賞」を受けた『緑の家』を前年に発表していたから二人の作家が今日代表作とみなされる傑作を発表した直後に行われた訳である。この二つの小説は私も個人的に思い入れがある。大学に入って初めてラテンアメリカ文学に触れて大きな衝撃を受けたのであるが、その際、まず続けざまに読んだのがこの二つの小説だったのだ。懐かしい早川良雄デザインの新潮社版を図版として掲げる。マルケスは1927年生まれ、リョサは1936年生まれであるから、マルケスが一回り年長であり、リョサがホスト役を務めたのは当然であろう。二人が会うのはこれが二回目であったが、二人はずいぶん打ち解けた親密さで語り合い、短いテクストながらいくつもの興味深い発言が認められる。先ほど二人の出身国について触れた。二人はラテンアメリカ文学の巨人として認識されているが、必ずしもコロンビアとペルーという地域と結びつけられないだろう。二人の特殊な閲歴がこれと関わっている。すなわちともに国外での生活が長いのだ。マルケスは1955年に新聞社の特派員としてローマに派遣され、その後、パリでも生活した。1961年にはメキシコに渡り、『百年の孤独』はメキシコシティーで執筆された。リョサも1958年よりスペインの大学で学び、卒業後はパリのAFPなどで働き、最終的にペルーに帰国したのは1974年のことであった。パリでマルケスとリョサが同じホテルに滞在していたという有名なエピソードがあるが、あとがきによればこれは事実ではないらしい。しかし二人はこの対話が行われた数年後、バルセロナに滞在して家族を含めて親交があった。この点については後で触れるとして、ここでは二人がそれぞれの代表作をいわば流謫の地で執筆したことに注意を喚起しておきたい。『百年の孤独』といい『緑の家』といい、私たちはラテンアメリカの世界を濃厚に反映した作品として理解しているが、いずれも主要な部分はメキシコとフランスという異国の地で書き継がれた。この点は対話の中で否定的に論じられるボルヘスと比較する時、興味深い。英語の教育を受け、ジュネーブで学んだアルゼンチン生まれのボルヘスもまた外国の滞在が長く、コスモポリタンとして知られる。しかしボルヘスの作品は徹底的に無国籍的、抽象的、人工的だ。マルケスは次のように述べる。「私にとってボルヘスは逃避の文学です。私はかつても今もボルヘスをよく読みますが、まったく好きな作家ではありません。ボルヘスを読むのは、彼が傑出した言語能力を備えているからです」ボルヘスが多用する迷宮、円環、鏡といったモティーフはむしろ古典文学以来のヨーロッパ文学と通底し、高踏的で理知的に過ぎる。ほかのラテンアメリカ文学の傍らに置くとき、ボルヘスの特異性は容易に理解されよう。しかし例えばマルケス、リョサ、フェンテス、カルペンティエール、あるいはコルタサル、これらのラテンアメリカ文学の共通点は何か。リョサの問いに対してマルケスは、多様性こそが共通点であると答える。はぐらかしたような答えであるが、ずいぶんたくさんのラテンアメリカの小説を読んだ者として、私もマルケスに同意する。しかしこのような多様性はラテンアメリカにおいて初めて可能であったのではなかろうか。四番目に収められたリョサへのインタヴューはエレナ・ポニアトウスカというメキシコの女性作家の手により、インティメイトな雰囲気にあふれた魅力的な内容であるが、この中でリョサはペルーアマゾンの民族学調査に随行し、原住民の生活に触れた際の衝撃が『緑の家』を執筆した動機であったと述べている。「ペルー国内の文化的、人種的、歴史的、社会的格差には恐ろしいものがある」密林の中の修道院、砂漠の町、娼館といった全く異なった場所が交錯する『緑の家』の手法はリョサの多くの小説でも取り入れられているが、かかる併置の手法は密林と都会、古代と現代、蒙昧と科学が切れ目なく存在するラテンアメリカというトポスにおいてはきわめてリアルに感じられたであろう。私はこのような発想から、ロバート・ラウシェンバーグの次の言葉を連想した。「私はある区画に40階建のビルがあるかと思えば、その隣に小さな掘っ立て小屋があるといった都会にいることにエキサイトメントを感じたのである。そこには田舎では見出せないような事物の非合理な併存がある。私はちょうどヨーロッパを旅行してきたばかりだが、そこではこのようなものは見出せなかった」ラウシェンバーグの言葉が後にコンバイン絵画として結実することはいうまでもないが、このような異質の併置はラウシェンバーグも指摘するとおり、ヨーロッパではありえない。自然あるいは未開の中に文明が切り貼りされたアメリカ大陸においてのみ可能な発想であったかもしれない。そしてラテンアメリカ文学におけるアングロアメリカ性を考えるにあたって、もう一つの参照項はフォークナーであろう。実際に二人の対談の中でもフォークナーがしばしば言及される。二人は現在のラテンアメリカの作家たちに影響を与えたのは先行するラテンアメリカの作家ではなくフォークナーである点で一致し、フォークナーのおかげで世代が入れ替わったとさえ述べる。マルケスは次のように語る。「フォークナーの作法はラテンアメリカの現実を語るには非常に有効です。(中略)つまり、ラテンアメリカの現実を前にして、これを小説として語ろうとすると、ヨーロッパ作家の手法やスペイン古典文学の手法では歯が立たない訳です。そこにフォークナーが現れて、その現実を語るのにうってつけの手法を見せてくれる。ヨクナパトーファ郡の河岸がカリブ海と繋がっていることを考えれば、実はこれもさほど不思議な話ではないのでしょう。ある意味フォークナーはカリブの作家であり、ラテンアメリカの作家なのかもしれませんね」フォークナーと魔術的リアリズムとは不思議な取り合わせであるが、マルケスとリョサの小説を連想するならば、両者が矛盾なく溶け合っていることはたやすく理解できる。
 先に記したとおり、この対話は1967年に交わされた。この二年後にリョサが執筆したマルケス論が三番目に収録された「アラカタカからマコンドへ」である。67年の対話の中に認められるマルケスへの敬意はこのテクストの中にも明らかであり、初期の作品についても触れながら「百年の孤独」の圧倒的な達成について語られる。最後に収められたリョサのインタヴューも発表の時期は69年であるが、主として63年に発表されたリョサの出世作「都会と犬ども」が話題とされ、会話の中に「『緑の家』はもう完成したの」という問いかけがあることからもわかるとおり、実際のインタヴューは65年に行われている。これらのテクストは60年代後半、ラテンアメリカ文学が世界的に注目を浴び、「ブーム」を引き起こす直前、いわばラテンアメリカ文学の青春の記録として今読んでもみずみずしい。ラテンアメリカは彼ら二人以外にも多くの重要な作家を輩出したが、いわゆるブームの作家たちの中でノーベル文学賞を受賞したのはこの二人だけであり、この点も影響しているのであろうが、とりわけ日本語における紹介という点でマルケスとリョサは双璧といってよい。私もこの二人についてはマルケスについては2004年の「わが悲しき娼婦たちの思い出」、リョサに関しては2006年の「悪い娘の悪戯」にいたるまで邦訳された代表作をこれまでにほぼ読み通している。しかし両者の関係はこの後、不穏な変調をたどる。このあたりの事情を私は「失われた友情」と題された本書のあとがきで初めて知った。
 76年2月というから、この対談からほぼ10年後、メキシコシティーにおけるある映画の試写会の会場で二人は再会する。時期としてはマルケスが独裁者を主題とした傑作『族長の秋』を発表した翌年にあたる。久しぶりの再会に両手を広げて近寄って来たマルケスに対して、リョサはなんと顔面にパンチを浴びせ、倒れたマルケスを残して妻と共に立ち去ったという。彼らの小説の一場面のようなマッチョなエピソードであるが、彼らの仲違いの原因については二人とも口を閉ざしている。あとがきによれば、キューバのカストロに対して常に寛容なマルケスと、批判的なリョサの立場の違い、あるいはマルケスがことさらに装う偽悪的、嘲笑的な態度への反発に起因するのではないかとのことであるが、今日にいたるまで真相は定かではない。以前私はこのブログでホセ・ドノソの『隣りの庭』を取り上げ、ドノソがマルケスとリョサを含む実在の作家たちへの羨望の念を表明していることに触れた。実はある時期、ドノソを含むラテンアメリカの作家たちの多くは『隣りの庭』の舞台となったバルセロナに居住し、マルケスとリョサにいたっては「角を曲がったところ」に住む隣組だったという。1970年の年末、バルセロナのルイス・ゴイティソロ邸で催されたパーティーにはマルケス夫妻、リョサ夫妻、ドノソ夫妻、コルタサルとその恋人が集ったという。まもなくカルロス・フェンテス夫妻もバルセロナに到着しているから、70年代前半のバルセロナにはラテンアメリカ文学の立役者が揃っていたこととなる。当時、マルケスとリョサの関係が良好であったことは多くの証言が残されているから、76年の決裂の原因はいまだに謎といってよかろう。これ以後、両者の関係は修復されることなく、マルケスが没した今となっては、この二人の巨人の晩年の不和はなんとも残念に思われる。なぜならばリョサはまさに1971年という時点で『ガルシア・マルケス 神殺しの物語』というマルケス論を上梓しているのである。本書に収められた「アラカタカからマコンドへ」はこれに先立つ論文であるが、量質ともに「神殺しの物語」はこれをはるかに凌ぐ。しかし76年の決裂の後、この決定的なマルケス論はリョサの全集にこそ収められたが単行本として再刊されることはなく、当然ながら今後、翻訳が認められる可能性もないという。本書によって短いながらも的確なリョサによるマルケス論に親しんだ者であれば、かかる不在はなんとも残念に感じられる。いつの日かこの封印が解かれることを願って、さらにいえばドノソの『別荘』やフェンテスの『われらの大地』といった傑作の呼び声が高い未訳の長編を日本語で読むことができる日が遠からず来ることを願いつつ、ラテンアメリカ文学の一愛読者として筆を擱くこととする。

by gravity97 | 2014-05-25 14:52 | 海外文学 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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