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優雅な生活が最高の復讐である

井上光晴『西海原子力発電所』

b0138838_11213384.jpg 書店で新刊を確認していると、講談社文芸文庫から井上光晴の『西海原子力発電所|輸送』が刊行されていることを知った。思わず自分の不明を恥じる。原子力災害を経験し、このブログで何度もこの問題について論じながら、私はこの二つの小説について全く失念していた。1986年と88年に発表されたこれら二つの小説を私はリアルタイムで読み、いずれも単行本を所持している。執筆された年代から推測されるとおり、これら二つの小説は直接にはチェルノブイリ原子力発電所事故を反映している。実際に井上は『輸送』のあとがきに次のように記している。「小説『西海原子力発電所』の執筆中、チェルノブイリ原発の爆発に直面して、私は急遽テーマを改変したが、今になって思えば、構想した通り、西海原子力発電所の原子炉事故によってこの上もなく汚染されて行く町や港の状況を克明に描写ればよかったのである」西海原子力発電所が佐賀県の玄海原子力発電所を暗示していることはいうまでもない。実際に原子炉事故を体験した私たちには、井上の想像力をもってしても現在のフクシマの惨状を予測しえたかという思いもある一方で、原子力災害から三年が経過し、あまりにも酷い現実はもはやノンフィクションではなく小説によってしか応接できない域に達しているとも感じる。私は直ちに書庫からこれら二つの中編小説を取り出して再読した。先に私は今回の震災と原子力災害の結果、東北地方が国家から見捨てられることを30年以上前に予見した西村寿行のパニック小説について論じた。今引用したとおり、井上は原子炉事故そのものを小説の主題とすることをあえて避けた。(「輸送」ではタイトルが暗示するとおり、核物質の運搬事故によって引き起こされた原子力災害が描かれている)しかしいずれの小説も原子力発電所の本質である差別と非人間性をみごとに主題化してきわめて今日的であり、私はあらためて井上の作家としての感覚の鋭さに脱帽する。今回は物語の内容にも立ち入りながら論じる。
 新しいテーマが扱われているからといって、井上の小説が一新された訳ではない。それどころか本書の幕開けに私は強い既視感を感じた。忌まわしい不審火の原因について人々が口々にあらぬ妄想を口走る冒頭は「西海原子力発電所」の20年前に発表された「赤い手毬」という短編と同一といってよい。物語の舞台はいつもどおり九州西部の荒廃した漁村であり、無人となった炭鉱住宅、マルタンと呼ばれる炭鉱離職者たち、廃坑地域に跋扈する新興宗教といった道具立ては井上の小説で見慣れたモティーフばかりだ。さらに物語の中で重要な役割を果たす廃坑地域を巡業する旅芸人の一座も「ミスター夏夫一座」をはじめとする井上の多くのマルタン小説に登場する。
 焼け跡からは二人の焼死体が見つかる。一人は原子力発電所で勤務中に被曝し、その後精神に変調をきたして自殺した作業員を夫にもつ水木品子、もう一人は原子力発電所で特殊な仕事に従事していると噂される名郷秀次という男である。名郷は親愛会という新興宗教にも関わっており、やはり親愛会に入信している妻をもつ魚市場の主任、小出は独自にこの事件の真相を調べ始める。この過程で登場人物の関係が次第に浮かび上がる。水木品子は夫の死後、自らも精神を病み、放射能の影響で動物の奇形や住民の健康への障害が発生しているという妄言を公然と繰り返していた。寡婦となった水木のもとに愛人然と通っていたのが、この地域を巡業する有明座という旅芸人の一座の役者、浦上耕太郎であり、長崎で被爆した経験のある座長、浦上新五が主宰するこの一座は一連の反原爆・反原発の芝居を主たる演目としていた。一方、名郷は原子力発電所で反原発運動を切り崩す仕事に従事していたことが明らかとなる。水木品子の葬儀に水木と親交があったという二宮ソノ江という女性が出席し、席上で水木は殺されたと主張する。二宮は浦上耕太郎と名郷が知り合いであることも暴露するが、浦上は否定する。火事は謀殺か痴情のもつれか、そもそもなぜ火災の現場に名郷がいたのか。手法を重視する井上の小説らしく、この中編も重層的な構造をとる。物語はしばしば小出に焦点化しながら進行するが、ほかにも複数の視点が交錯し、物語は一人の話者に収斂することがない。さらに物語にはレヴェルの異なるいくつものテクストが混在している。「プルトニウムの秋」という芝居の台本、登場人物の一人が書いた手紙、電気事業連合会が発行するPR誌の記事、アメリカ原子力協会が発行した「核燃料と廃棄物」という核物質輸送マニュアル、このうち「プルトニウムの秋」は実際に井上がこの小説に先立って発表した戯曲らしいが、私は未読である。後の二つも現実に存在する記事とマニュアルであろう。かくして物語という虚構の中に巧みに現実が導入される。そして電力会社が地域の家族の構成員や思想傾向まで個人レヴェルで情報収集しているという噂、あるいは反原発の芝居を上演する劇団に対し、旅費や遊興費は電力会社の負担でアメリカの演劇を視察してこないかと籠絡を試みる場面なども、福島の事故と関連した多くのノンフィクションを読んだ今となっては単なる作家の創作とは感じられない。
 井上は「地の群れ」以来、差別の重層構造という主題に一貫して取り組んできた。「地の群れ」においては被差別部落と被爆者部落というともに差別される集団相互の憎悪を介して差別が再生産される状況が仮借ない筆致で描かれていたが、原子力発電所ほど差別が重層的に構造化されている場所はほかに例がないだろう。東京電力を頂点に下請け、孫請けときわめて入り組んだピラミッド体制が敷かれていることは知られているとおりである。小説中に挿入される「プルトニウムの秋」の中では作業で被曝したことを申請するために就業していたことを証明してほしいと懇願する作業員を発電所の技師が玄関払いするエピソードが語られる。しかし原子力発電所が生み出す差別は就業者間で発生するのみではない。さらに深刻な差別は被害者である被曝者に向けられる。被爆した夫が自殺した後、水木品子は近いうちに西海原子力発電所で事故が発生して近隣の住民が犬か猫のような顔になると触れ回る。被曝者に対する差別のステレオタイプといえようが、福島の原子力災害の後、福島県の若い女性が自らの出身地を隠そうとする事実を知る私たちに水木を笑う資格はない。このように考えるならば、核兵器と原子力発電の同質性もまた明らかとなる。両者はいずれも差別を生産し、共同体を破壊する。かつて私はこのブログで集英社の「戦争×文学」のうちの一巻、「ヒロシマ・ナガサキ」を論じたことがある。そこには広島と長崎の被爆体験と並んで、一編のみ原子力発電所と関わる作品が収められていた。水上勉の「金槌の話」である。しかし水上の小説はどちらかといえば暗示的で寓意的であった。最初に触れた講談社文芸文庫版の井上の新刊の解説を担当しているのが、「ヒロシマ・ナガサキ」に解説を寄せている成田龍一であることは偶然ではない。おそらく「西海原子力発電所」もこのアンソロジーの中に収められるべきであり、それが可能であれば被爆/被曝の連綿たる歴史が日本の戦後史の裏面をかたちづくってきたことはより明確になったであろう。
 今、私は井上の作品において被爆/被曝という主題の連続性が認められることを指摘した。さらに私はもう一つの主題にも注目したい。それは石炭から原子力というエネルギーの転換に関わっている。知られているとおり、井上は「階級」や「妊婦たちの明日」といった多くの小説で廃坑地域における人心の荒廃を描いた。戦時中、炭鉱では徴用された多くの朝鮮人によって石炭が採掘され、戦後もエネルギーの基幹として多くの炭鉱が栄えた。しかし石炭から石油へというエネルギー・シフトの中で多くの炭鉱が閉山に追い込まれ、大量の炭鉱離職者が発生し、共同体が崩壊していった。かかる背景を想起するならば、廃坑と原子力発電所という小説の主題の選択は現実と完全に平仄が合っている。そして実際に福島においてかかる転換は常磐炭田から福島原発へ労働力の転入を引き起こしたのであり、さらにいえば廃坑によって一つの共同体が荒廃し、崩壊していったように(長崎の軍艦島を想起するとわかりやすい)、原子力災害によって近隣の住民が故郷を追われ、結果として共同体が破壊されつつある状況を私たちは今まさに目撃している。炭鉱と原子力発電所、戦後の日本におけるエネルギーの基幹はいずれも資本によって一方的に支配され、想像を絶する峻烈な差別構造によってかろうじて成立していたという事実を井上の小説は明らかにする。さらに「地の群れ」「手の家」「明日」といった長崎の被爆を主題にした一連の小説を想起するならば、井上が生涯にわたって戦時における核兵器、平時におけるエネルギー問題という相互に密接に関連し、しかもともに差別の再生産と深く関わる主題を扱ってきたことが理解されるだろう。
 物語の終盤でもう一つの問題が浮上する。有明座を主宰する浦上新五はかつて長崎で被爆し、この経験によって有明座の前身となる「原子爆弾専門」の浦上座を旗揚げした。しかし水木品子との関係を詰問する新五に対して、浦上耕太郎は原爆が投下された当日、新五は長崎市内にいなかったのではないかと問い、新五の原爆体験は偽物であると糾弾する。これに対して新五は当日ではなく三日後に救援隊として長崎に入ったことを認めながら、自分の立場は被爆者となんら変わるものではないと反論する。ここでは被爆体験が何によって担保されるかという点が問われている。さらにほかの劇団員も同様に被爆を詐称していたことが判明し、反核兵器という一座の存在意義が問われる。体験の詐称はこれに留まらず、浦上耕太郎自身が自ら語っていた/騙っていた幼時の被爆という経歴が、胎内被爆したもう一人の耕太郎の愛人によって虚偽であると断罪されるクライマックスへとつながっていく。ここでは何がフィクションを成立させるかという、井上が生涯をかけて追及してきた問題があらためて浮かび上がるとともに、私は以前見た原一男のフィルム「全身小説家」において、そもそもの井上自身が自らの経歴を虚構として提示していたといったエピソードを連想した。しかし私がここで論じたいのはこの問題ではない。浦上新五の原爆体験の真偽はまさに被爆/被曝という問題に関わるのではないかと考えるのだ。浦上のケースは今日、入市被爆と呼ばれている。すなわち原爆投下後、救援もしくは肉親捜しなどのために広島や長崎に入った者が残留する放射能によって被曝し、放射能障害に苦しむこととなった。これについては先に触れた「戦争×文学」の「ヒロシマ、ナガサキ」の巻でいくつかの小説や戯曲の中で描写されていたことが想起される。原子爆弾の高熱や破壊による直接の被爆ではなく、残留放射能による被曝。それは現在の福島の警戒区域と重なり、実際に福島の原子力災害の後で入市被曝の問題が再びクローズアップされたことは記憶に新しい。今回はあえて論及しなかったが、もうひとつの小説「輸送」において、西海原子力発電所から核物質を搬出するトレーラーが海中に転落する事故の後、事故現場に近接する孤島の老人施設で頻発する健康障害は明らかに入市被爆の症状を連想させる。したがって浦上新五は自身の体験をなんら隠す必要はなかったのだ。原子力災害における被曝がヒロシマ、ナガサキ同様に非人間的な災厄であることを私たちはかつてチェルノブイリで知り、今まさにフクシマで確認しつつある。長崎の原子爆弾と福島の原子力発電所は悪魔の双頭なのである。b0138838_11221577.jpg
by gravity97 | 2014-03-23 11:27 | 日本文学 | Comments(0)

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