西村寿行『蒼茫の大地、滅ぶ』

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 このブログはどちらかといえば高踏的な内容が中心であるから、今回、突然に一昔前のきわめて通俗的なパニック小説を取り上げることは不審に感じられるかもしれない。そもそもこの小説の一部の表現はフェミニズムを経由した私たちにとってあまりにマッチョで女性蔑視的であり、もはや時代錯誤的とさえ感じられる。しかしながら東日本大震災と福島における原子力災害から丸三年が経過しようとする現在、あらためて読み返すならば、この物語は荒唐無稽な内容にもかかわらず、今日きわめてアクチュアルであり、実に予言的であったことが理解される。
 この小説は『小説現代』に1977年から78年にかけて連載され、物語の舞台としても同時代が設定されている。1977年7月、航空自衛隊のレーダースクリーンに大陸から日本海を経て、日本に接近する巨大な影が写し出される場面から物語は始まる。巨大な影の正体は飛蝗、トノサマバッタの群れであった。飛蝗とは旧約聖書の出エジプト記にも記述があり、当時は三大災厄の一つとみなされていた。飛蝗は古代エジプトでは「神の罰」と呼ばれ、英語ではローカストという。ローカストとは焼け野原という意味であり、無数のバッタが襲来した土地は草一本残らず喰い尽くされることに由来する。総重量2億トン、想像を絶する巨大な飛蝗の群れは青森県に降下し、津軽平野から青森平野の青々とした大地を文字通り焦土と変える。これに対する青森県知事、野上高明はかつて中央政界で首相の候補とみなされていた実力者で東北六県の知事会長を務める。未曾有の危機の襲来を知った野上は素早く手をうち、パニックを防ぐために東北地方守備隊という組織を結成し、カリスマ的な資質をもち、弘前大学理学部で昆虫学の講師を務める刑部保行に総隊長を命じる。このあたりも既に相当に強引な展開であるが、緊迫した物語に一気に引き込まれる。守備隊に警察権を与えることは国法を犯すことであるが、地方自治体は中央政府の隷属組織ではないという信念のもとに野上は決然と政府に対峙する。飛蝗禍が全国に及ぶことを見越して政府は東北地方からも備蓄米を搬出しようとするが、守備隊は実力でそれを阻止する。国会でも東北地方選出の野上シンパの議員たちが畦倉首相と鋭く対立し、暗闘が続く。「神の罰」という言葉どおり、穀物と野菜を喰い尽くし、家畜や人さえも噛み殺すおびただしいバッタの前には自衛隊も警察もなす術がない。青森から南下した飛蝗軍団は北上川沿いに雫石盆地、仙台平野を劫掠する。もともと西村は動物を主人公にした小説に長けており、これ以前にも南アルプスに発生した鼠の大群が東進して東京に向かう『滅びの笛』という傑作を発表している。無数の昆虫集団の恐怖を西村は例えば次のように描写する。「ふとみると稲が消えていた。稲ではなかった。黒い虫の木だった。一本の稲に何百という飛蝗がたかっていた。吐き気のする光景だった。一匹一匹の飛蝗の目玉が晦冥の中で横目使いに見つめていた。異様に光る、小さな目だった。バリ、バリ、バリ、バリと咀嚼音が周囲を埋めている。かん高い共鳴音だった。共鳴した音はよじれ合ってなんともいえない恐怖感を抱かせた。自分の体が喰われているような苦悶が襲った」飛蝗の襲来という(巨大津波や原子炉の爆発と同様に)にわかに想像しがたい事態に対して、西村の具体的で歯切れのよい筆致は臨場感あふれる圧倒的なリアリティーを与えていく。パニックに襲われた群衆の描写はこの作家の独壇場だ。この作家らしいマッチョな妄想が全開し、飛蝗に襲われる農村と恐慌が発生する都市、暴力と略奪、陵辱が東北地方を蹂躙していく様子が活写される。野上は東北各地の大学のコンピュータを用いて今後の被害の推計を計算させ、飛蝗の第三世代が消滅する3年後、1980年冬までに100万人の死者と東北六県壊滅という恐るべき予測が明らかになる。野上は大量の流民が東北を南下し、多くの死者を路傍に置き去りにしながら首都へと向かう地獄絵図を予想する。むろん野上は拱手してはいない。東北地方守備隊を用いてパニックの収攬をはかるとともに、東京の商社をとおして大量の食糧を買いつけ、戦時に有用な人材を自衛隊や諜報組織から引き抜く。そして自ら喚問された衆議院の地方行政委員会の席上で、地方自治は国権を凌駕すると主張する。これに対して野上に敵意を燃やす首相畦倉は国家存亡のためには犠牲もありうると主張し、わずかな支援とおざなりの政策で東北地方を見捨てようとする。
 飛蝗襲来から半年が経過し、蕭条の冬を迎える。青森から宮城まで草という草、緑という緑が飛蝗によって喰い尽くされ、未曾有の食糧難とともに東北の経済活動は逼迫し、野上が予想したとおり大量の流民が発生した。折しも卵を抱えた第一世代の飛蝗たちは移動を開始する。しかし彼らは大陸に帰ることなく、奥羽山脈に降下し、東北地方の脊梁に無数の卵を産みつける。再び発生する飛蝗群は140億トンと推定され、第二世代の飛蝗群によって再び東北六県が劫掠される運命が定まった。餓死者が続出し、村落がうち捨てられる地獄の中で150万人の人々が故郷を捨てて難民となり、このうち60万人が徒歩で首都へ向かう。これに対して東京都知事は県境を封鎖して、難民の流入を拒絶する。見捨てられた流民たちに対して、野上はTVを用いて驚くべき発表を行う。すなわち東北六県が奥州国として日本から独立することを宣言し、流浪する人々に対しては直ちに北に戻ることを呼びかけたのだ。むろん畦倉は東北地方の独立を実力で阻止しようとする。物語は終盤において内戦状態に突入する日本、そこに渦巻く陰謀とテロリズムの連鎖を速いテンポで描き、悲劇的な結末へと向かって進行する。
 パニックSFとポリティカル・フィクションを合体し、強烈なサスペンスを加味した西村の「ハード・ロマン」(当時はこのような呼称があったのだ)において注目すべき点は、国家的な災厄とそれへの対応が主題とされているにもかかわらず、小松左京の『日本沈没』に典型的な上から目線の「危機管理小説」とは全く趣を異にする点である。飛蝗禍という未曾有の大惨事の中で、国家の存在はむしろ災いを拡大する。この小説に主人公を求めるならば、東北地方守備隊の総隊長である刑部であるが、作者は明らかに巨視的ではなく微視的な状況に目を向け、東京より東北、首相より知事、為政者より民衆に寄り添って物語を進める。国家に順わぬ(まつろわぬ)者の命運というテーマは西村のいくつかの小説に共通しているが、これほど直截に提示された例はないだろう。いうまでもなく国家に順わぬ者の系譜は、東北地方の歴史と直結している。国会に喚問された野上は日本書紀から江戸明治の凶冷害、満蒙開拓団への使役まで言及しながら、東北地方が常に国家の、中央の収奪を受けてきた歴史を指摘する。今や野上の主張は私たちにとって理解しがたいものではない。とりわけ東日本大震災、なかんずく福島第一原子力発電所の事故による原子力災害を経験した後では、私たちはこの受難の歴史が今も更新されつつあることを理解するのだ。このブログでも高橋哲哉や開沼博の論考に触れながら論じたとおり、東北とは常に首都圏の後背地として労働力や資源、電力を供給してきた。震災は自然災害であるから不可抗力かもしれない。しかし原子力災害は明らかに人災であり、東京に電力を供給した対価として、故郷を、土地を奪われ、健康についての間断なき不安を強いられるのは福島と宮城の人々ではないか。本書の中では流民と化した人々が病人や死人を道端に打ち捨てて東京に向かう情景が描かれる。女たちは人買いに買われて、わずかな金のために男たちに身を任す。むろんそこには「ハード・ロマン」特有の誇張はあろう。しかし現在、実際に放射能から逃れるために今なお万を単位とする人々が日本各地に離散し、震災後、多くの東北の女性たちが風俗業やアダルトヴィデオに従事せざるをえなかった状況を知るならば、西村のパニック小説と現実との間にさほど距離はないように感じられる。さらに野上の演説を引用するまでもなく歴史を遡行する時、このような悲劇は冷害や凶作のたびに繰り返されてきた。そして今回の震災/原子力災害において最も被害を受けた東北の人々が原子力発電所の事故の復旧に携わり、深刻な被曝環境にあるという倒錯は現在も進行中だ。
 野上が奥州国の独立を宣言した五日後、飛蝗群団は再び一斉に飛翔を開始する。東北を劫掠した飛蝗が南下し、関東一円に降下すれば再び同じ災厄が繰り返される。関東が飛蝗禍を受けることになれば、政府はその対応に追われて奥州国の独立を認めざるをえず、逆に東北地方では農作物の作付けが可能となる。奥州国の独立は明らかにこのような時機を読んでいた。しかし青森、岩手、秋田の接する山岳地帯から飛び立った飛行群団の黒雲は南ではなく、真西に向かい、母なる大陸へと戻っていった。この時点で奥州国独立の夢は潰え、独立を阻止するために政府軍は反攻を開始する。西に向かう飛蝗群団の黒い雲、この情景から原子力災害、福島第一原子力発電所の事故を連想せずにいることは難しい。知られているとおり、原子炉が次々に爆発を起こした際、福島の海岸部には東風が吹いていた。このため多くの放射性物質(岡田利規は『現在地』の中で「青い雲」として表象した)は太平洋上へと撒布されて首都圏は直接の被害から免れることができた。この時期、この地域では東風が優勢であるとはいえ、東京が放射性物質の洗礼を受けずにすんだことは飛蝗が西に向かった程度の偶然にすぎない。震災から三年が経過して、原子力発電所の事故の状況もいくつかのドキュメントでかなり正確に再現されている。そしてここでも事故によって東日本が壊滅しなかったのは単にいくつかの幸運に負っているということが明らかとされた。私たちはこのような幸運を十分に認識しているのであろうか。現在の政権は原子力発電所が稼働せずとも電力不足が発生しないという事実があるにもかかわらず、原子力発電所の再稼働と海外への輸出を死にものぐるいに進めている。被災地の復興が遅滞し、破壊された原子炉からは今も放射性物質が放出されている一方で、7年後の東京でのオリンピックの開催だけが決定された。この一連の出来事に中央/東京の度しがたい驕り、他者への想像力の欠如を感じるのは私だけであろうか。この小説が発表された35年前、まだ日本には成長の余地があり、地方もそれなりに繁栄していたから、一つの地方が日本から独立するという物語は一定のリアリティーをもちえた。しかし「小泉改革」を経て、東京の一人勝ちの傍らで地方は救いがたく疲弊し、中央/政府に拮抗する力も矜持ももちえない。今後、被災地である東北が核廃棄物の貯蔵地とされることは大いにありうるが、その時、命を賭して反抗する野上のごとき首長がもはや存在しないことを私たちは先の沖縄県知事のふるまいを通して学んだ。このような中央と地方の関係はごく少数の富裕層と大多数の貧困層が乖離する今日の社会の縮図であり、かかる格差を当然の前提とみなすがゆえにこの国の中心にいる者たちはこれほどまでに傲慢なのではなかろうか。
 今日再読するならば、この小説における飛蝗はあたかも原子力発電所事故に由来する放射性物質の暗喩であるかのようだ。小説の中で飛来した飛蝗群は奥州国を壊滅に追い込み、関東以南の沃野はそのままに残して母なる大陸に向かった。しかし現実において東北の地に放出された放射性物質はその土地に残り、半永久的にダメージを与え続ける。青森の六ヶ所村から福島の浜通りまで、原子力災害によるローカスト(焼け野原)の連なりを私は明確にイメージすることができる。このようなローカストがいかなる社会的、政治的な力学のもとに特定の地域に広がったかについては、すでにいくつもの研究が存在する。先に述べたとおり、今回、東京がかかる災厄を免れたことは偶然にすぎず、次の震災が起きれば、東京も新たなローカストとなるかもしれない。そしておそらくそれほどの災厄なくして、為政者や高級官僚はかかる不均衡がこの国を深く蝕んできたことを自覚しないだろう。
by gravity97 | 2014-03-12 20:56 | エンターテインメント | Comments(0)

優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック