大江健三郎『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』

b0138838_1931194.jpg 最初に断っておくが、私は必ずしも大江のよい読者ではない。大学に入学した直後に読んだ『同時代ゲーム』に感銘を受け、それまでに発表されていた小説(大半が文庫化されていた)については一年ほどかけてほぼ全てを読んだ。その後も『「雨の木」を聴く女たち』から『河馬に噛まれる』にいたる連作短編集、『懐かしい年への手紙』のあたりまではほぼ発表と同時に読んだ覚えがある。しかしこのあたりから、新作の発表と実際に読んだ時期との間にタイム・ラグが生じたようだ。「燃え上がる緑の木」三部作、そして『宙返り』といった大作を私は単行本として所持しているし、読んだ記憶もあるが、やや印象が薄い。このあたりで大江への集中力は途切れてしまい、私は大江が言う「レイト・ワーク」のうち、『取り替え子』に始まる「スウード・カップル」三部作を読んでいない。長江古義人を主人公とした一連の擬似私小説に私はどうにもなじめなかったのである。しかし大江が東日本大震災というよりも福島第一原子力発電所の事故による原子力災害を受けて『群像』に「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」なる小説の連載を開始したというニュースに関心を抱き、連載完結後に刊行された本書を通読した。これから論じるとおり、「最後の小説」にふさわしく、この小説はこれまで大江が発表した小説と複雑に絡み合っている。先行する「レイト・ワークス」はもちろん、初期の短編である「空の怪物アグイー」そして特に『懐かしい年への手紙』はこの小説の前提を構成している。久しぶりに大江の小説を読む準備として、私はまず長らく書斎のNEW ARRIVALの棚に放置していた近年の長編『水死』を通読し、長江古義人の近況を確認した。老境に達した大江の分身である長江、そして大江光の分身としてのアカリとの葛藤が描かれるこの小説も私はそれなりに興味深く読んだ。本来ならばこれに先行する『取り替え子』や『憂い顔の童子』なども通読し、そして何よりも『懐かしい年への手紙』を再読したうえで本書は評されるべきであろうが、大江の長編を読むためにはいささかの覚悟が必要であり、今の私にそれほどの余裕はない。『水死』を通読したうえで、それ以前の小説についてはおぼろげな記憶とともに本書についてレヴューすることとする。
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 本書のタイトルはいうまでもなく、大江の友人であったエドワード・サイードの遺著「On Late Style」から引かれている。『晩年のスタイル』として既に邦訳も刊行されているこの刺激的な書物についてはこのブログでも論じた。大江は本書の「前口上として」の中でサイードについて触れ、サイードの著作が「晩年の様式について」であるのに対し、自分の文章は「晩年の様式を生きるなかで」書き記されるため、In Late Style であり、いくつものスタイルの間を動くことになるだろうから、さらに「晩年様式集」とルビをふることにしたと述べている。『水死』において古義人とアカリの決定的な衝突の原因となったのが、サイードの自筆書き込みのある楽譜にアカリがボールペンで書き込みをした事件であったことを想起するならば、これらの小説に亡きサイードの影は色濃い。
 この小説は主人公の長江/大江が東日本大震災の後、破壊された書庫と寝室の間の踊り場で「ウーウー声を上げて泣く」場面から始まる。この小説に登場する人物も私たちは既になじんでいる。長江の息子のアカリ、妻の千樫、娘の真木、長江を先導し、自殺した映画監督の塙吾良、大学の恩師である六隅先生、あるいは作曲家の篁さん、彼らのモデルとなった人物の多くについて私は固有名を与えることができる。一方、ギー兄さんやリッチャン、シマ浦さんといった人物については少なくとも私は特定のモデルが存在するか判断できない。しかし多くが大江の小説に既に登場した人物であり、この意味で本書を含む一連の小説は大江の家族をめぐる一種のサーガを形成している。しかしそこには微妙な変化が兆しつつあるようだ。先に述べたとおり、私は2000年以後に発表された「レイト・ワーク」については『水死』しか読んでいないので、理解の足りない点があるかもしれないが、一つは長江がもはや老齢に達したということだ。長江は今、自分の書いている小説が文字通り最後の小説となるかもしれないという予感を抱きながら小説を執筆する。長江は自らの「晩年のスタイル」を構築しなければならないという強い自覚を抱いている。この自覚は明らかにサイードの著作に触発されたものであろう。『水死』にはアカリと衝突した直後、長江が「大目眩」と呼ぶ発作を起こし、その後も断続的に発作に襲われたことが記されていた。長江にとってもはや死とは自分と無縁でないのだ。そしておそらく長江の加齢とも関係しているが、これまで一方的に小説の中に描かれていた人物たちが長江に反抗を始める。これまで長江に保護される存在であったアカリが長江を拒絶する『水死』は一つの予兆であったかもしれない。『晩年様式集』においては長江によって「一面的な書き方で小説に描かれてきたことに不満をもつ」女性たち、つまり長江の姉のアサ、妻の千樫、娘の真木が「三人の女たち」というグループを結成し、『「晩年様式集」+α』という私家版の雑誌を発行し、長江の語りの妥当性を追及する。彼女たちが語り手となる「三人の女たちによる別の話」と題された章は小説中に四回にわたって挿入され、長江は時に兄、時に父と名指しされるため、この小説は説話論的にはかなり複雑な構造をとる。そして本書ではもう一人の重要な人物が加わる。『懐かしい年への手紙』において主人公の教師であり、最後に不可解な死を遂げたギー兄さんの遺児で、アメリカでTVのプロデューサーとなったギー・ジュニアが来日し、長江にインタビューを行うのである。ギー・ジュニアは「カタストロフィー委員会」なる組織への報告書のためにこのインタビューを行っている。カタストロフィーなる言葉がサイードの『晩年のスタイル』から引かれていることはいうまでもなかろう。サイードにとって晩年性とは「円熟や老成といった境涯を否定するかのように晩年にあってスタイルを変えることを恐れず、時にそれまで営々と築いた成果を破壊してまでも新たな挑戦を続ける姿勢」であった。実際にギー・ジュニアは晩年に意志的にカタストロフィーを避けなかった芸術家としてサイードと篁を挙げ、長江がかかるリストにふさわしいか判定することがインタビューの目的であると述べる。このインタビューは長江の小説の舞台となる「四国の森」でなされており、この点に『晩年様式集』と『水死』の共通性を認めることができるかもしれない。すなわちいずれも長江の生活に闖入してきた者たち、前者ではギー・ジュニア、後者では「穴居人」という劇団を構成する若者たちとの出会いを契機にして長江は自分の根拠地たる「四国の森」に向かい、前者ではアカリの「森のフシギ」の演奏、後者では「メイスケ母出陣と受難」という演劇の上演が物語のクライマックスをかたちづくっている点である。しかし両者には大きな差異もまた存在する。b0138838_1953284.jpg
 今、私は主人公長江をめぐって『晩年様式集』の物語の骨格とも呼ぶべきストーリーを粗描した。一方でこの小説は執筆された時期の大江の活動が濃厚に反映されており、長江と大江は微妙な関係にある。本書は踊り場で「ウーウーと声を上げて泣く」長江と「ダイジョーブですよ、ダイジョーブですよ」と励ますアカリの情景で始まる。既にここに長江とアカリの立場の逆転は暗示されているが、長江の不安の原因は現実の原子力災害によってもたらされた放射能汚染であり、「四国の森」への移動も「アカリをどこに隠したものか、と私は切羽詰っている。四国の森の『オシコメ』の洞穴にしよう、放射性物質からは遮断されているし、岩の層から湧く水はまだ汚染していないだろう!」という一種の避難の意味をもっている。(このような危機感が震災直後、多くの表現者に共有されていたことに私は今一度注意を喚起しておきたい。例えばこのブログで触れた岡田利規。関東大震災後に関西に映った谷崎潤一郎のごとき作家と原子力災害というかつてない災厄によって、移住を強いられる者たちとを比較することは可能だろうか)本書は長江の東京から四国への移動、あるいは二つの土地の間の往復の物語であるが、一方で大江はあえて東京に留まり、時にル・モンド紙のインタビューに答え、反原発集会に参加し、外国人記者クラブでの記者会見に応じる。もちろん私たちも大江がこの時期に続けた様々の抗議活動を知っている。このためこの小説では主人公の長江に奇妙な分裂が認められるのだ。例えば『水死』であれば、私たちは老齢に達した「長江古義人」という主人公が最後の小説を断念し、出生地で自分の作品に基づいた演劇の上演を試み、あるいは障害のある息子アカリとの衝突し、やがて和解する物語であると理解することができる。しかし『晩年様式集』では長江はいつのまにか大江へと分裂し、物語の審級が不明確となるのだ。おそらくこのような破綻は意図的に導入されている。東日本大震災と原子力災害は、かつて『懐かしい年への手紙』の中で「黒い大水」の夜にギー兄さんを失い、『ヒロシマ・ノート』で原爆の非人間性に直面した大江にとって、もはや長江というダブルによって語ることが不可能なほどに自らに、自らの文学に直結した「カタストロフィー」だったのだ。途中からもはや説話的な構造を破壊しても作者が物語に介入する姿勢はサイードのいう「不調和、不穏なまでの緊張、またとりわけ、逆らいつづける、ある種の意図的に非生産的な生産性」であろうか。正直に言って私はこの小説がそこまで円熟や老成からかけ離れた破壊的な挑戦とは感じられなかった。むしろ本書は「レイト・ワーク」のクライマックスであり、全編にみなぎる切迫感と緊張においておそらく大江の小説の一つの頂点をきわめた作品ではないかと考える。大江にとっても困難な小説であっただろう。そしてそれゆえ、物語が一つの希望を感じさせる詩で終えられることに私は深い感銘を覚えたのだ。本書の巻末に掲げられた詩の最後のフレーズを引用してこの文章を終えることとする。

私のなかで/ 母親の言葉が、/ はじめて 謎でなくなる。/ 小さなものらに、老人は答えたい、/ 私は生き直すことができない。しかし/ 私らは生き直すことができる。
by gravity97 | 2013-11-26 19:08 | 日本文学 | Comments(0)