Living Well Is the Best Revenge


優雅な生活が最高の復讐である
by クリティック
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國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』

b0138838_20245872.jpg このところドゥルーズに関する画期的な論考が次々に刊行されている。先般、河出書房新社から刊行された千葉雅也の『動きすぎてはいけない』も話題となっているが、しばらく前に岩波書店から岩波現代全書の劈頭を飾って刊行された本書はドゥルーズを学ぼうという者にとっては格好の入門となるだろう。これまでにも私は同じような役割をもついくつかの研究を読んだ覚えがある。ソシュールに対する丸山圭三郎、アルチュセールに対する今村仁司、デリダに対する東浩紀のごとき役割、つまり難解に思われていた思想家の思想に明確な見取り図を与える仕事は、私のごとき現代思想の門外漢にとっては大変ありがたく感じられる。本書を読んだからといって、ドゥルーズの思想が十分に理解できたとは到底思えないが、彼の著作がどのような布置を取るかおおよそ理解することはできたように思う。覚えの意味を含めて本書を読んだ所感を書き留めておく。
 私の世代、80年代に大学と大学院で文学や美術史を学んだ世代にとって、ドゥルーズやドゥルーズ=ガタリの名は現代思想と同義語であった。彼らに加えてデリダ、フーコー、アルチュセールといったフランスの思想家について私たちはひとまず翻訳書を求め、歯が立たないことを知るや日本語による解説を探した。浅田彰の『構造と力』が出版された1985年はこのようなフランス現代思想への憧憬が最高潮に達した時期であったといえるかもしれない。しかしその中でもドゥルーズは接近することが困難な哲学者であった。直ちにいくつもの理由を挙げることができる。まずこの時期、ドゥルーズは一人の哲学者というよりもドゥルーズ=ガタリという複数の名によって『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』という大著を著した書き手として知られており、しかも当時翻訳が刊行された前者は異様に難解な書物であった。『意味の論理学』をはじめ、ドゥルーズの主著は多くが翻訳されていたが、私たちはドゥルーズ=ガタリを経由してドゥルーズを知った気がする。一方でドゥルーズの著述の広がりも私たちを混乱させた。ベルグソンやニーチェ、ヒュームといった人名をタイトルあるいはサブタイトルに関した一連の著作が哲学研究であることは容易に理解される。しかしなぜかくも多くの思想家について論じるのか。さらにドゥルーズは『プルーストとシーニュ』というプルースト研究、あるいはガタリと共著でカフカ研究も発表している。さらに私がドゥルーズに関心を抱き始めた同じ時期、1983年にドゥルーズは『イメージ/運動』という映画を主題とした新著を発表した。ベルグソンの例があるとはいえ、そしてこの論文は一種のベルグソン研究であるにせよ、私は哲学者が映画を哲学の主題にすることに奇異の念を抱いたのである。つまりドゥルーズの難解さは一つにはドゥルーズとドゥルーズ=ガタリという著者の二重性に起因し、もう一つは先行する思想家から同時代の映画にわたる考察の対象の多様性に起因する。これに対して本書は快刀乱麻を断つがごとくこれら二組の難解さを整理していく。
 まず國分は「はじめに」においてドゥルーズの政治性という問題に触れ、多くの研究者にとってもドゥルーズとドゥルーズ=ガタリの混同が躓きの石であったことを指摘する。そして本書で扱うのが「ガタリ化」された政治的ドゥルーズではなく、思想家ドゥルーズであることを明言する。むろんこれは問題を単純化することを意味しない、実際に第Ⅳ章の「構造から機械へ」においてはガタリとの接近、そして『アンチ・オイディプス』という共著がもたらされた理由が、ドゥルーズに即してていねいに論じられる。しかしここではあくまでもドゥルーズの思想の展開の契機としてガタリとの関係が論じられているのだ。決して驚くほどの発想の転換ではないが、この断言によってドゥルーズへの接近は格段にたやすくなる。優れた入門書には常にこのような「コロンブスの卵」的な発見がある。
 最初にも述べたとおり、國分ほどのよきチチェローネを擁したとしてもドゥルーズの思想は相当に手強い。続いて私は五章から成る本書を私なりに読み解くこととするが、時に表面的な、時に誤った理解であるかもしれない点をあらかじめお断りしておく。五つの章にはそれぞれ「方法」「原理」「実践」「展開」「政治」というサブタイトルが付されている。最後の「政治」のみ異質である点はすぐさま理解されようが、これらのサブタイトルを念頭に置く時、議論の展開は比較的理解しやすい。すなわち第Ⅰ章においてはドゥルーズの哲学研究の方法が語られる。この点はなぜ彼がカントからベルグソンにいたる多様な思想家を対象にするかという問題に対する解答だ。つまりドゥルーズが問題としているのはそれぞれの思想家固有の思想ではなく、彼らの思想をドゥルーズ自らが語る方法なのである。この方法を國分は「自由間接話法的ヴィジョン」という卓抜な比喩によって説明する。詳しくは直接本書を読んでいただくのがよいが、國分はドゥルーズが先行する思想家たちについて何を語るかではなく、どのように語るかという点に注目する。以前、ローラン・ビネの『HHhH』をレヴューした際に引用した同じ箇所を引く。國分はかかる手法によってドゥルーズが目指すところを次のように的確に要約する。

もし哲学研究が、対象となる哲学者の思想を書き写すこと、まとめ直すことであるならば、それはその哲学者が述べたことをもう一度述べているにすぎない。そして、先に述べたとおり、対象となる哲学者の思想とは別の思想をその哲学者の名を借りて語っているのであれば、それは哲学研究ではない。ならば哲学研究は何をするべきか? 哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと、時にはその哲学者本人が意識して概念化したわけではない「概念」すら用いて、時にはその対象を論じるには避けて通れないと思われているトピックを飛び越えることすら厭わず、その問いを描き出すこと―ドゥルーズは、それこそが哲学研究の使命であると考え、そしてそれを実践した。

 つまりドゥルーズは先行するさまざまの思想家に思考を強いた問いそのものを描くことこそが哲学者の使命と考える。個々の思想家を超えた一種の「問いの系譜」の中に自らを置き、そこを出発点として自らの思想を鍛えるのである。
 最初の章でドゥルーズの問題意識の所在を明らかにしたうえで、第Ⅱ章では文字通り「ドゥルーズの哲学原理」が語られる。國分はそれを「超越論的経験論」と結論づけるが、超越論や経験論についての深い知識がない私にとってはきわめて難解な議論である。國分によればドゥルーズはヒューム、カント、ライプニッツらを批判的に検証する作業を繰り返す中で独自の思想的立場を形成する。ここでは「無人島」というドゥルーズの比較的知られることの少ない著作が引用されて興味深い議論が展開される。無人島、他者のいない島について論じながら、國分/ドゥルーズは他者を次のように再定義する。「他者とは、それなしでは知覚が機能しえなくなる『知覚領域の構造』である。言い換えれば対象の対象性を保証する構造である。他者は知覚領域における対象ではない。なぜなら他者がいなければ、知覚領域そのものが、したがって対象の対象性が成立しないのだから。それだけではない。他者こそが対象の対象性を保証しているのだとすれば、他者を欠いたところでは、そもそも自我というものを想定することができない。自我はア・プリオリに存在する基体ではない。対象の対象性の場合と同様、意識が他者によって『私はこうであった』へと落ち込んでいき、過ぎ去りつつも継起する〈私〉が対象として措定されて初めて自我というものが成立する」かなり難解な文章であるが、ここから読み取れるのはドゥルーズが対象や自我がいかにして発生するかという点に目を向けていることだ。このような関心からドゥルーズがフロイトの精神分析へ向かったことは理解できようし、この章でも最後に両者の関係が論じられるが、この部分も私には難解に感じられた。
 続く第Ⅲ章は比較的読みやすい。それというのもこの章で扱われるのがドゥルーズの実践であるからだ。その対象は小説と映画であり、『プルーストとシーニュ』、そして『イメージ/運動』と『イメージ/時間』といった著作が論じられる。この章が比較的わかりやすいのは、それらの著作に私が部分的に馴染んでいたこと、そしていずれも具体的な対象を擁したテクストであるからだろう。例えば特異なプルースト論である前者において、ドゥルーズはそれがマドレーヌの挿話にみられる過去への回想の物語ではなく、未来に向けられた「シーニュ」の習得の物語であると指摘する。なぜこの指摘が重要か。それはこの問題が思考の発生に関わるからだ。さらにドゥルーズは二つの映画論において主体の問題へと目を向ける。私はこれまでにもドゥルーズの映画論について論じた文章をいくつも読んできたが、このような観点からの分析は初めてであり、二つの映画論の間に主体性に関する認識の区別をみるという発想は斬新であった。きわめて入り組んだ議論であり、単純な要約を許さないが、このような読解が可能となるのは、文学や映画を対象としたドゥルーズの論文を単なる作品研究ではなく、自らの哲学の実践とみなす本書の枠組に依るところが大きい。多くの先行する思想家を「自由間接話法的ヴィジョン」によって語り直し、自らの哲学の原理を構築し、それによって具体的な対象を分析したとするならば、これまでばらばらに感じられていたドゥルーズの主著がそれぞれどのような意図のもとに執筆されていたか、きわめて明瞭に配置されるではないか。
 國分はⅢ章の最後でかかる図式にまとめられたドゥルーズの哲学の限界に本人が気づいたという仮説を提唱する。この結果、導入されたのが複数で書くという手法であり、『アンチ・オイディプス』という決定的な著作である。この点を論じて本書のクライマックスと呼ぶべき第Ⅳ章には「構造から機械へ」というタイトルが付されており、難解ではあるが読み応えがある。タイトルが示すとおり、この章では60年代に隆盛した構造主義の乗り越えという問題が扱われている。しかしながらドゥルーズは最初から構造主義に批判的であった訳ではない。それどころか1972年にフランソワ・シャトレの編集によって刊行された『哲学史』に「構造主義はなぜそう呼ばれるか」という緻密な構造主義論を寄せているのである。(國分によれば論文自体は1968年に完成されていたという)この論文を綿密に読み込み、そこに構造主義を覆す契機を見出す國分の議論はきわめて刺激的に感じられた。しかしドゥルーズが構造主義に関して抱いた違和感の由来は実は以前の章においても明らかであったのではなかろうか。すなわちドゥルーズが繰り返し論じた発生という問題に対して、構造主義は的確な説明を下すことができない。そこには時間的な機縁が存在しない。國分の言葉を引くならば、「ドゥルーズは、自ら構造主義に対するありうべき疑問を提示した上で、それに反論する、という論述を始める。その疑問とは、発生の問い、あるいは時間の問いである。ドゥルーズは『構造的なものに発生的なものを対立させることも、構造に時間を対立させることもできない』と言う。なぜなら『時間に対する構造主義の立場は明らかである。時間は、そこでは一つの現動化の時間である。それに沿って、潜在的に共存する諸要素が様々なリズムで実現されるのである』」かかる問題意識からドゥルーズがラカンを導入する必然性は容易に理解されよう。そしてラカン派の精神分析学者であったガタリとの協同がなされることとなる。両者が三冊の共著を著したことは先に述べたとおりであるが、異様に難解なラカンの理論に即して『差異と反復』そして『アンチ・オイディプス』が論じられる部分もラカンについての知識のない私にはハードルが高い。しかし最後に國分はドゥルーズとガタリによる分裂分析の目的として実に興味深い問題を提起する。「二人は、分裂分析の目標は、欲望する主体がいかにして自らの『抑制』を欲望することになるのかを明らかにすることにある、とも述べていた。ドゥルーズ=ガタリは、原抑圧の仮説を取り除くことにより、欲望をファルスの欠如によって説明する構造主義的なパースペクティヴからの脱却を図った。そのとき、欲望は、より広い社会的領野において決定されるものとして構想されることになる。そして、そのように構想された欲望を眺めた時、何よりもまず最初に発見されるのが、人はなぜ自らを抑制するのか、言い換えれば、なぜ自分たちの隷属を求めるのか、という問題なのだ」ここにおいてドゥルーズ(=ガタリ)の思想は政治哲学と接近する。最後の章の副題が「政治」と冠されたゆえんである。この飛躍こそ私が本書において最も感銘を受けた点である。b0138838_20255677.jpg
 発生という主題がラカンを召喚したように、隷属という主題がフーコーにつながる点は誰しも理解できよう。実際にドゥルーズは『フーコー』なる一書を1986年に上梓している。私はかねてよりドゥルーズに関心を抱いていたので、「ドゥルーズの思想」について論じたテクストをずいぶん読んできたつもりである。しかし國分も指摘するとおり、ドゥルーズとフーコーの関係について論じたテクストをほとんど知らない。興味深い例外はドゥルーズのフーコー論とフーコーのドゥルーズ論を一冊の本にまとめた蓮實重彦による小冊子であるが、慧眼と呼ぶべきか、1975年の時点で発行されている。國分はフーコーの権力論を仔細に読み込みながらドゥルーズに接続する。具体的には『知の考古学』で論じられた言説的編成という概念に対して非言説的編成という概念を提起し、『監獄の誕生』において両者が例えば法と監獄として密接に関連しながら作動する点を指摘した上で、フーコーにおける権力という問題が、ドゥルーズにおいては欲望と読み替えられて深化されている点を論じる。「権力とは、欲望の一つの変状である」そしてこのような読解によって「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」がひとつの文脈の中に浮かび上がるのである。このような補助線を与えるならばドゥルーズとフーコーの関係はラカンと比べてはるかにわかりやすい。それはラカンが難解であるからというよりも、ドゥルーズ/フーコーの哲学が今日において私にとってきわめて具体的で切迫したものと考えられるからだ。國分は巻末近くで次のように述べる。「なぜ人は自由になろうとしないのか? どうすれば自由を求めることができるようになるのか? これこそが〈政治的ドゥルーズ〉が発する問いなのだ」政治的ドゥルーズを排して続けられた分析が最後にこのような問いに帰着することは感動的ですらある。ドストエフスキーを連想するまでもなかろう、人と自由、それは文学において繰り返された問いかけではないか。私はここにきわめて先鋭なドゥルーズの思想がはらむ普遍性そして現在におけるアクチュアリティーを見た思いがする。最初に私は本書がドゥルーズの様々の著作の布置を明解に示した研究であると論じた。同時に本書は60年代のフランスの現代思想の知的達成の中にドゥルーズの仕事を位置づける作業でもあり、いくつかの箇所で私は目からうろこが落ちる思いであった。今なお私には『アンチ・オイディプス』を通読する膂力はない。しかし今、私は本書の光の下でいくつかのドゥルーズの著作を再読したい強い思いに駆られている。

by gravity97 | 2013-11-18 20:36 | 思想・社会 | Comments(0)
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