奥泉光『グランド・ミステリー』

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 奥泉光に関してはかつてこのブログでも『シューマンの指』をレヴューしたことがある。その際に記した「奥泉の小説はあまり長くない方がよい」という言葉を撤回しよう。文庫にして1000ページ近いこの大作は傑作と呼ぶにふさわしい。私は以前本書を手に取った覚えがあるが、あまりの長大さと佐世保湾に停泊する軍艦云々という冒頭の描写を読んでそのまま頁を閉じてしまった。刊行の順とは逆になるが、実は私は以前に同じ作家のやはり軍艦を舞台とした長編『神器―軍艦「橿原」殺人事件』を読んでいた。私の印象では奥泉の作品は出来不出来の差が大きく、正直言ってあまり面白くなかった。本書はこの長さで、しかも軍艦というテーマが重複していることに辟易して敬遠したのであるが、文庫化されたことを契機に通読したところ、実に面白いではないか。タイトルにあるとおり、本書は一種のミステリーとしての結構を有しているから、種を明かすことなしにレヴューすることは難しいが、未読の読者の楽しみのために今回はあえて小説の核心には触れず紹介することにしよう。
 この長大な小説も実に奥泉らしい作品である。ミステリー仕立て、つまり謎の提示とその解明という枠組は『ノヴァーリスの引用』や『シューマンの指』といった代表作をはじめ、多くの作品に共通する。日本の軍隊という組織を直接にテーマにした小説としては今述べた『神器―軍艦「橿原」殺人事件』のほかにも私は『浪漫的な行軍の記録』を読んだことがある。さらに複数の時間が錯綜する構造も『石の来歴』をはじめ、いくつもの小説において認められる。つまり本書は奥泉がこれまでの小説で駆使した枠組やテーマ、説話的構造を全て投入した大長編といってよいだろう。
 まず「謎」について確認しておこう。本書はプロローグと七つの章によって構成されている。プロローグでは1934年に佐世保湾で謎の爆発を起こして沈没した水雷艇「夕鶴」について語られる。この短い断章が本書で提起される謎の伏線となることはミステリーの定石である。次いで物語は1941年12月8日の真珠湾、太平洋戦争の開戦時に舞台を移す。ここで語られる謎については文庫のカバーにも記されているから明かしてもよかろう。真珠湾攻撃に出撃し、空母「蒼龍」に無事帰艦した九九艦爆機のパイロット、榊原大尉が帰投直後、コックピットの中で服毒自殺を遂げたのである。ほぼ同じ時期にもう一つの事件が起きる。こちらは航空機ではなく潜水艦、同じく真珠湾攻撃に参加する伊二四号潜水艦の中で特攻任務に就く特殊潜水艇の乗組員が出撃前に艦長に託した遺書が金庫ごと盗まれてしまったのである。なぜ毒殺されたのか、どこに隠されたのか。二つの謎からクリスティーの「三幕の悲劇」とポーの「盗まれた手紙」を連想することは容易だ。そして無関係に感じられる二つの事件が次第にもつれ合って新しい真実を指し示すことも本格推理の常道だ。読み終わってみると確かにこの小説はこれら二つの謎解きと読めなくもないのであるが、小説的技巧に長けた奥泉は文字通り全編を通じて様々なたくらみをこらして読者を惑乱させる。先ほど本書が時間的に錯綜すると述べた。第一章の「真珠湾」以降、奇数章ではそれぞれ「ミッドウェー」、「ソロモン」、「硫黄島」という三つの戦地が章のタイトルに付され、舞台/戦場が次第に日本に近づく様子は開戦以降次第に敗色を濃くしていく日本を暗示している。一方偶数章は戦地ではなく内地を舞台とし、「東京〈1942〉」、「東京〈1943〉」、「鎌倉」というタイトルが場所と時間を示している。タイトルの順序は時系列に沿っており、いくつかのストーリーが並行し、戦地と内地が交錯するとはいえ、語られる事件は真珠湾攻撃から硫黄島での玉砕にいたる太平洋戦争中の比較的短い期間に生起する。ただしこの小説の中には一点、全く異なった時代、すなわち1970年代中盤のエピソードと思しき挿話が存在する。数頁の短いエピソードであり、例によって現実と幻覚のあわいのような書きぶりによって表現されている。実はこの箇所は小説の構造においてきわめて重要な意味をもつのであるが、初読でその意味を理解することは難しいだろう。三人称の語りのほかにも書簡や遺書、既に出版された手記などいくつものレヴェルの違うテクストを並列に織り交ぜる手法も奥泉が得意とするところだ。しかもそれらの手紙や手記の書き手自体が物語の中に登場するのであるから、物語はさらに錯綜する。そしてそれらのテクストは時に相互に矛盾し、互いを参照する。例えば第三章の冒頭で読者は思わず頁を繰って登場人物の名前を確認するだろう。合理的な物語としては説明できない状況が記されているからだ。それぞれの章はいずれも短い断章の積み重ねとしてクライマックスに達するや中断されるかたちで次の物語に引き継がれる。読者の推理や理解は物語の中でいわば宙吊りにされたまま次の物語が始まる。物語の解決を先延ばしにするこのような手法もきわめて効果的である。いくつもの謎が繰り出され、時に合理的に解決され、時に新たな謎を呼び、時にきわめて不可解な幕引きをみる。大森望は解説で本書を「本格ミステリーのモチーフと戦記文学の背景とSFの設定を借り、現代文学の方法論を使って書かれた一大エンターテインメント」と評する。確かにそのとおりではあるのだが、本書を読まない限り、一体どのような小説であるかイメージすることは難しいだろう。試みに私が本書から連想された作家を列挙してみよう。今述べたクリスティーとポーに加えて、スティーブ・エリクソン、フィリップ・K・ディック、チェスタトン、日本であれば吉田満に半村良、あるいは京極夏彦。これまた一つの像を結ぶことが困難な多様な作家たちだ。ミステリー、SF、ノンフィクションから純文学、異なったジャンルを文字通り自家薬籠中のものとして反映させたメタ小説はまさしく奥泉以外にはなしえなかった文学的壮挙といえる。
 先ほど述べたとおり、奥泉の小説はミステリーというかたちをとる場合が多い。しかしながらいわゆる本格推理がエラリー・クイーンにみられるとおり、徹底的な合理性と「読者への挑戦」が示すフェアプレイの精神を本質とするのに対して、奥泉の手法は魔術的レアリズムであり、非合理性を本質としている。狂気や意識の混濁、幻視や妄想といった精神の変調を介して、現実は多層化され、物語は倒錯する。本書においても先に触れた時空的な歪み、すなわち1970年代の銀座が突然に出現する場面は登場人物の一人がソロモン海戦で負傷し生死の境で味わう昏迷の境地に接続されている。しかしこの一方で本書が「グランド・ミステリー」の名に恥じぬ論理的な構築性を帯びていることにも注意しなければならない。ただしそれは実にSF的でアクロバティックな論理であり、常識的な物語の整合とは大きく異なる。この長大な物語のトリックの核心にあたる発想について、これ以上述べることは控えよう。ただしこの点は巻末に付された二つの解説の一つで大森望が明確に分析している。したがって本書を読む前に大森の解説を読むことは控えた方がよい。一つの「合理的」な解釈によって物語を図式化しながら読むよりも、混沌と矛盾の中をたゆたう体験こそが本書を読む醍醐味なのであるから。
 本書をタイトルのとおり、一つのミステリーとするならば、その先例は何か。クリスティーやポーではなく、私が連想したのは東野圭吾の『どちらかが彼女を殺した』である。この小説では最後まで犯人が明示されず、読者が文字通り推理しなければならない。私は講談社文庫版で読んだため、解説をとおして(名指しこそされないものの)あらためて犯人とそのトリックを認識した。『グランド・ミステリー』と大森望による解説との関係はこれに似ている。大森は解説の中で複雑に入り組んだこの物語を再構成して、新たなパースクティヴを設定する。大森の再構成はかなり大胆であるが、確かに『グランド・ミステリー』の錯綜を解き明かしている。この点は先にも述べたとおりこの小説が一面においては論理的に構築されていることを暗示している。しかし大森も記すとおり、これが最終的な解決であるか否かについては疑問も残る。幻想性と論理性の葛藤がこの魅力的な長編をかたちづくり、私たちは両者の間で幻惑される。そして最後に触れておくべきは、本書の魅力はこのような作品の枠組以上に、何よりもその細部に宿っていることだ。初めから謎解きを放棄して、ただ面白い物語を読むという愉楽に身を任せたとしても読者の期待は十分に応えられるだろう。さほど多くない主要な登場人物はいずれも精彩を放ち、魅力的だ。悪役や小人物として描かれる登場人物たちも強い存在感があり、読者は思わず感情移入してしまうだろう。二つの解説の中でいずれの解説者も脇役とも呼ぶべき人物を取り上げ、強い思い入れを表明していることはこの点を示しているだろう。稀代の語り手である奥泉が超絶的な小説技巧と人物造形の巧さを遺憾なく発揮した本書に対して「1990年代最高の一冊に数えられ、超弩級の傑作」という賛辞が与えられたとしても、それはあながち誇張ではなかろう。
by gravity97 | 2013-11-07 21:25 | 日本文学 | Comments(0)