「ほっ」と。キャンペーン

小熊英二編著『原発を止める人々』

b0138838_20573426.jpg 昨年の衆議院選挙における自民党の大勝、そして第二次安倍内閣の下で一連の政策が着々と実現される過程を私は深い挫折感、いや絶望感とともに見守ってきた。今まさに特定秘密保護法案が国会の審議を経て成立しようとしている。オリンピックの開催が決まったにもかかわらず原子力災害の収束の目処が全く立っていない状況を機密保護の名目で糊塗するために設けられた法案が民意とは無関係に私たちに押しつけられるのだ。一方、あれほどの災厄を自国民にもたらしたにもかかわらず、私たちの首相は原子力発電のブラントを海外に輸出するための外遊を繰り返している。これはもはや政治や経済ではなく、人としての倫理の問題ではないだろうか。
 しかし本書において小熊は次のように力強く断言する。「日本において『脱原発』はすでに実現した。原発稼働ゼロを2012年5月に実現し、その後も原発依存度がもっとも高い関西電力の二基の稼働だけで、とりあえず日常生活は支障なく動いていた。(中略)『脱原発』はすでに既成事実である。『原発の止まった社会』は非現実的な夢どころか、すでに実現している。あとは、『再び原発に依存するか否か』の選択があるにすぎない」体制側のすさまじいバックラッシュの中にあって小熊はなぜかくも楽観的であるのか。それは小熊が反原発デモに参加する人々に、これまでの日本ではほとんど存在しなかった多くの「自立し、行動する個人」を認めたからである。私は東日本大震災以来、このたびの原子力災害に関して無数の本を読み継いできた。そのいくつかについてはこのブログでもレヴューしたが、ほとんどの記録において官僚や政治家、学者たちがいかに愚かで無責任か、自己保身と利権保全に汲々としているかが暴かれるばかりであり、暗澹とした思いにとらえられた。しかし本書は唯一、この状況の中に光明を見る。小熊は官邸前抗議デモをはじめとする、多くの反原発アクションに焦点をあて、社会学的な分析を加える。そこからうかがえるのは全く新しい人々の連帯の在り方、市民社会の成熟である。私は本書を読み通して思わず胸が熱くなることを覚えた。
 まず本書の構成について説明しておこう。小熊の序文に続いて、「官邸前からの証言」という座談会が収録されている。小熊を司会進行として、2012年夏に注目された官邸前抗議デモ主催者5名が自らの思いを述べる。今、主催者と述べたが、この言葉は必ずしも正しくない。もちろんここに登場する人たちは抗議デモで重要な役割を果たしたが、このデモの特性は後で分析されるとおり、参加者の自発性にある。ひとまずはこの抗議運動の輪郭をつかむ意味で収録されているとみるべきだろう。初出は『文藝春秋』2013年4月号。続いて各地で反原発の運動に関わる人50人に「あなたはどういう人か」「震災をどう迎えたか」「震災後にどう活動したか」といったテーマで自由に寄稿してもらった文章が掲載されている。小熊によれば、依頼した対象は面識がある人々、何かの縁で知り合った人々であるという。官邸前抗議デモに参加した人もいるが、そればかりではなく広い意味で反原発のアクションを起こした人々が含まれ、居住地も福島から東京、ニューヨークと多岐にわたる。単独で行動する人、運動を組織する人、放射能に関する専門家から全くのアマチュアまで文章を寄せた人の立場は様々だ。章の扉に小熊は次のように記している。「ここでは脱原発デモ、放射線計測、行政交渉、署名活動、避難など、様々な運動にとりくんだ50人の証言を集めた。どんな人が、どう震災を迎え、どんな運動をしたかが、取替えのきかない固有の肉声から浮かび上がる」。続いて同じ小熊による菅元首相へのインタビューが収録されている。『現代思想』2013年3月号に掲載され、小熊が菅に「歴史の法廷に立つ身」としての証言を迫ったこのインタビューを私は既に読んでいた。菅元首相が脱原発に積極的であり、それゆえに首相の座を追われたことを私たちはいくつかのドキュメントを通じて知っている。つまり本書は権力の内部と外部から原子力発電を批判した当事者たちの肉声とそれに基づいた分析から成立している。続く小熊の長い論考、「盲点をさぐりあてた試行」はこれらの証言をいわば原資料として一連の反原発のアクションを検証し、本書の中核をなす。巻末には本書の共編者である社会学者の木下ちがやの「反原発デモはどのように展開したか」という比較的短い論考、そして最後に付録として「2011年以降の反原発デモ・リスト」を収める。
 私は官邸前デモに参加したことはなく、これまでこのアクションについてよく知らなかった。それは必ずしも私ばかりに責任がある訳ではないだろう。なぜなら私がこの運動に関して得た情報はほとんどがツイッターやフェイスブック、ユーチューブといったソーシャルメディアを経由しており、(私はあまりTVを見ないにせよ)マス・メディアはこの話題をほとんど報じないからだ。私は本書を通じて反原発アクション、特に官邸前抗議デモの全貌を知った。小熊によれば震災後、最初の抗議活動は震災の翌日3月12日に経済産業省前で行われた抗議活動であり、独立系メディアによって記録されている。実は震災以前より反原発デモは各地で行われており、一連のアクションは突然にもたらされたものではないが、震災と原子力災害を機に急激な高まりを示した。中でも4月10日に高円寺で開かれた「原発やめろデモ」は注目に値するという。なぜならこのデモはいくつもの点で後の官邸前抗議デモの原型となったからである。すなわちサウンドカーを先頭にしたサウンドデモを取り入れ、音楽やサブカルチャーと連帯するスタイルである。このデモは高円寺でリサイクル店を営んでいた自営業者などによって以前より結成されていた「素人の乱」というネットワークの呼びかけで組織され、1万5千人もの人が参加した。これほどの人数が集まったことについては、これ以後、インターネットの呼びかけをもとに若者たちが集まったというステレオタイプの説明が広まるが、小熊によればこの時に集まった人々は地元のつながりや友人関係で参加する場合が多かったという。これ以後、脱原発デモは急速に拡大する。都内各地で開かれたこれらのデモはいくつかのグループに分けられる。従来から反原発に取り組んでいた市民団体によるデモ、「素人の乱」を中心とした「原発やめろデモ」、環境保護をうたう国際イベント、「アースデイ」を主催していたグループが呼びかける「エネルギーシフトパレード」である。6月11日のデモではこれらのグループが混じり合って解散地点の新宿駅東口駅前広場を3万人で占拠したという。これほどの大規模なデモを組織する中で主催者たちは誘導や警察対応、事故対応について工夫を重ねる。主催者たちの中にはかねてよりイラク反戦、反貧困などの運動に携わった者が多く、ノウハウを蓄積していったのである。しかしこれらの運動の高まりが直ちに官邸前行動に結びついた訳ではない。逆に9月、「原発やめろデモ」は12人の逮捕者を出した。しかしこの逮捕は意味があった。彼らを逮捕した警察当局は逮捕者に、誰に誘われたか誰に指示されたかといった質問を繰り返す。旧套な左翼運動の摘発の手法である。しかし参加者が自発的であり、一緒に歩いていた者の名前も知らないといった返答を繰り返すにつれて、当局も自分たちが対峙しているのが従来の組織化された「反体制運動」とは全く異なった、生活感に密着した運動であることを知ったのだ。このあたりの事情をチェルフィッチュの「三月の5日間」と関連させて分析したい気もするが、別の機会に論じることにしよう。この頃、デモ申請に行った関係者は警察から「ツイッターってなんだ」と問われたという。この時期、大江健三郎や瀬戸内寂聴らが呼びかけた反原発集会が6万人を集めて開かれたこともあり、当局側もこの運動の高まりを認識せざるをえなかった。この時期、反原発運動は裾野をさらに広げ、翌年の官邸前抗議デモの素地を形成した。同じ時期に経済産業省前に抗議の座り込みを行うテントが建てられ、撤去されずに抗議活動が続けられたことも反原発という主張が既に世論の多数を占めたことを暗示している。そして12年3月29日に始まり、最初は300名程度の結集にすぎなかった首都圏反原発連合による官邸前抗議は驚異的な広がりをみせる。小熊によればその一つの理由は官邸前というトポスであった。高円寺や渋谷ではなく、明確に抗議の対象が所在する官邸前は声を上げることによって自分たちの存在を為政者に伝えることができる。実際に当時の野田首相と面談した首都圏反原発連合の代表たちはデモの声が物理的に官邸に届いていることを官邸内で知り感銘を受けたと述べている。12年5月5日には北海道電力泊原発が定期点検のために停止し、遂に稼働している原発はゼロとなる。日本において『脱原発』が現実に実現した瞬間である。しかしながら野田政権は6月16日に福井県の大飯原発3号機と4号機の再稼働を決定し、これを契機に数千人単位の参加者であった官邸前抗議デモは数万人単位にふくれあがった。6月29日には主催者側発表で20万人もの人々が官邸前を埋め尽くした。これほど大規模な抗議運動でありながら警備側とのトラブルはなく、午後8時に首都圏反原発連合の代表者が抗議活動終了を宣言すると人々は「ゴミ一つ残さずに」帰っていったという。私はこの情景をツイッターやフェイスブックを介して参加者のスマートフォンで撮影された映像として見た記憶がある。このような抗議活動は官邸前だけでなく日本中で行われていたことも記憶されるべきであろう。抗議デモへの動員という点ではこの時期を頂点とするが、抗議活動は現在にいたるまで続けられている。小熊自身も官邸前抗議は12年の冬までは続かないと考えていたが、実際には今年の春にいたっても数千人単位の人々が金曜日の夕方になると地下鉄の「国会議事堂前」あたりに集まり、思い思いに抗議を繰り返しているという。
 以上の通時的概観に続いて、小熊はこの運動の共時的分析を行う。官邸前抗議デモの特質として小熊は自由参加の多さと固定的組織の不在、リーダーの不在を指摘する。この点は本書に収められた多くの証言からも明らかであろう。さらに小熊は過去の同様のアクション、例えば68年の学生叛乱などと比して今回の行動においては自分たちが多数派だという意識が認められる点を挙げている。それはそうであろう。各種の世論調査を確認するまでもなく、今や7割を越す人々が原子力発電に疑問を抱き、少なくともなければないにこしたことはないといった思いを抱いていることは明らかだ。自分たちが多数派であるにもかかわらず意志が反映されないことへの不全感がこれらの運動の背景にある。さらにデモが移動ではなく占拠というかたちをとることも2011年の運動の特質である。小熊はこれらの特質を「自由な参加者たちが中心地に集まって場を作る」と表現する。これらの特質が「アラブの春」やウォール街占拠といった近年の民衆運動と近似するという指摘は興味深い。次に小熊はアクションへの参加者を「中核的な担い手たち」と「一般参加者」に分けて分析する。詳細は本書を読んでいただくとして、前者、つまり本書に寄稿した人々の共通点としては次のような点が挙げられる。「職業的には、自営業・専門職・フリーランス・外資系・経営者・派遣社員・農民・大学講師・主婦など、時間と勤務形態に自由がきく形態が多い。外国との接触経験のある者、医学知識のある者が比較的多い。脱原発などの社会運動には縁がなかった者がむしろ多いが、何らかの自主的な企画を運営した経験のある者が多く、社会的経験はそれなりに経ている。学歴はおそらく平均的には高いが、自覚的に『やりたいこと』を優先して、進学を選ばなかったことを記している人も散見する」むろん本書の寄稿者、この分析の母集団はすでにその時点でそれなりのバイアスがかかっており、この点を小熊も理解している。しかしこのような分析と首都圏反原発連合についての「特に特定のリーダーがいる組織ということではなく、どんなことでも徹底的に話し合い、いざ纏まれば一斉に同じ方向を向いて走り出します。参加している人全員が、それぞれできることに最大限の貢献をしています。(自らの)企業の部門長という立場でも、これほど自律的に動くすばらしい人々は見たことがありません」というコメントを重ねるならば、中核となった人々のメンタリティーはおおよそ理解できよう。私は徒にこのアクションを美化するつもりはないが、日本でこれほどの規模の非暴力闘争が貫徹されている状況は私の記憶ではほかに例がない。デモにドラム隊として参加した文化人類学者は次のように述べている。「これまで世界中の運動が目指してはいたけれど、なかなか実現できなかったこと(非暴力直接行動の理想型)が、このアクテイヴィズム後進国の日本で起きていたわけだよ。いってみれば『周回遅れのトップランナー』みたいな感じだね。そもそも週一回、ほとんど通勤みたいに、金曜日なると六時ぴったりに集まって八時になるとさっと帰るというのは、ステレオタイプ的であるけれど、よくいわれる日本人の勤勉さとか我慢強さみたいなものにしっくり合ってたんじゃないかな」本書を読んで強く感じるのは参加者たちがきわめて抑制的にこのアクションに参加しているということだ。それは中心となる参加者たちによってこのデモがみごとにオーガナイズされているためであろうし、初めて可能となったこのような場を失ってはならないという参加者に共有された思いによるものでもあろう。小熊はこの事態を社会学者として次のように総括している。「官邸前で抗議を始めたのも一種の偶然なら、それが多くの人に受け入れられる受け皿だったというもの偶然だった。運動にかぎらず、成功する方法というものは、理論的に予測できるものではない。それは状況と歴史的文脈に沿って、その場その場で最善を尽くす試行錯誤の末に、手探りで獲得された『盲点』だったのである」
 さて、私たちはわずか二基の原子炉しか稼働していない状況で今年の異常に暑い夏を乗り切った。そして大飯原発4号機が定期検査のため停止した今年の9月15日以後、私たちは再び原発ゼロの日々を大きな支障なく送っている。誰にとっても明らかなこの事実をなぜマス・メディアは報道しないのだろう。一方で読売と産経をはじめとする大新聞はなおも死にものぐるいで原発再稼働のキャンペーンを張っているが、小熊が指摘するとおり、もはや勝敗は決しているようにも思われる。しかしその一方で一部の経済産業省の官僚や政治家たちがいかに姑息に再稼働を画策しているかについては大鹿靖明の『メルトダウン』の中で詳しく触れられている。この優れた調査報道については既に単行本版に関してこのブログでもレヴューしているが、今年の夏に刊行された講談社文庫版には単行本発行以後の状況、すなわち民主党政権でほぼ策定されるばかりとなっていた脱原発のシナリオが官僚たちの策謀によって握り潰される状況が克明に記録されている。小熊の楽観的な断定と悲観的な現実、私たちの未来はどちらの延長上にあるだろうか。私もまたどちらかといえば楽観的だ。本書の中には官邸前抗議デモを警備する警官たちが小声で「再稼働反対」とつぶやいたというエピソードが紹介されている。これは独裁国家において軍隊が銃口を民衆から独裁者へと向け直す瞬間を暗示している。今や誰にとっても原子力発電に未来はないことは明らかだ。ひととき史上最低の宰相を選んだとしても、私は自分たちがそこまで愚かではないと信じたい。本書は文藝春秋社から刊行されている。最初の座談会が『文藝春秋』に掲載されたといった事情はあったにせよ、イデオロギー的に必ずしも脱原発と親和的でないこの出版社がかくもラディカルな書物を刊行したこともまた一つの地殻変動を象徴しているのではないだろうか。
Commented by まろ at 2013-10-31 22:04 x
 よく読ませていただいています。『イワンの戦争』から。『社会を変えるには』で、小熊さんの指摘には同感しました。「これまでとは全く違う」と彼が判断した根拠については思わず膝を打ちました。この本も読んでみたいと思います。丁寧な紹介に感謝いたします。
Commented by BLOG BLUES at 2013-11-18 15:15 x
初めまして。「原発を止める人々」で検索し、読み進むうち、貴ブログに行き当たりました。

わかりやすい解説と説得力ある分析の後に、『小熊の楽観的な断定と悲観的な現実、私たちの未来はどちらの延長上にあるだろうか。』と綴る管理人様の理知に感銘し、『私もまたどちらかといえば楽観的だ。』と繋ぐ熱情に「よーし!」と唱えたくなりました。

勝手ながらリンク貼らせていただきました。また寄らせてもらいます。
by gravity97 | 2013-10-30 21:07 | 思想・社会 | Comments(2)