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Living Well Is the Best Revenge

ローラン・ビネ『HHhH』

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 先日から國分功一郎の『ドゥルーズの哲学原理』を読んでいる。最近、若手によって発表されたこのドゥルーズ論についても機会があればこのブログで応接したいが、最初に國分はドゥルーズの哲学について「自由間接話法的ヴィジョン」という興味深いテーマを提起する。周知のごとくドゥルーズはヒュームやベルグソン、あるいはプルーストやカフカといった哲学者や文学者のテクストに寄り添いながら、自身の哲学を開陳したとみなされてきた。しかし國分は異なった見方をする。

 もし哲学研究が、対象となる哲学者の思想を書き写すこと、まとめ直すことであるならば、それはその哲学者が述べたことをもう一度述べているにすぎない。そして、先に述べたとおり、対象となる哲学者の思想とは別の思想をその哲学者の名を借りて語っているのであれば、それは哲学研究ではない。ならば哲学研究は何をするべきか? 哲学者に思考を強いた何らかの問い、その哲学者本人にすら明晰に意識されていないその問いを描き出すこと、時にはその哲学者本人が意識して概念化したわけではない「概念」すら用いて、時にはその対象を論じるには避けて通れないと思われているトピックを飛び越えることすら厭わず、その問いを描き出すこと―ドゥルーズは、それこそが哲学研究の使命であると考え、そしてそれを実践した。

 最初から長い引用になったが、2009年に発表されたこの奇妙なタイトルの小説を読み始めるや、私は自然に國分のいう「自由間接話法的ヴィジョン」という概念を連想した。もちろんこの若いフランス人によって書かれた書物は「小説」であって哲学研究ではないし、ここで扱われるのは歴史であって、哲学者の思想ではない。しかし対象との距離に関してきわめて意識的な点において私は國分の論じるドゥルーズとローラン・ビネという作家に共通点を認めるのである。ドゥルーズが『失われた時を求めて』を解読する過程でそこに作者さえ意識しなかった「シーニュの生産」という機能を織り込んだように、ビネはナチスへの抵抗を自らが検証する過程そのものを物語の中に組み込んでいくのだ。もう少しわかりやすく述べるならば、この小説の独自性はまさに「話法」にある。一般的に歴史的事実について記述するには二つの方法がある。一つは自分が体験した事実として歴史を語るいわゆる直接話法だ。例えば大岡昇平が『野火』においてフィリピン戦線について書く時、作者である大岡の分身である「私」の物語が語られる。これに対してソルジェニーツィンの『収容所群島』の場合も語る主体こそ「私」であるが、ソルジェニーツィンの場合は様々な歴史的資料を渉猟し、史実の積み重ねによって、ラーゲリという暴虐をいわば第三者的に明らかにしていく。この小説における語りは間接話法といってよい。歴史をめぐる物語は全てこの二つの語りのいずれかに立つ。しかし本当にそうであろうか。歴史について「私」が語る物語が常に真実であることを保証するのは何か。同様に「客観的事実」として提示される物語の真実性は何によって担保されるのか。本書の語り手はこの二つの問いの間を揺れながら歴史へと接近する。
 本書の冒頭近くでビネは次のように記している。「ミラン・クンデラは『笑いと忘却の書』のなかで、登場人物に名前をつけなければならないことが少し恥ずかしいとほのめかしている。とはいえ、彼の小説作品にはトマーシュとかタミナだとかテレーザだとか名づけられた登場人物があふれ、そんな恥の意識などはほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある」クンデラは小説の中で架空の人物に名前を与えることの不思議さを語る。これに対して本書の登場人物は確固たる固有名をもつ。タイトルのHHhHとはドイツ語で「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」という文章の頭文字。ヒムラーとはナチス・ドイツで内務大臣、警察長官などを務めたハインリヒ・ヒムラーのことであり、ハイドリヒとはヒムラーの片腕としてゲシュタポの長官を努め、ユダヤ人問題の「最終解決」すなわち絶滅収容所での大量虐殺を発案し、実行したラインハルト・ハイドリヒを指す。「金髪の野獣」と呼ばれ、ホロコーストの首謀者として恐れられたハイドリヒに仕掛けられた暗殺計画が本書の主題であることは冒頭の20頁ほどを読めば明らかとなる。しかし作者はこの事件を語るにあたって、例えば暗殺者の一人称といった直接話法を採用することなく、一方、歴史的事実を三人称で記述する歴史書のごとき間接話法も用いない。作者は自らハイドリヒが登場するいくつもの映画をDVDで確認したことを報告し、事件の模様が展示された博物館を訪れる。このような記述を通して読者はおぼろげにハイドリヒ暗殺計画の輪郭を知る。暗殺はパラシュートで降下したチェコ人によって試みられたらしい。この暗殺計画は「類人猿作戦」と呼ばれていたらしい。計画を遂行する過程で何らかの不手際が発生したらしい。この暗殺計画に対する報復としてリディツェという村の村民全員が虐殺されたらしい。しかし作者は暗殺の成否そのものについては慎重に断言を避ける。(訳者あとがきではこの点が明言されているから、なるべくあとがきを読まずに本書にとりかかることをお勧めする)
 本書は長短合わせて257の章によって構成されている。ある章でハイドリヒの生い立ちや少年時代のエピソードについて語った後、次の章で作者は友人に自分が今書いている本(もちろん本書のことだ)の感想を求める。このため読者もハイドリヒの物語に没入できず、現実と歴史の間、一人称と三人称の間に宙吊りとなる。読み進める過程で読者は先ほど挙げたクンデラのほかにもロバート・ラドラムやタランティーノの『キル・ビル』といった固有名に出会う。第二次世界大戦前後を扱った物語の中で唐突にまことに現代的な名前に出会う時、私たちは違和感を覚えざるをえない。しかしこのような居心地の悪さの中でこそ、私たちは真に歴史に向かい合うことができるのではないだろうか。つまり一つの歴史的事実について私たちは常に現在から、事後的にしか立ち会えない。あたかも暗殺計画が実行された場に立ち会ったように書くこと、自分たちとは無関係の新聞記事のように事実を記すこと、いずれの方法も歴史に対して誠実ではない。私たちは語られる出来事に対して、自分が現在に位置していることを自覚したうえで過去を語るべきではないか。このような作者の意識は物語の終盤で驚くべき手法によって物語の内容へと転化される。それについて述べることはここでは控えよう。
 私の悪い癖で、本書の形式的側面、語りの問題についてくどくどと述べたが、時折歴史的文書や関係者の日記などを交えながら、断章形式でめまぐるしく推移する物語はサスペンスルフルで読み出したら止まらない。先に述べたとおり、話者はしばしば現在に立ち戻るため最初はとまどうが、読み進めるうちに次第に慣れる。ハイドリヒが生まれた1904年から暗殺事件のあった1942年まで、つまりナチス・ドイツが台頭し、実権を掌握していく重苦しい時代の詳細が多くハイドリヒが関わった具体的な事件を積み重ねて描かれる。突撃隊のレームを粛清したいわゆる「長いナイフの夜」、ハイドリヒの工作によるスターリンの赤軍大粛清、オーストリアの併合、「水晶の夜」と呼ばれる反ユダヤ人暴動、そしてユダヤ人問題の最終解決をめざした絶滅収容所の建設。本書において物語は一方でハイドリヒ暗殺が試みられた1942年5月、プラハというクライマックスに向けてぎりぎりと締めつけられていく。一方で20世紀前半、ヨーロッパで吹き荒れた様々な暴力や裏切りが壮大なタペストリーのようにあらわとなる。ヒトラーやヒムラー、ルドルフ・ヘス、そしてアイヒマン、ジェノサイドという人類史上まれにみる戦争犯罪に手を染めた者たちをめぐって、ナチス・ドイツという組織、政治権力が暴力装置と化して文字通り人々を圧殺していく過程がダイナミックに描出される。本書を読んで私は虚言や食言、差別や扇動といったナチスの指導者の「手口」が、現在の首相や大阪市長に共有されていることをあらためて認識した。本書が一方で暗殺計画に向かう求心性、他方で第二次世界大戦に向かう暴力装置のメカニズムを俯瞰する遠心性を秘めているとするならば、それは先に触れたとおり、現在と過去、二つの時点に軸足を置いた語りに由来しているだろう。
 本書の帯には何人かの文学者や研究者が賛辞を寄せいている。『アメリカン・サイコ』のブレット・イーストン・エリスとバルガス・リョサの賛辞を確認した時点で直ちに私は本書の購入を決めたが、エリスはともかくリョサのコメントは興味深い。なぜならリョサもまた暗殺をめぐるきわめて錯綜した傑作を発表しているからだ。このブログでも触れた『チボの狂宴』である。『チボの狂宴』は2000年に発表され、本書は2009年に出版されているから、リョサが本書の影響を受けたことはありえない。しかし両者は多くの共通点を有す。つまり大統領や政府高官の暗殺というテーマが設定され、物語がその一点に向かって収斂する点、そして暗殺というクライマックス以後の関係者に対する無残な弾圧が一つの主題をかたちづくっている点である。あとがきによればリョサは本書について「フィクションの傑作というよりは、偉大な書物と呼びたい」と絶賛した後で、次のように評しているという。「この平明で曇りのないスタイルは、こけおどしのたぐいを避け、あくまでも自然な語りの背後に留まろうとしているようにみえる。こうして読者は一種、陶酔状態の中で、いつしか語られている事実の時空に運ばれ、ハイドリヒの乗るオープンカーを待ちかまえている二人の若者の熱い内部に文字どおり滑りこんでいく」『チボの狂宴』は20ヵ国語以上に翻訳されているというから、おそらくフランス語にも翻訳されているであろう。私は逆にビネがリョサを読んだことは大いにありうると思う。ハイドリヒの暗殺を図って待ち伏せする二人の男という設定は、『チボの狂宴』の最初、独裁者トゥルヒーリョを斃すために車の中で待ち伏せする男たちとそっくりではないか。私はむしろこの相似に関心を抱く。ブログの中でも論じたが、リョサの小説では三人の話者が順番に語りを務めることによってトゥルヒーリョ暗殺をめぐる物語に奥行きが与えられる。このあたりの小説的技巧の巧みさはリョサならではであるが、リョサは歴史を物語ることになんら疑念を抱いていない。ヴァレリー風に言えばリョサは「公爵夫人は5時に外出した」と記すことにためらいを感じないのだ。しかし登場人物の命名にさえ自覚的なビネにとって、歴史を語ることは決して自明ではない。ビネはリョサのように、三人の話者に語りの全権を委譲することなく、自らも語りの中に介入しつつ物語にかたちを与える。いや、そのように語ることによってしかビネは歴史を語ることのリアリティーを感じることができないのだ。この差異は小説の手管に長けたノーベル賞作家とナイーヴな若手作家の相違であろうか。小説という言葉に信頼を寄せ、見事な物語へと転じる才能、そして言葉を語る自分を意識し、言葉と自分との関係を物語として提示する才能。おそらく全ての優れた小説はこれら二つの立場の中間にあり、私はいずれの小説も大いに楽しんだ。
by gravity97 | 2013-09-25 09:13 | 海外文学 | Comments(0)