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Living Well Is the Best Revenge

レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』

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 出張の移動中、車中で読むために少し長めの小説、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を携える。『長いお別れ』ではなく『ロング・グッドバイ』。1958年、清水俊二の手による翻訳が前者、2007年に村上春樹が新しく訳した内容が後者である。村上が多くの彼自身お気に入りの小説を翻訳していることはよく知られているし、同様に既訳がありながら新たに訳しおろした小説としてはサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(旧訳は野崎孝の『ライ麦畑でつかまえて』)がすぐに思い浮かぶ。ただしなぜであろうか、英語で書かれた小説について私は村上と趣味が全く合わない。これまでフィツジェラルドやジョン・アーヴィングあるいはレイモンド・カーヴァーといった村上のお気に入りについては、時に村上の訳でずいぶん読んだのだが、正直どれもあまり面白くない。(唯一の例外がカーヴァーの「ささやかだけれど、役にたつこと」だ。これについてはこのブログにも記した)逆に私が愛好するポール・オースターやコーマック・マッカーシーあるいはスティーヴ・エリクソンといった作家について村上が論じた文章を読んだこともない。(これまた唯一の例外がイギリス圏のカズオ・イシグロであり、確か村上もイシグロを絶賛していたと思う)私にとってチャンドラーを読むのは初めての体験であった。果たしてこの作家はどうか。
 今回は私も実にすんなりと物語の中に入り込めた。それどころか私はロスアンジェルス郊外で繰り広げられる濃密な愛憎劇から目を離すことができず、一気に読み切ってしまった。殺人があり、謎があり、真犯人がいるからミステリというジャンルに区分されるかもしれない。しかしそのようなジャンル分けを無効にするほどに、この小説は「別格の存在であり、みごとに傑出したものがある」という村上の見立てに私も深く同意する。ストーリーはさほど複雑ではない。主人公は私立探偵のフィリップ・マーロウ。彼はふとしたきっかけでテリー・レノックスという男と知り合う。レノックスはハーラン・ポッターという大富豪の娘シルヴィアの夫であるが破滅的な生活を送っている。何度か杯を重ねるうちに二人には友情が芽生える。しかしある朝、拳銃を手にマーロウの前に現れたレノックスはメキシコへの逃避を手伝うように頼む。途中まで彼を車で送ったマーロウは帰宅するなり、警察に拘束される。シルヴィアが自宅で撲殺されていたのだ。そしてまもなくレノックスがメキシコの僻村で犯行声明を残して自殺を遂げたという知らせが入る。果たして本当にレノックスがシルヴィアを殺したのか。マーロウは独自に捜査を始める。一方、同じ時期、マーロウのもとにニューヨークの出版社から依頼が届く。ロスアンジェルス郊外に住むロジャー・ウェイドというベストセラー作家の身辺警護の仕事だ。いささか芝居がかった状況で依頼者やウェイドの妻と出会ったマーロウは一旦依頼を断るものの、次第にウェイド夫妻とも深く関わることとなる。このような展開から読者はレノックスが引き起こした事件にウェイド夫妻がなんらかのかたちで関わっていることを予想するだろう。しかし物語は単純な謎解きのかたちをとらない。医者や作家や大富豪、物語はアメリカの裕福なサヴァーヴィアンたちの退廃的な生活を活写しながら、驚くべき結末へと向かって進む。かなり長い小説であるが、章ごとの物語の切り返しが巧妙で、意外な事件の連続に読者は最後まで飽きることがない。
 しかし私が興味をもったのは物語の内容以上にきわめてシックな文体である。文体、といっても翻訳小説であるから、この文体の成立には村上春樹自身が大きく寄与しているはずだ。村上自身、文庫版に付した長いあとがきの中で、自分が最初にこの本を読んだとき、なによりもその「文体の普通でなさ」にショックを受けたと記している。私には原文のニュアンスはわからないが、確かにこの小説の魅力はストーリーの展開や小説的技巧以上に、まず文体にある。もっとも文体という言葉で何を指すかは難しい。村上はあとがきの中で村上なりにチャンドラーの文体について分析しているが少々わかりづらい。少し長くなるが、まず私が強く印象に残った二つのパッセージを引用しよう。

テリー・レノックスとの最初の出会いは〈ダンサーズ〉のテラスの外だった。ロールズロイス・シルバー・レイスの車中で、彼は酔いつぶれていた。駐車係の男は車を運んできたものの、テレー・レノックスの左脚が忘れ物みたいに外に垂れ下がっていたので、ドアをいつまでも押えていなくてはならなかった。酔っ払った男は顔立ちこそ若々しいが、髪の毛はみごとに真っ白だった。泥酔していることは目を見れば明らかだが、それをべつにすれば、ディナー・ジャケットに身を包んだ、当たり前に感じの良い青年の一人でしかない。人々に湯水のごとく金を使わせることを唯一の目的として作られた高級クラブに足を運び、そのとおり金を使ってきた人種だ。

女はほっそりとして、かなりの長身だった。高級な仕立ての白い麻の服を着て、白と黒の水玉模様のスカーフを首に巻いていた。髪はおとぎ話に出てくる王女を思わせる淡い金髪だ。小さな帽子をちょこんとかぶり、淡い金髪がそこに巣の中の小鳥のように収まっていた。瞳は矢車草のブルー、あまりない色だ。まつげは長く、はかないばかりに白い。彼女は通路を隔てた向かいのテーブルに行って、肘まで隠れる白い長い手袋をとった。年寄りのウェイターが彼女のために恭しくテーブルを引いた。私がウェイターにそんな立派なテーブルのひき方をされることはきっと死ぬまであるまい。彼女は腰を下ろし、バッグのストラップに手袋をはさみ、ウェイターに微笑みかけ、礼を言った。

最初はこの小説の冒頭、マーロウがレノックスに初めて会う場面、二つ目もやはりマーロウが小説の主要人物であるウェイド夫人を初めて目にするシーンの描写だ。直ちに情景が浮かぶような鮮やかな描写である。二人の人物がまずその外面において記述される。しかしこれは客観的な描写ではない。いずれの文章も後段にマーロウのコメントが加えられていることからわかるとおり、これはマーロウの視点から見たレノックスとアイリーン・ウェイドの描写なのだ。かくのごとくこの小説はすべてマーロウの視点から語られている。文中でも一人称が用いられているから、このような視点の設定自体はなんら不自然ではない。興味深い点は一人称が用いられているにもかかわらず、マーロウの内面描写が全くない点である。当然ながらこの点には村上も注目し、次のように述べている。「我々はフィリップ・マーロウを主人公とするいくつかの物語を読み、様々の事象についてのフィリップ・マーロウの所見のありようを知ることになる。行動の基本的様式のようなものを理解することになる。(中略)ところがそれによって、我々が少しでもフィリップ・マーロウという人間の本質を理解できたかというと、おそらくそんなことはない。我々がそこで理解するのは、あくまでもフィリップ・マーロウという『視点』による世界の切り取られ方であり、そのメカニズムの的確な動き方でしかない。」村上はここから「仮説システム」という難解な概念を提起するが、むしろ今引いた説明の方がわかりやすい。一人称を用いながら、語り手の内面について全く語らない語り。これはきわめて独特な姿勢であり、私はこのような語りが先に述べた独特の「文体」に由来していると思う。つまりチャンドラーにあって「文体」とは、修辞の巧拙や語彙の豊かさ、比喩の巧みさといった問題とは関係なく、端的に世界との関わり方、村上の言葉では「世界の切り取られ方」であるからだ。物語を通してロスアンジェルスの退廃した上流社会はあたかもマーロウという存在によって分光されていくかのようだ。マーロウはいわばプリズムであって、私たちはプリズムをとおして世界を知るが、プリズムそれ自身については何の知識も得ることができない。このような話者は私にとっても大いに新鮮であった。通常であれば私たちは一人称を用いた小説を読み進める中で、次第に語り手について知り、多くの場合、語り手に共感しながら物語を共有する。確かに私たちはシニカルなマーロウの感慨に触れ、時に手荒で時に繊細な彼の行動を追うことによって、タフでジェントルな(『プレイバック』中の有名な台詞だ)マーロウという私立探偵にシンパシーを抱くかもしれない。しかし私たちは決して彼の内面にまで踏み込むことはできないのだ。マーロウという人物のなんともいえない魅力もこのような語りと深く結びつく。私たちは彼を通して物語の中に導かれながらも、彼の本性については何一つ知りえない。
 この点はヨーロッパ文学とアメリカ文学の区別を考えるにあたって一つの手がかりになるかもしれない。村上も書いているとおり、心理描写を削ぎ落とした「文体」の先例としてはヘミングウェイが思い浮かび、(私は未読だが)チャンドラーが師と仰ぐダシール・ハメットにも同じ傾向があるらしい。あるいは私はこの系譜の端にこのブログでも何度か取り上げたコーマック・マッカーシーの異様な「文体」を直ちに位置づけることができると思う。読者は登場人物の内面を知ることなく、描写される事実によってそれを忖度するしかない。かかる姿勢はイギリスやフランスの心理小説の伝統、あるいは「意識の流れ」を主題とした一連の作品の対極にある。ジョイスやプルーストを想起すれば理解されるとおり、このようなヨーロッパ的伝統は一方でモダニズム文学の正系をかたちづくりながらも、あまりに洗練、主知化されたために一般に受け容れられるものではなかった。これに対してヘミングウェイ以降のアメリカのハードボイルドが、チャンドラーにみられるとおり、時にジャンル小説に分類されながらも大衆の支持を受けたことは興味深い。(この点でフォークナーはきわめて微妙だ。この問題はそれ自体で一個の論文の主題となるだろう)そして私が感銘を受けるのはチャンドラーがかかる独特の文体を一人称の話者とともに駆使している点である。今挙げたヘミングウェイからマッカーシーにいたるアメリカの「非情の文学」の系譜においては多くの場合、三人称が用いられているはずだ。なぜなら一人称を用いながら、語り手の内面に一線を引いた描写とはそれ自体が二律背反、矛盾した語りであり、叙述の難度がきわめて高いからだ。最初に述べたとおり、チャンドラーは今回が初読であるため、私はマーロウが登場するほかの小説を読んだことはない。しかし村上のあとがきによればチャンドラーは20年の間にフィリップ・マーロウを主人公とする小説を7冊発表しているという。ほかの小説でも同様の文体が用いられているとするならならば、今指摘した困難を勘案するに、奇跡的な仕事といえるのではなかろうか。村上はチャンドラーという作家が「生きていくために文章を書くことを必要とし、たとえそれがどんなものであれ、うまく書かないわけにはいかなかった」と述べ、作家への深い共感と敬意を示している。それはおそらく村上も同じモラルを自らに課しているからであろう。チャンドラーと村上、作風としては大きく異なりながらも、両者は小説家としての職人性、書くことへの敬虔さにおいて共通する。村上がこれまで本書を時に訳書で、時に原書で何度となく読み返すに飽き足らず、ついには自ら翻訳した理由は明らかだ。本書は二人の稀代のプロフェッショナルによる麗しき協同の結実なのである。
by gravity97 | 2013-08-27 21:31 | 海外文学 | Comments(0)