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Living Well Is the Best Revenge

「アンドレアス・グルスキー展」

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 国立新美術館で「アンドレアス・グルスキー」展を見る。グルスキーの作品は日本でも既にいくつかの展覧会で紹介されており、私も初見ではない。しかしいずれもグループ展の中での紹介であったのに対して今回は日本で初の大規模な個展であり、巨大な作品の数々に圧倒された。私は写真の専門家ではないが、展示の中でもしばしば触れられていたとおり、グルスキーの作品は写真という文脈よりも、現代絵画あるいは現代美術との関係において検討した方が理解しやすい。彼の作品はデュッセルドルフ芸術アカデミーでベルント&ヒラ・ベッヒャーに学んだことに多くを負っており、私は一種のコンセプチュアル・アートとしてとらえることさえ可能ではないかと考える。
 ひとまず上に掲げたイメージ、カタログの表紙とされた2007年の《カミオカンデ》から始めてみよう。ポスター等にも使用され、おそらく今後グルスキーの代表作の一つとみなされるであろうなんとも壮麗なイメージだ。タイトルからわかるとおり、これは岐阜県飛騨市の神岡鉱山の地下深くに建設されたニュートリノ検出装置スーパーカミオカンデの情景だ。それは5万トンの超純水を湛えた直径39.3メートル、深さ41.4メートルの円筒形のタンクであり、その内部には光電子増倍管と呼ばれる円形のセンサーが無数に設置されている。上部から差し込む光によって内部は黄金色に満たされ、戦慄的な光景が広がっている。もっともタイトルもしくは説明がなければここに繰り広げられているのが一体いかなる風景なのか、そもそもそれが風景であるかさえ理解することは困難だ。しかしこの作品は内部に一点、そのヒントを含んでいる。画面右下を注意深く見るならば、そこにはゴムボートに乗り帽子をかぶった二人の人物を認めることできる。今述べたとおり、このタンクは超純水で満たされているから、ゴムボートが存在することは不思議ではない。しかし実際にこの写真が撮影された際には破損した光電子倍増管の修理のために水は抜かれており、二人の人物や周囲が映り込んだ水面はグルスキーが撮影した写真をデジタル的に処理する過程で付加されたという。直ちに一つの疑問が浮かぶだろう。なぜ作家はことさらに人物の姿を情景の中に加えたのか。予想される解答の一つは、作家が作品を抽象的なイメージとして捉えられることを嫌ったというものであろう。実際、この展覧会に出品された作品はほとんどが具体的な対象に依拠しており、タイのチャオプラヤー川の水面を撮影して一見抽象的な「バンコク」連作においても、よく観察すると川面に浮かぶ油やゴミが見てとれる。あるいは《カミオカンデ》と近似した黄金のイメージ《カタール》もいかなる施設を撮影したものか判然としないが、同様に床にうずくまる小さな人影を確認するならば、具体的な建築の内景であることが了解される。
 しかしここに付加された人物はさらに興味深い問題へと私たちを導く。美術史学を学んだ者であれば、《カミオカンデ》からカスパー・ダーヴィト・フリードリッヒが描いた一連の風景画を連想しないでいることは難しい。フリードリッヒの絵画においても壮大なスケールの自然、あるいは自然現象を前に手前に多く後ろ向きの人物が小さく描き込まれる場合が多い。この場合、人は一つにはスケールの指標であり、人の大きさと比べることによって描かれた光景の壮大さが理解される。そしてさらに重要な点は後ろ向きの人物という、観者が自らを最も投影しやすいイメージによって、私たちも絵画の中に招き入れられるのである。ジェラール・ジュネットが焦点化と呼ぶ作品と享受者の特殊な関係を敷衍して、ロバート・ローゼンブラムがさら問題を深化させたことはよく知られている。ローゼンブラムはフリードリッヒの絵画にみられる圧倒的な存在を前にした人間が抱く感情を崇高と呼び、同様の感情が抽象表現主義絵画、特に色面抽象絵画を前にした観者にも共有されていると説く。典型的な例を挙げるならば、断崖の上に立って茫漠とした空間に対する人物を描いたフリードリッヒの《海辺の僧侶》に対して、同様に茫漠としたイメージを描いたロスコの巨大な絵画。そこでは絵画内から現実へと審級を転じたうえで、人を圧倒し、理解を絶した存在を前にした超越的な体験が繰り返されるのであり、ローゼンブラムはそれを抽象的崇高と呼ぶ。既に指摘されている点であろうが、崇高という概念はグルスキーの作品を分析する際にも有効である。私たちはそれが入り組んだかたちで実現されていることに注意しなければならない。今述べたとおり、フリードリッヒとロスコを比較するならば、フリードリッヒにおいて画中の人物は自らの前に繰り広げられる風景に圧倒され、私たちはそれらの人物と同一化することによって崇高を追体験する。これに対してロスコの場合、私たちは現実の中で絵画という異様な存在に直面し、直接に特殊なセンセーションを感じる。つまり崇高の感覚はフリードリッヒにおいては間接的、ロスコにおいては直接的なのである。グルスキーの場合、崇高の感覚は両方に関わる。《カミオカンデ》において私たちは二人の人物に目を止めることによって、ここに展開する風景の壮大さを理解する。しかし仮に二人に気がつかなかったとしても、黄金色の円盤がオールオーバーに配置された巨大で異様なイメージを前にして感受されるセンセーションはロスコと共通するだろう。ここできわめて興味深い問題が発生する。それは写真のサイズという問題だ。写真がアイコン記号、インデックス記号のいずれであるかは軽々に断ずることができない問題であるが、通常、写真においてサイズはその本質に非関与的な要素と考えられている。パスポートの写真がビルボード大に拡大されたとしても私たちは同じ人物だと認識することができる。しかしグルスキーの場合、実際の作品とカタログに小さく掲載された《カミオカンデ》は全く印象が異なるのだ。つまり小さな図版であれば、二人の人物は見過ごされる可能性が高く、ここに広がる情景の意味が認識されない。(「カミオカンデ」が実験施設の名称であることは日本人でも知らない場合が多いだろう)この作品を十全に享受するためには画面内に人の姿を認知することが可能な大きさ、つまり会場芸術として通用しうる作品のサイズが必要とされるのだ。私の印象ではこれまでグループ展でグルスキーが紹介された機会において作品は比較的小さく、この意味でも作品の本質は今回の展示で初めて明らかとなったのではなかろうか。現実に作品に直面する体験が作品の本質そのものに深く関与するという点において確かにグルスキーと抽象表現主義絵画は共通する。
 今、私はグルスキーの作品を崇高という概念と関連させて論じた。彼の写真において崇高はどのように実現されているのか。もう少し詳しく分析してみよう。まず明らかなのは被写体の想像を絶するスケールである。多くの作品は内部に人を写し込んでいるため、情景のスケールを想定することが可能であり、多くの場合、とてつもない広がりや高さを有している。被写体のスケールは人間の身体をはるかに超え、インド洋および南極大陸を撮影したイメージにいたってはもはや地図的な想像力なくしてその広がりを理解できない。おそらく航空写真ないし衛星写真が用いられたのであろうが、私はこれほどの広がりを純粋に視覚に還元できる技術が存在すること自体に大きな驚きを抱いた。かかるヴィジョンに対してもはや人間的な視覚は対応しえず、グルスキーの作品が内包する一種の非人間性はこの点に由来しているだろう。第二にグルスキーの構図は対象が画面に対して強い正面性ないし垂直性を宿している場合が多い。初期の代表作である《モンパルナス》はパリのアパルトマンを正面から撮影し、巨大なグリッドの連なりとして提示したものである。これほどの広がりを単視点でとらえること、そして画面全体に焦点を合わすことは不可能であるから、おそらく数台のカメラで撮影された映像をデジタル技術によって繋ぎ合わせたのであろうが、この意味でもここに実現された視覚は非人間的といえよう。グルスキーのイメージはスケールにおいても知覚においても人間のそれを絶しており、それゆえ崇高という感情へと接続されるのである。
 正面性ないし垂直性の問題は別の角度から美術史に介入する。フリードリッヒの絵画が茫漠とした広がりを示していたのに対して、グルスキーの画面は意図的に奥行が消去され、私たちの視線を遮断する。アパルトマンの正面、ショーケース、空港の電光掲示板、グルスキーの作品には視線を正対して遮断する多くのモティーフが用いられている。奥行の拒絶といってもよいだろう。アスバラガス畑の遮光用の黒いビニールのストライプを無数に反復させた《ベーリッツ》は本来であれば水平的な広がりの情景であるはずなのに、航空写真に基づいているのであろうか、一切の奥行を欠いた平面的なイメージとして成立している。グルスキーは広がりをもった対象に対しては水平な、高さをもった対象に対しては垂直な視覚を設定することによって、画面から奥行の暗示を排除する。消失点に向かう奥行は透視図法と呼ばれ、絵画史に決定的な役割を果たした。別の観点に立つならば、奥行の排除とは画面から時間を排除する試みでもある。遠近法が消失点に向かって物語を起動させたのに対して、グルスキーの写真には時間がない。1990年の《東京証券取引所》と99年の《シカゴ商品取引所》を比較するならば(いずれも広い空間を撮影しているにもかかわらず、鳥瞰的な構図によって平面的な印象を与えている点に留意されたい)ともに無数の人々が働いている情景であるが、前者ではぶれやずれによって人物の動きと時間が暗示されているのに対し、後者はほとんどそのような要素がないために時間が静止している印象がある。さらに北朝鮮のマスゲームを撮影した《ピョンヤン》においてこのような印象は強められるが、マスゲームとは元来観客や独裁者に対して一つの壮大な情景を細切れに与える試みであるから、このような非時間性に適したモティーフと考えることができるだろう。崇高と時間の関係についてはすでにバーネット・ニューマンの絵画との関係において、作家本人による「崇高は今」、そしてJ.F.リオタールによる「崇高と前衛」という二つのテクストの中で論じられている。私はこの問題をさらに敷衍して、マイケル・フリードがモダニズム絵画の理念として掲げた現在性、presentness という概念とも対比してみたいと考えるが、本論の中で分析することはさすがに私の手に余る。このブログでも触れたとおり、フリードは2008年に『なぜ、写真は今、かつてないほど美術として重要なのか』という写真論を上梓しており、当然ながらグルスキーも取り上げられている。私は不勉強でこの研究書を通読していないが、今、手元で調べたところでは、特にグルスキーの作品が現在性という問題との関係で検証された形跡はないようである。
 出品作中に一点、美術館に展示された作品を撮影した写真がある。ニューヨーク近代美術館が所蔵するポロックの《ワン:ナンバー31》を正面から撮影した《無題Ⅵ》である。この作品もきわめて興味深い。美術館に展示された作品を撮影する写真家としては直ちにトーマス・シュトルートが連想されるが、グルスキーの問題意識は全く異なり、視覚の軸性と関わっているのではないか。周知のごとくポロックの絵画は床に敷いたカンヴァスに上方から絵具を撒布して制作された。つまりグルスキーの構図はポロックのアトリエの天井から制作中の作品を見下ろした視覚に一致し、それは実際にカンヴァスの上でアクションを繰り広げるポロックの視覚とも共通している。上方からの視覚、先に私はそれを航空写真と関連させたが、かつてロザリンド・クラウスがポロックのアクション・ペインティングを航空写真との類比によって論じたことも想起されてよかろう。航空写真とグルスキーの視覚の一致は暗示的である。モダニズム絵画との関連に関してはカタログのテクストの中でグルスキーの作品が平面性という観点からクレメント・グリーンバーグのモダニズム理論と関連づけられていたが、見当外れに感じられる。グルスキーの作品の特性を挙げるならば平面性ではなく、立面性もしくは正面性を指摘すべきであろう。確かに奥行の欠落はグルスキーの作品の特質であるが、それはメディウムの自己言及とは関係なく、カメラと被写体の位置関係によって結果的に生じた特質ではなかろうか。この時、ポロックの絵画を撮影した作品は抽象表現主義とグルスキー、平面性と立面性の差異を象徴的に示しているように感じられる。
 展示にはもう一点、ポロックを連想させる作品が出品されている。ゴミの集積が地面を覆う風景を撮影した《無題Ⅷ》である。廃物が水平に撒き散らされた風景はロバート・モリスのスキャター・ピースのようだ。先にも述べたとおり、水平的な風景を直立させる手法はグルスキー特有であるが、この作品をポロックに結びつけるのは(画面の上方、地平線より上には何も写っていないにせよ)画面が中心を欠いたオールオーバー構造をとっている点だ。多くの作品を通じてオールオーバー構造もグルスキーの作品の特徴である。これまで私はグルスキーにおいて作品に崇高性を賦与する要素として被写体のスケール、正面性、非時間性、さらに作品が物理的にはらむ巨大さ、あるいは垂直性などを指摘した。オールオーバーネスもまたかかる特質と関わっている。今挙げたランダムなオールオーバーネスはグルスキーにおいてはむしろ例外的であり、この作家を特徴づけるのは単位が無限に反復して構成される規則的なオールオーバーネスだ。上に掲げた《カミオカンデ》もその例であるが、牛舎や書棚、オフィスやアパルトマンの窓枠が気の遠くなるほど繰り返される情景はグルスキーのイメージの典型であろう。反復がミニマリズムの基本的な語法であったことはいうまでもない。しかしこれほどまで執拗に繰り返されることによって、そして画面の巨大さを介して、画面はミニマリズムの凡庸の美学を超えた崇高の美学へと達しているのではないか。(この点に関してはごく初期の《ガスレンジ》と後年の《タイムズ・スクエア》の比較が有効かもしれない)あるいはロスアンジェルスのディカウントショップの内部を撮影した《99セント》。食品や日常用品、スーパーに山積みにされた商品はポップ・アートにとっても格好の主題であり、写真家は明らかに美術史を参照している。ここでも商品の棚が水平に反復され、安物の(なにせ「どれでも99セント」なのだから)商品がぎっしりと詰め込まれた情景は奥行に向かうことなく見る者に向かって立ち上がるかのようだ。壮大な風景、異様な建築から崇高という概念が喚起されることは不思議ではない。しかしここではビスケットやジュース飲料がところ狭しと並べられた何の変哲もないスーパーマーケットの光景が異化され、一種の衝撃とともに見る者に迫る。それを崇高と呼ぶことはためらわれもするが、劇的な内容を一切欠いた、全てが均等化された画面が与えるセンセーション、日常の光景さえも反復と巨大化という形式的な操作を介していわば「即物的崇高」の感覚を宿すという発見はミニマリズムと崇高という問題を考える際にも多くの示唆を与えるだろう。
 最後に展示の手法について述べておく。作家は来日したということであるから、作品の配置は作家に帰せられるはずだ。興味深い試みがなされていた。カタログはクロノロジカルな配列となっているが、実際の展示においては制作年やテーマがシャッフルされ、「バンコク」や「オーシャン」などのシリーズ、建築の内景を撮影した作品、群衆を撮影した作品といった共通性をもつ作品も集められることなくばらばらに配置されていた。時間軸や主題に沿って作品を見る経験に慣れた私たちにとってやや困惑する経験であったが、これも一種のオールオーバーネスの経験かもしれない。このような配置は作家の成熟と作品の類型というモダニズム美術の前提に異を唱える。この点においても現在にいたるグルスキーの仕事を形式的にしばしば比較されるバーネット・ニューマンやケネス・ノーランドの「画業」と比較することは意味があるかもしれない。さらにこのような姿勢はグルスキーの師であったベルント&ヒラ・ベッヒャーがまさに類型という概念によって作品を制作したことへの批判としてとらえることはできないだろうか。まことにグルスキーの作品から誘発される思考は際限がない。
 なお、下に示した図版は今回の出品作であるが、今回の展示風景ではない。作品のスケールを示すために掲げた。
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by gravity97 | 2013-07-23 20:12 | 展覧会 | Comments(0)