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Living Well Is the Best Revenge

宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』

宮内悠介『ヨハネスブルグの天使たち』_b0138838_13553198.jpg このところの日本の若手作家によって発表されたSFの充実には驚きを禁じえない。私は必ずしも熱心なSF読みではないから、決して近年発表された作品を体系的、網羅的に読んでいる訳ではない。しかし例えばこのブログで取り上げたいくつかの作品はSFというより日本文学としても特筆に値する内容であり、ほかにも同様に優れた作品をいくつも挙げることができる。今回取り上げる『ヨハネスブルグの天使たち』も1979年生まれの書き手によって昨年から今年にかけて発表された驚くべき連作である。私はこの作家の作品を読むのは初めてであるが、この作品は第二作であり、山田正紀賞を受賞した同名の短編を収めたデビュー作『盤上の夜』も傑作という呼び声が高い。
 五篇から成るこの連作短編集はいずれも近未来を舞台とする。順に列挙するならば、「ヨハネスブルグの天使たち」「ロワーサイドの幽霊たち」「ジャララバードの兵士たち」「ハドラマウトの道化たち」「北東京の子供たち」。タイトルが韻を踏んでいることが理解できよう。(ただしタイトルを含めたすべての章に全く異なった英文タイトルも付されており、少年期をニューヨークで過ごしたという作者のプロフィールがうかがえる)ここに掲げられた五つの地名は最初と最後を除いて私たちにとって必ずしも判明ではないが、ロワーサイドとはマンハッタンの南部であるからニューヨークを指し、ジャララバードとはアフガニスタン、ハドラマウトはイエメンの地名である。地名自体が既に暗示的だ。ニューヨークや東京が舞台になることはまだわかる、しかしここではアフリカや中東(イエメンと聞いて直ちに位置がわかる者はさほど多くないはずだ。イエメンはアラビア半島南東部に位置し、アデン湾をはさんでソマリアに対している)といったあえていえば辺境がことさらに選ばれているのだ。この点は興味深い。本書の帯には「伊藤計劃が幻視したヴィジョンをJ・G・バラードの手法で描く」という惹句が記されているが、バラードはともかく、伊藤計劃が関わった二つの小説、すなわち『虐殺器官』とこのブログでも触れた『屍者の帝国』においてもインドやタンザニア、アフガニスタンといった地域が主要な舞台とされていた。さらに私はこの数年に見て印象に残ったいくつかの映画も連想する。このブログで触れた「アルゴ」、「ゼロ・ダーク・サーティー」、そして同じ監督による「ハートロッカー」、リドリー・スコットの「ワールド・オブ・ライズ」と「ブラックホーク・ダウン」。発表された時期や扱われた現実の事件には幅があるが、いずれも中近東やアフリカという「第三世界」を舞台としている。それらはいずれも「シェルタリング・スカイ」や「イングリッシュ・ペイシェント」に見られた優雅な「オリエンタリズム」とは無縁の実に殺伐とした印象のフィルムだ。この理由は明らかであろう。日本を含む西欧において中東およびアフリカの表象は一つの事件を契機として劇的な変貌を遂げた。それはいうまでもなく2001年の同時多発テロであり、この結果、パキスタンからアフリカにいたるイスラム世界から帝国主義的な「オリエンタリズム」の幻想は一掃され、理解を絶した他者として表象されることとなった。世界観の断絶、この意味においても本書は象徴的である。それは単に第二章「ロワーサイドの幽霊たち」が同時多発テロを扱っているからではない。全ての章に登場し、一見ばらばらの物語の統一性を保証する日本製のホビー・ロボット、DX9が永遠の落下の相として表現されるからだ。女性をかたどったロボットDX9は「ヨハネスブルグの天使たち」においては南アフリカに遺棄された日本企業の耐久試験施設でひたすら落下試験に耐え続け、「東東京の子供たち」では崩壊しつつある団地の住人たちの意識を投影されて団地の屋上から列をなして飛び降りる。シジフォスの苦行のごとく、無限の落下を繰り返すひとがた、それはまことにポスト9・11的な表象ではないか。興味深いことには既にいくつかの小説の中で同じ表象が用いられている。ドン・デリーロの『墜ちてゆく男』についてはこのブログで論じた。あるいはリービ英雄の「千々にくだけて」の中の次の一句。「見て、百十階の窓からOLが飛び下りている」
 DX9とは金持ち向けの道楽として開発された女性をかたどった歌うロボットである。製品としては楽器として扱われ、「歌姫」という通称をもつ。このロボットは最初のエピソード、「ヨハネスブルグの天使たち」の中で一人の技術者によって決定的な改造を加えられ、意識を書き込むことが可能とされた。人が人格の一部を機械に転移させるというモティーフからは神林長平の一連の作品が連想されようし、PCの中のアヴァターに熱狂する人々、SNSのアカウントごとに別人のようにふるまう人々を思い起こすならば、人と機械の境界にあるDX9の存在は決して荒唐無稽ではないだろう。
 9・11テロ、泥沼のような内戦、廃墟と化した郊外団地。ここで描かれる近未来の人間たちを取り巻く状況は苛酷であり、それに対応するかのように五つの物語に登場するDX9の運命もまた壮絶である。ヨハネスブルグのDX9は遺棄された実験施設の中でプログラムに組み込まれた落下試験を実行するために高所からの飛び降りを繰り返し、ジャララバードでは顔を削がれて喉をつぶされたDX9が文字通り動く地雷として戦場に投入され、逆にハドラマウトでは人間の戦士たちが自らの人格をDX9へ転写したうえで自爆テロへと出撃する。これらのエピソードは肉体と記憶の交換不可能性という哲学的な問題と接する。同じ問いが近年の優れたSFにおいても繰り返し問われてきたことは今までに何度か触れた。これまで私たちは自分の意識や身体は唯一であって代替不可能と考えてきたが、先に述べたとおり、今日、サイバー空間を介して私たちは別の自分、多様な自我の可能性を瞥見できるようになった。平野啓一郎が『ドーン』のなかで提起した「分人」という発想もこの問題と関わっているだろう。自己が一つにして多であるという発見。もはやそれは解離性同一性障害といった精神病理学の問題ではなく技術的に可能な選択肢となりつつあるのではないか。同一性と多様性は共存しうるのだ。
 私はこの小説の主題は同一性と多様性の抗争ではないかと考える。かかる主題はそれぞれのエピソードの中で自在に変奏されている。多様性とは人種や宗教のそれでもあるから、南アフリカやアフガニスタンを舞台としたエピソードにおいてこの問題は比較的明瞭に察知され、「ハドラマウトの道化たち」には多様性を教義とする新宗教の教祖さえも登場する。DX9というガジェットはこの意味でも象徴的だ。楽器という出自が示すとおり、本来それは個性を欠いた大量生産品である。しかしそれらは個人の意識を書き込まれることによって個別化され、多様性を得る。DX9においても同一性と多様性は共存する。詳細は記さないが、「ヨハネスブルグの天使たち」のエピソードの最後の場面において、登場人物の一人が500年にわたる民族間の流血を止めるために、「民族であることをやめる」と宣言する場面が感動的でさえあるのはこの理由による。この意味において本書はアシモフに始まる人間と人間機械(マン=マシーン)との交渉をめぐる物語の最新バージョンと考えることができるかもしれない。
そして現在、私たちの現実においても同一性と多様性は鋭く対立している。今日、猖獗を極めるグローバリゼーションとは世界を市場原理という単一の価値基準に還元し、利潤を唯一的な価値として駆動する「世界機械」である。私は今、このブログでも以前に論じたギュンター・アンダースの著書から言葉を引いたが、「ヨハネスブルグの天使たち」においても機械が物語の中心を占めている点は暗示的だ。それはポスト9・11の世界において、もはや人間に居場所がないことを示唆しているようではないか。本書を構成する五篇のエピソードは駆動するグローバリゼーションの治下においては東京やニューヨークもジャララバードやハドラマウトと等価になった状況を象徴している。そして今この国は同一性と利潤追求を旗頭にする愚かな為政者たちによってさらなるグローバリゼーションの奈落に突き落とされようとしている。果たして私たちは新たな多様性を組織することによって、本書に描かれた悪夢の世界の到来を防ぐことができるだろうか。
by gravity97 | 2013-06-24 14:02 | エンターテインメント | Comments(0)