中村文則『掏摸』

b0138838_20361624.jpg 中村文則の作品を読むのは初めてではない。以前に『最後の命』という長編を読んだことがある。面白くなかった訳ではないが、暴行殺人、ホームレス同士の集団レイプ、あるいは自殺念慮といった主題があまりに重いというか露悪的に感じられて、辟易した。今回、本書を読んだこともあり、いくつかの短編に目を通してみたが、児童虐待や性犯罪といった物語の連続にいささか食傷してしまう。それらと比較する時、本書はきわめて完成度が高い。本書が大江健三郎賞を受賞したこともうなずける。全くの偶然であるが、私はこの一月ほどの間にこの賞を受賞した作品を立て続けに読んだ。岡田利規の『わたしたちに許された特別な時間の終わり』と星野智幸の『俺俺』、そして本書である。全くテイストの違うそれぞれにめちゃくちゃな小説に自らの名を冠した賞を与える選者大江の感覚も相当に凄い。岡田の作品については以前、岡田の演劇論と関連してこのブログでも触れたが、これら三冊は個別に論じるに値するだろう。
 ひとまずは中村文則の『掏摸』について。以前より世評の高かったこの小説を文庫化されたタイミングで通読する。タイトルのとおり掏摸(すり)を生業とする男の一人称によって語られるこの物語も実に重い。扱われるテーマは掏摸にはじまり、殺人、売春、万引き、そして育児放棄。登場する人物もことごとく救いがない。この意味で本書はほかの中村の小説とさほど変わるところがない。なぜ本書は特に優れているのか。それは一見、現代風の風俗をとらえながらも、作者が世界文学の中で繰り返し問われてきた普遍的な主題に正面から取り組んでいるからだ。この点を論じるうえでは内容に深く立ち入る必要がある。具体的なストーリーの細部にも触れることを断ったうえで若干の分析を加えたい。
時系列はやや錯綜するが、ストーリー自体は比較的単純である。腕のよい掏摸として都会の雑踏にまぎれこんで生活する「僕」は、かつて一緒に仕事をした立花という男と出会う。仕事といってもまともな仕事ではない。闇の組織に誘われて、主人公と仲間の立花、石川の三人はある老人の家に押し込み強盗を働いたのだ。正確にいえば、三人は命じられたとおりに老人ではなくそこにいた家政婦兼愛人を縛り上げて監視し、同行した名も知らぬ男たちが老人から金と書類を奪ったのであった。三人は自分たちの役目がさほど必要とも感じられないことに不審の念を抱きつつも、報酬の500万円を受け取って別れる。名のない男たちを途中まで車で送るように命じられた石川は別れ際に「僕」に翌日の待ち合わせ場所を記したメモをこっそりと渡す。しかし翌日指定した場所に石川は現れず、生き延びたければ口を閉ざせという何者かからのメッセージがその場にいたホームレスの老人の口をとおして「僕」に伝えられる。時をおかずして、書類の強奪が目的と聞かされていた強盗事件の現場で老人の死体が発見され、おそらくこの強盗殺人と関係があるいくつもの殺人や自殺がほぼ同時に発生していたことを「僕」は知る。闇の組織の巨大な陰謀が進められていたのだ。再会した立花は「あれが、また何かやるらしい。巻き込まれないうちに消えたがほうがよい」と不気味な忠告を残して姿を消す。
 同じ時期に「僕」は近くのスーパーで幼い息子に万引きをさせる女と出会う。「僕」から店側に疑われていることを耳打ちされてあやうく検挙を免れた薄汚い女は1万円で自分を買わないかと「僕」を誘う。まことにこの作家らしい救いのないエピソードを経て「僕」は次第にその少年にシンパシーを抱くようになる。おそらく「僕」も子供の頃に親から虐待を受け、少年にかつての自分を投影していることが暗示される。「僕」は少年に万引きや掏摸のテクニックを教え、両者の間には人間的な交流が生まれる。少年が母親と暮らす男から暴行を繰り返されていることを知り、「僕」は少年が保護施設に入所できるように手続きを始める。その矢先、「僕」は思わぬかたちで先の強盗事件の首謀者である木崎という男と再会する。「僕」が知らずして木崎から財布を盗み取ろうとした場を取り押さえられたのであるが、この再会は木崎によって計画されたものであり、木崎は「僕」に掏摸としての腕を生かしてこれから数日のうちに三人の男から三つの品を盗めと命じる。木崎は「僕」が完全に木崎の支配下にあることを宣告した上で、もし逃げれば女と少年を殺す、失敗した場合は「僕」を殺すと告げる。前回の強盗と同様にその目的や背景は語られることがない。「僕」は果たしてこの仕事をやり遂げることができるか。ここではその帰趨については触れない。
 木崎という男の造形が秀逸である。「ブランドのわからない黒のスーツを着込み、サングラスをし、ブランドのわからない時計を左手に巻いて」登場した木崎は、その場にいたやくざ風の男たちを一瞬にして威圧する。ドストエフスキーの「罪と罰」を知っているかと問いかけた後、木崎はそこにいた男の一人をいきなり理由もなくめちゃめちゃに殴打し、「突然こういうものを見ても動じないことだ」と告げる。ほとんど理由が説明されることのないこの男のふるまいから、私はこのブログでも論じた一つの小説の登場人物を連想した。コーマック・マッカーシーの『ブラッド・メリディアン』中の「判事」である。残虐なインディアン狩り集団に随行する容貌魁偉なこの巨漢は虐殺したインディアン部族の中から一人の少年を救い、しばらく連れ回した後、思い出したように殺してその頭皮を剥ぐ。意味を欠いた酷薄な行動は木崎と判事に共通し、主人公たちに不気味な寓話を語る点でも似ている。あるいは圧倒的な存在感をもちながらほとんど人物の背景が語られない点において同じマッカーシーの原作をコーエン兄弟が映画化した「ノーカントリー」に登場し、ハビエル・バルデムが怪演した不気味な殺し屋が連想されるかもしれない。
 現実にありうるあらゆる悲惨を詰め込んだ点でこの小説はリアリズムかもしれない。しかし木崎という男の存在はリアリズムを内部から食い破る。例えば石川は行方をくらまし、「僕」はホームレスの老人から警告を受け取る。これが現実であるならば、石川は強盗を実行した名前のない男たちからおそらくは暴力を受けて「僕」と横浜で待ち合わせしたことを自白させられた後に殺されたのであろう。実際、木崎は石川が「消えたよ、跡形もない。正確にいえば、歯だけ残っている」と「僕」に告げる。この小説の中には絶えず暴力の風が吹いている。しかし木崎をめぐる暴力は超越的で現実感がない。人間的な個性をもたず、絶対悪を体現したかの木崎は一つのメタファーではないか。中村は文庫版のあとがきで次のように書いている。「この小説を書く前、『旧約聖書』を読んでいた。偶然ではなく、もちろん意図的に。この小説には、そのような古来の神話に見られる絶対的な存在/運命の下で動く個人、という構図がある」木崎がドストエフスキーについて尋ねる場面も象徴的だ。「僕」に対して絶対的な存在としてふるまう木崎とは神、もしくは運命の暗喩ではなかろうか。木崎は「僕」に対して、もはや自分の命令を受け容れるより術がないことを宣告したうえで次のような寓話を語る。奴隷制度が存在していた頃、あるフランスの貴族が使用人として美少年を買い取る。貴族はその少年の一生をあらかじめノートに書き込んだうえでその通りの人生を送るように差配する。偶然に起きたような出会いや別れも全ては貴族によって段取りされたものであった。最後に貴族は少年にノートを見せて、少年の一生があらかじめ自分によって定められていたことを知らせ、そこに記されているとおりに少年を殺すというものだ。これが神、あるいは運命と人との関係であることは明白だ。木崎は次のように語る。「他人の人生を、机の上で規定していく。他人の上にそうやって君臨することは、神に似ていると思わんか。もし神がいるとしたら、この世界を最も味わっているのは神だ。俺は多くの他人の人生を動かしながら、時々、その人間と同化した気分になる。(中略)あらゆる快楽の中で、これが最上のものだ」この小説ではこれまで多くの作家によって繰り返し問われてきた神と人との関係が再話されているといってもよかろう。中村が小説の中で繰り返し凄惨な事件、残酷な境遇に置かれた人々を主題とするのは一方ではかかる状況の中にあっても神、あるいは神の摂理は存在するかというまことにドストエフスキー的、あるいは「ヨブ記」的な問いかけであり、この問題は直ちに私たちは真に自由であるかという問いにつながる。中村はクリスチャンではなかろうし、私たちが生きる現在はもはやかかるナイーブな問いを許す時代ではない。ことにあの3月11日以降、来るべき震災という迫り来るカタストロフ、放射能汚染という潜み行くカタストロフの下にいる私たちにとって、突然犬のように殺されたり、住む土地を追われたりすること、理不尽な苦痛を味わうことはありえないどころではなく、大いにありうる未来なのである。
 神なき時代にあって生の無残さといかに対峙するか。この問題は20世紀文学においても一つの主題系を形成している。セリーヌやカミュ、あるいは今挙げたマッカーシーを挙げてもよい。私たちはこの系譜をいくらでも拡張できる。しかし神という問題が直接に作品で言及されることの少ない日本において、この問いは十分に深められたとは言い難い。今述べたとおり、この小説は神、この言葉がそぐわなければ、運命や摂理と言い換えてもよいが、かかる存在と個人の関係を正面から主題に据えた点において異例であり、そして本書は両者の対立を超えた一つの地平を垣間見させる点において注目に値する。本書は18の章から成立しているが、終盤近くにストーリーとは直接関係のない奇妙な断章が挿入されている。それは「僕」が子供の頃から幻視した「塔」についてのエピソードだ。不幸な少年時代に「僕」は他人から盗むことを覚える。「光が目に入って仕方ないなら、それとは反対に降りていけばよい。(中略)今こそ、あの塔は、僕に何かを言うだろうと思った。あの塔は長く長く、立ち続けていたのだから。だが、塔はなおも、美しく遠くに立つだけだった。恥の中で快楽を感じた僕を、肯定も、否定もすることなく。僕はそのまま目を閉じた」このパッセージにこそ本書の核心が凝縮されている。木崎が支配する世界、神によって定められた世界のさらに背後に屹立する塔のイメージは鮮烈で喚起的だ。主人公は塔に励まされるかのように、かかる残忍な世界の中でも自らの意志をもって生きようとする。小説の最後で「僕」は木崎から掏った500円硬貨を空中に投げる。このエピソードに先に触れた「ノーカントリー」の原作であるマッカーシーの『血と暴力の国』においても、殺し屋アントン・シュガーが相手を殺す前にコインを投げて、裏か表のいずれであるかを問うイメージの反映を見ることは深読みに過ぎるだろうか。空中に投じられたコインとは自由意志の象徴であり、これゆえこの希望のない小説は結末で一縷の光明が差す。
 あとがきによれば、本書には『王国』という続編が存在するらしい。投じられたコインはいかなる未来を照らしたか。読まなければなるまい。
by gravity97 | 2013-05-26 20:42 | 日本文学 | Comments(0)

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