ホルヘ・ルイス・ボルヘス編『バベルの図書館 アメリカ編』

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 半年ほど前から国書刊行会よりボルヘスの『バベルの図書館』が重厚な装丁のもとに新編として刊行され始めた。私の記憶によれば同じ内容のアンソロジーは既に同じ版元から出版されていたが、確か作家ごとにまとめられていたため、いちいち買い求めるには煩雑であり、私は長く敬遠していた。今回の新編は作家ごとではなく国ごとの合本、つまりアメリカ編、イギリス編、フランス編、ドイツ・イタリア・スペイン・ロシア編、ラテンアメリカ・中国・アラビア編の五部によって構成され、イギリス編のみ二巻、ほかは一巻にまとめられている。以前より関心をもちながらも、読むきっかけがなかった作家が多く収録されていることもあり、この機会に最初に刊行されたアメリカ編をやや時間をかけて通読する。
 周知のごとく「バベルの図書館」という叢書はアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが古今東西の文学の中から選りすぐった短編のアンソロジーである。したがって同じ叢書は日本以外でも出版されているはずであり、著作権に関する表記からおそらく最初イタリアで刊行されたのではないかと思われるが、、本書にはこのアンソロジー全体についての編者の意図の説明や翻訳者による解説が付されていないため、このあたりの事情はよくわからない。興味深いことにはボルヘス自身の短編集『伝奇集』の中にもやはり「バベルの図書館」という短編が収められている。ボルヘス自身もアルゼンチン国立図書館の館長を務めたというエピソードはさておき、無限を内包する図書館の構造の仔細について論じたこのメタフィクション自体もこのブログの一篇を用いて応接すべき深みを備えているが、ひとまずは措く。以上の説明からも『バベルの図書館』という叢書の特異性は明らかであろう。それはボルヘスという稀代の碩学が選んだ世界文学の見本帳であり、地域にしてアメリカからヨーロッパ、アラビア、時代にして『聊斎志異』からカフカまでを包摂する奇跡のような集成なのである。数カ国語に通じたボルヘスがコスモポリタンであることはいうまでもないが、それでもなお、かかる試みがアルゼンチンというヨーロッパからも北アメリカからも周縁とみなされる地域の文学者によってなされたことの意味は大きい。英語圏、特にイギリスの作家にやや比重が置かれていることはボルヘスが幼時より英語に親しみ、イギリス式の教育を受けたことが反映されているかもしれないが、ポーやワイルドはともかくマイリンク、パピーニといった私が初めて聞く作家を動員して世界文学を編集するという発想は一種のグローバリゼーションではないか。もっともかつて『汚辱の世界史』の中に吉良上野介の項目を認めて驚いた私としてはさもありなんというラインナップでもある。
 前置きが長くなった。本書の内容について触れよう。本書に収録される作家は五名、ナサニエル・ホーソーン、エドガー・アラン・ポー、ジャック・ロンドン、ヘンリー・ジェイムス、ハーマン・メルヴィルという面々だ。私はいずれの作家の作品も興味深く読んだ。メルヴィルのみ一篇、あとの作家は五篇ほどの短編が収められている。もちろん私は彼らの名前は知っていたし、ポー、ロンドン、ジェイムスについては随分昔に短編を読んだ記憶がある。これらの作家は現在でも真剣に読むつもりであれば主要な作品を日本語で読むことは不可能ではなかろうが、アメリカ文学の専門家でもなければなかなか手に取る機会のない作家であり、どの短編を読むべきかに関しては途方にくれてしまう。この時、優れた読み手によってまとめられたアンソロジーはよきガイドブックになる。先にこのブログでは池澤夏樹が編んだ世界文学の短編集について論じたことがあるが、池澤同様にボルヘスもまた信頼に足る小説の読み手である。彼の選択を信じることなしに私は生涯のうちにこれらの短編を読むことがなかったかもしれない。
 ボルヘスは1899年生まれであるから、その一生は20世紀に重なる。ここに収められた作品は彼が作家としての自我を形成した時期に読み込んだ小説であり、当然その大半が19世紀に発表されている。(収録作品については原題のみ記されているが、書誌的には少なくとも発表年についても明記してほしかったと思う)したがって大半の作品は20世紀の小説を読み込んだ私たちにとっては少々古めかしく感じられる。しかし決して古びてはいない。後で記すとおり私はこれらの小説を読んで、現代の日本の小説についても考えるところがあったのだ。少々乱暴な議論となることを承知したうえで述べるならば、小説において19世紀と20世紀を分かつものがあるならば、それは「物語を語る」ことが無前提に許されているか否かという点ではないだろうか。20世紀以降、文学はなぜそれが言語によって表現されなければならないかということを常に問題としてきた。この言い方が強すぎるならば、言語によって表出されるという自覚なくしては成立しえなくなったといってもよい。それをモダニズムと呼んでもよかろうし、形式への関心といってもよかろう。20世紀文学において視点や人称、意識の流れや時制といった問題が探求されたのはこのような理由による。これに対して19世紀以前の文学においては作家の関心は主として何を語るかという点に向けられた。それゆえバルザックならば社会、ドストエフスキーならば神といった重厚きわまりない主題を臆面もなく扱いながら多くの傑作に結実させることができたのだ。(むろんこれは彼らが作品の形式に無関心であったことを意味しない)重厚な主題に対しては重厚な小説。19世紀が長編小説の時代であったことには理由がある。しかし『バベルの図書館』に収録され、ボルヘスが好んだのはむしろ短編であった。それではこれらの短編で作家たちは何を語ろうとしたのであろうか。
 確かに本書に収められた作家は『白鯨』を著したメルヴィルを除いて短編の書き手が中心である。ほかの巻に収録された作家たちも国籍こそ異なるが、いずれも短編作家として知られ、それゆえ比較的知名度の低い作家たちである。まだアメリカ編を通読しただけの時点で、結論づけることは早計に過ぎるかもしれないが、私はこれらの小説の多くに共通する特質を見出したように感じる。それは「奇譚」を語るという姿勢だ。試みに劈頭のホーソーンの『ウェイクフィールド』を読んでみよう。ボルヘスが「文学における最高傑作の一つ」とまで激賞するこの短編はタイトルのとおり、ウェイクフィールドなる奇矯な人物の「失踪」をめぐる物語である。平凡な生活を送っていたウェイクフィールドはある日、旅行に出かけると言って妻のもとを立ち去り、そのまま失踪する。しかし実は彼は隣り合わせの通りに部屋を借り、妻にも友人たちにも知られることないまま20年以上暮らし続けていたという話である。しかもこの小説の核心は物語が語り始められると直ちに読者の前に開陳されている。「文学における最高傑作の一つ」であるかどうかはともかく、実に奇妙な小説といえよう。ちなみに辞書で「奇譚」の語を引くと、「世にも珍しく興味ある話」という定義がなされているが、本書に収められた短編、例えば催眠術によって死を遅延させる試み、残忍なコサックに囚われた毛皮泥棒のたくらみ、軍人の名門一族の屋敷に出没する幽霊、これらの物語はいずれも奇譚と呼ぶにふさわしい。これと関連して、ここに収められたテイストの異なった作品のいくつかに共通する一つのモティーフが見出せることは興味深い。ホーソーンの「人面の大岩」、ロンドンの「影と光」、ジェイムスの「私的生活」、本書には収録されていないがここにポーの不気味な短編「ウィリアム・ウィルソン」を加えるならば、いずれの小説もダブル(分身)、もしくは双子という主題系列に連なっている。もちろん作品によってこのモティーフはさまざまに脚色されており、そのヴァリエーションを読み比べることも本書の大きな楽しみであるが、ダブル、分身の物語とは古今東西を問わず、奇譚の典型であり、おそらく『バベルの図書館』の他の巻にも同じモティーフが頻出することを私は現時点で断言できる。
 ボルヘスもまた奇譚の作家であった。例えば「記憶の人、フネス」、「不死の人」、「死後の神学者」。これらの短編はそのタイトルを読んだだけで「世にも珍しく興味ある話」が語られることが予想される。『バベルの図書館』とはまさに一個の想像上の図書館として彼がこれらの作品を執筆するうえで参照される書架であり書庫であったといえるかもしれない。そしてもう一冊、「奇譚」という言葉から私が連想するのは村上春樹の『東京奇譚集』である。この短編集の冒頭で村上は次のように語る。「どうして僕がここに顔を出したかというと、過去に僕の身に起こったいくつかの『不思議な出来事』について、じかに語っておいた方が良いだろうと思ったからだ」村上は自分が語るのは奇譚であることを言明したうえで、相互に無関係な五つの物語を読者に差し出す。この短編集に限らず、村上の小説はなにものかの侵入によってごく普通の日常を送っていた主人公が「不思議な出来事」の中へ投げ出されるという構造をとる場合が多い。例えば『バベルの図書館』中、語り手が経営する法律事務所に新たに雇われた男の奇妙なふるまいを描いたメルヴィルの「代書人バートルビー」などは村上の短編とよく似た構造を有しているといえよう。
 偶然であるが、私はボルヘスが編集したこの長大なアンソロジーを読む途中で、その中に挟み込むように一冊の新刊を読んだ。いうまでもなく村上の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』である。たまたま同じ時期に読んだため、私は村上の小説が本質的に奇譚と深く関わっていることにあらためて思い至った。村上の新刊においてもサブストーリーとして一つの奇譚が語られる。それは主人公である多崎つくるの友人の灰田、正確には灰田の父親の話として語られる、人の背後に色彩が見える男の話である。ただしこの奇譚は必ずしもうまく機能していないように感じられる。このエピソードはメインストーリーとかみあうことなく灰田とともに物語の途中で退場してしまうのだ。私はこの奇妙なタイトルの小説をそれなりに楽しんで読んだが、語られる内容と物語の長さが村上としては珍しく不調和な印象を受けた。本稿は村上の新刊について論じる場ではないので、これ以上踏み込んで論じることはしないが、私は先に奇譚の典型として分身ないし双子という主題を挙げた。初期の村上の作品、例えば『羊をめぐる冒険』においても双子という主題が見え隠れしている点については既に蓮實重彦が指摘している。したがって少なくとも村上において奇譚を語ることは必ずしも短編ばかりと結びつく訳ではない。あるいは奇譚の積み重ねによって作品が成立するガルシア・マルケスや現代風の綺譚にカフカ的なひねりを加えたポール・オースターのような作家を想起してもよいだろう。19世紀の短編小説を特徴づける奇譚という語りは今日においてもきわめて有効な物語の原理なのである。
「文学とは幸福というものの数ある多様な形態のうちの一つである」とはボルヘス自身の言葉だ。本書を通読して、そして私が読んでいない『バベルの図書館』がなお5冊も残されていることを知る時、私はこの言葉に全面的に同意する。b0138838_9424537.jpg
by gravity97 | 2013-04-27 09:47 | 海外文学 | Comments(0)