石川拓治『三つ星レストランの作り方』

b0138838_15233455.jpg 大阪、肥後橋駅の近くにHajimeというフレンチ・レストランがある。2009年にミシュランが大阪、京都版を刊行した際にいきなり三つ星を得て話題になった店である。(現在は二つ星)オーナーシェフは1972年、枚方生まれの米田肇。シェフとしては遅咲きの米田に密着して、その修業時代から今日までを記録したのが本書である。
 巻頭にアミューズからデセールまで米田が作った美しい料理の写真が掲載され、本文は第一の皿「ひらめ」から第十の皿「恵」までそれぞれ料理の名を取った10章によって構成されている。読み始めると、いきなり米田の料理を食べた際の印象が絶賛の言葉の繰り返しとして記されている。批評の対象が何であろうと、私はこのように対象と密着した書きぶりが好きではない。また図版として示されたそれぞれの皿はあまりにも美しく、過度に洗練された料理は苦手な私としては、正直言って(今はほとんど予約がとれないというが)もし機会があっても特に食べたいとは思わない。これらの理由によって、さほど気乗りしないまま本書を読み始めたが、通読してみるとなかなか味わいのある内容であった。
 最初の章においてHajimeで味わった料理の印象が語られた後、第二章では2009年、ミシュランで三つ星を得た際の米田の対応が描かれる。書名に三つ星という言葉があるから、ミシュランのエピソードから語り始められることは当然といえば当然であろうし、全く無名であった米田のレストランを訪ね、「正当に」評価したミシュランの調査員たちを筆者の石川は高く評価する。以前このブログでも述べたとおり、私はミシュラン的な評価をさほど意味のあるものとは考えないし、後述する華麗な職歴を考えるならば、いくら新しい店であったとしても米田の店が専門家によって注目されていたことは明らかであろう。むしろ注目すべきは米田の醒めた態度だ。米田はミシュランの三つ星をエベレストの山頂に喩え、最初からそこに行こうと決意しなければ絶対に到達えないと説く一方で、それはスタートラインにすぎないと述べ、自分が求める料理はミシュランの三つ星より遙かに高いところにあると言明する。傲岸にも聞こえる言葉であるが、この言葉に米田の料理に向かう姿勢の本質が露わにされている。
 最初に米田の生い立ち、そして大学を卒業して一般企業に就職した後、本格的に料理人を志すまでの経緯が記される。小学校時の作文に「一流の料理人」になることが夢だという一文があるから、シェフへの道は予想できないものではなかったとはいえ、一般の大学と企業に進んだ後、身を翻して辻フランス料理専門カレッジに入ったのは25歳の時である。料理人をめざす者としてずいぶん遅いスタートであることは私にも理解できる。石川は米田のバックボーンを形成するにあたって関与したであろういくつかの要素を指摘している。まず彼の母親が料理上手であったこと、数学が得意であったこと、そして正道会館で空手を学び、かなりの腕前であったことなどだ。さらに石川は米田が学んだ辻調理師専門学校を設立した辻静雄と米田の実際にはありえなかった邂逅を夢想する。辻は米田が入学する5年前に亡くなっている。私もかねてから辻の書いた一連のフランス料理に関するエッセーや研究書、あるいは海老沢泰久の書いた辻の評伝などに親しんできたので、石川の思いはわからないでもない。米田の歩みが語られると同時に、日本におけるフランス料理の歴史、あるいは米田の少年時代、1980年前後の関西におけるフランス料理への関心の高まりなども記され、私たちは米田の立つ位置をおぼろげに想像することができる。
 学校での短い修業を経て、米田は実際にレストランの厨房に入る。この際のエピソードが興味深い。米田は一番厳しい店を紹介してほしいと学校に希望を出し、当時、大阪で最も名の知れた店の厨房に入る。店の名前が記されていない理由はすぐわかる。この店の厳しさは常軌を逸しており、殴る蹴るは当たり前、スタッフは次々に夜逃げ同然に店を辞めていったという。この店は昼も夜も満席のいわゆるグラン・メゾンであり、もしも当時ミシュランが存在したならば、三つ星に一番近いレストランで会ったと書いてあるが、そのような豪奢な店の厨房がかくのごとき修羅場であったとはにわかには信じがたいが、理解できないでもない。アミューズからデセールまで一日400皿以上の料理を完璧に調えることを課せられたシェフのストレスは想像に絶する。そのはけ口はスタッフに向けられて、仕事上の不始末や不注意を理由に胡椒挽きやパイ皿、土鍋で殴られたという。米田も精神的に追い詰められ、一年ほどで店を辞める。しかし米田はこの経験、そして件のシェフに対して今では恩義さえ感じるという。米田は学校で学んだことが、野球でいえばルールブックを作ったにすぎないということを知る。ルールを知ることと実際にプレーすることは異なる。料理についての知識をもっていることと実際に料理を作ることは別であることを米田はこの厨房で知ったという。そして米田は自分の店をもつ際に、かつて自分を殴ったシェフの思いを理解することとなる。
 最初の店を辞めた米田は運良く神戸のフレンチ・レストランに採用される。この店もパリの三つ星レストランで修業した優秀なシェフを擁する高級店で、店の名前も明記されている。米田はここで自らの仕事の本質を悟り、料理人として覚醒する。次の目標はフランスに渡り、現地で修業することである。米田は30歳になるまでにフランスに渡るという夢をかなえ、ロワールのジビエ料理で知られた「ベルナール・ロバン」という二つ星のレストランで修業を始めた。この店で彼は水を得た魚のごとく、多くを吸収し、一流のシェフに向かって成長していく。労働許可取得をめぐる軋轢や油絵に対する才能の開花(本書のイラストは全て米田自身の手による)といったエピソードを織り交ぜながら、「ベルナール・ロバン」から「オー・ランデヴ-・デ・ペシュール」、そして「ミシェル・ブラス トーヤ ジャポン」へと店を移りながら成長していく米田の姿が描かれる。洞爺湖のウィンザーホテルの中にある「ミシェル・ブラス」は伝説的なシェフ、ミシェル・ブラスが世界中でただ一軒開いた支店である。スタッフの多くはライヨールという村にある本店の経験があり、毎年11月にはミシェル・ブラス本人が来日して料理を作るのである。ここで米田は本店においてはブラス自身が担当するヴィヨンドと呼ばれる肉料理担当のシェフを務め、来日したブラスから直接に指導を受ける。この時のエピソードも印象的だ。「ベルナール・ロバン」でジビエ料理、「オー・ランデヴー・デ・ペシェール」で魚料理の経験を積んだ米田は自分の包丁さばきには絶対の自信があった。ところが米田が鳩の胸肉を切り分けているのを見たブラスは上手ではないと評し、代わりに包丁を握る。胸肉への火入れと包丁の研ぎ具合についてはブラスも満足している。つまり問題は切り方なのだ。米田は次のように語る。「ミシェルの包丁を握る手のどこにも力が入っていない。剣の達人が棒ですっと肉の表面を撫でたら、肉が切れていたみたいな感じだった。思わず彼が切った肉の断面を見たら、これが何と言えばいいか、すごく美しいんです。頭を抱えました。自分では切ることに自信を持ってました。そのときだって、いつもどおり完璧に切ったんです。(中略)自分が世界一とは言わないけれど、本心を明かせば、世界一とそれほど大きな差はないというところくらいまでは来ていると思ってたんです。ところが、とんでもなかった。その時、これは怖い世界だなって思いました。包丁のことだけじゃないということに気づいたんです。今回はたまたま包丁だけに目が行っただけのことであって、ミシェル・ブラスが見ている世界というのは、お皿の選び方から、盛りつけから、火入れから、何から何まで全部、そのレベルでやってるんじゃないかって思ったんです。僕には見えてなくて、ミシェル・ブラスにだけ見えてる世界があるんじゃないか」滞在中、ブラスは何度となく米田の包丁さばきを検分しては駄目出しを重ねる。シェフが近づくことに恐怖を感じたのは最初に入った大阪の店以来であったという。何度も手を動かしているうちに米田は遂にブラスの境地を会得する。「切ろう切ろうとしているうちは駄目だったんです。切ることを忘れて、切るというか。あくまで感覚的な話だけれど、切るんじゃなくて、境目みたいものがあって、そこで肉を分けるという感じに近い。自分でもその感覚がつかめたと思った瞬間があって、それからミシェルはもう来なくなったんです」この言葉から私は中島敦の「名人伝」中の「不射の射」のエピソードを連想する。国内外のいくつもの名レストランを転戦し、ほぼ毎日肉を切り分けることを自らに課してきた米田にとってさえも「射の射」ならぬ「不射の射」の境地に達するにはブラスという「名人」の指導を必要とした。まことに料理という世界の奥深さを感じさせるエピソードである。
 このエピソードを最後に米田は「ミシェル・ブラス」を辞して、念願の自分の店を構える準備に入った。父の死が一つの契機であり、妻が二人目の子供を懐妊したことも転機の理由であっただろう。兵庫県の実家に戻り、関西各地で店としての適当な物件を探す。この作業も難航するが、最後に米田をとらえたのはビストロ向きの小さな空間ではなく、本格的なフレンチ・レストランを作るという考えであった。不眠不休の準備の果てに2008年5月にHajimeは開店する。完璧主義の米田が設えたレストランであるから、内装から家具、メニューからHPまで全てに米田のこだわりが生かされていた。しかし米田の思いは空回りする。初日は友人の客が二人だけ。翌日から米田は店を三日間閉めてスタッフに接客の訓練をする。当然であろう。米田はシェフとしては一流であっただろうが、レストランはシェフだけで成り立っている訳ではない。元々米田はシェフ・ドィ・パルティ、部門シェフであったから、レストラン全体を統括した経験がないのだ。「ほんとに素人のスタッフしか集まらなかったんです。フォアグラも見たことがないという人を何人も教えていましたから。食器洗いも、営業中は私が全部やってました。スタッフに任せると食器が山ほどたまって、仕事が回らなくなるんです。私は3人前は動けるから、食器をぶわーっと洗って、料理を盛りつけて、魚焼いて、肉焼いて、また食器洗ってって、ほとんど一人でやってました」このような仕事が報われるはずはない。最初に入った大阪の店のように、米田自身がスタッフを殴打することこそなかったが、米田が求めるレヴェルまでスタッフを育てることはまた別の苦労であったはずだ。しかし本書の中で明かされるいくつかのエピソードを介して、次第にレストランがかたちを整えて認知されていく様子、そして米田の料理に驚嘆する関係者の姿が浮かび上がる。かかる努力の結果が2009年、開店以来最短の記録とともに獲得したミシュランの三つ星であっただろう。米田は最初から三つ星をめざしていた。米田はパリの三つ星レストランの共通点を探り、米田によればそれは料理の洗練度であったという。もちろんこのような感慨については三ツ星レストランに縁遠い私としてコメントすらできないが、一つの目的に向かってきわめて綿密かつ知的に作業を進める姿勢からは、従来の天才肌、もしくは直情的な料理人というより、理詰めで料理の可能性を探る技師や職人の姿が連想されよう。このような態度は私が料理人に期す資質とは大いに異なるようにも感じるが、それについてここでは述べない。
 最初に引いたとおり、米田にとってはミシュランの三つ星はスタートラインにすぎなかった。それでは彼が求める遙かに高い目標とは何であろうか。最後の章がこの問題と関わっている。おそらく米田ならずとも名シェフは同様の悩みを抱えるのではないか。つまり日本人シェフによるフランス料理とは何か。果たして日本人にフランス料理をつくることはできるのか。さらに言えば、なぜ日本人がフランス料理を作らなければならないかという問いかけだ。おそらくこの時点で、米田はミシュランという権威からも自由になったのではないか。最初に記したとおり、今、Hajimeは「三つ星レストラン」ではないが、おそらく米田はそれを気にかけてはいない。それは米田がミシュランというフランス由来の「グローバル・スタンダード」から解放されたことを暗示している。最後の章で、昨年、米田が店名から当初Hajime以下に付されていたフランス語表記を取り去り、シンプルなHAJIMEという店名に変えるとともにディナーのみの一営業形態に変えたことが記されている。それはおそらく米田の料理がフランス料理とか日本人とかいったカテゴリーを超えた、食べることの真髄に達したということではないだろうか。それは一体どのような境地、どのような料理なのであろうか。おそらく私は今後も米田の料理を食べることはないと思う。しかし本書を通読して、私はあらためて料理とは人が一生を賭けるに値する創造であり、そして卓越した料理を味わうという行為もまた人の文化の根源に触れる営みであるという思いを強くした。モネを見ること、プルーストを読むことと同様にそれは私たちが生きている理由なのだ。
by gravity97 | 2013-04-15 15:27 | エピキュリズム | Comments(0)