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Living Well Is the Best Revenge

「アルゴ」 「ゼロ・ダーク・サーティー」

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 最近、近似したテーマを扱う二つの映画を続けて見る機会があった。一つは今年度のアカデミー賞作品賞を受賞したベン・アフレックの「アルゴ」、もう一つはキャスリン・ビグローの「ゼロ・ダーク・サーティー」である。偶然ではあるが、二つの映画はいずれもCIAのエージェントを主人公として、アメリカと中東の関係を主題としている。しかし内容は正反対というか、ポジとネガとでも呼ぶべき物語となっている。今回は両者を合わせて、そして深い関係をもつもう一本の映画にも触れつつレヴューしておきたい。
 まず最初に二つの物語の粗筋を紹介しておく。まだ見ていない読者の興趣を多少削ぐことになるかもしれないが、いずれの映画も史実に基づいているから、あらかじめ内容を知っていたとしても十分に楽しめるだろう。具体的には「アルゴ」ではテヘランのアメリカ大使館人質事件の際にカナダ大使公邸に匿われていた大使館職員の救出作戦、「ゼロ・ダーク・サーティー」では9・11同時多発テロの首謀者とされるウサマ・ビンラディンの所在を突き止め、暗殺するミッションが描かれる。「アルゴ」では冒頭でパーレビ国王の圧政に反抗して蜂起した民衆が革命によって国王を追放し、アメリカ大使館に抗議のデモを繰り広げるまでの様子が記録映像を用いて紹介される。革命後の1979年11月、パーレビ王朝をアメリカの傀儡とみなす群衆はアメリカ大使館になだれ込み、大使館員を人質にとる。いわゆるアメリカ大使館人質事件である。この混乱の中で6人のアメリカ大使館職員がカナダ大使の公邸に逃げ込み、秘かに匿われる。イランの革命政府は彼らの存在を知らない。彼らを「アルゴ」というSF映画のロケ地の調査のためイランを訪れた映画関係者と偽り、国外に救出させるべく潜入するCIAエージェントの極秘任務を描いたのが「アルゴ」である。身分を偽っていることが露呈すれば処刑されるかもしれないという恐怖と戦いながら、イスラム革命防衛隊の捜索をかいくぐって巧みに偽装工作を行う主人公たちの物語はサスペンスフルであり、エンターテインメントとしても楽しめる。一方、「ゼロ・ダーク・サーティー」もまた冒頭で物語の背景もしくは前提が語られる。しかしこちらでは画面には何も映示されず暗闇の中でいくつもの声が重ねられる。それが9・11の同時多発テロの犠牲者たちが遺した肉声であることは語られる内容から直ちに理解される。続いてアラブ系と思われる男性に対して延々と繰り広げられる拷問の様子が映し出される。CIAの職員による容赦ない拷問は同時多発テロを実行したアル・カーイダの首領ビンラディンの所在を突き止めることが目的だ。「ゼロ・ダーク・サーティー」の主人公はマヤというCIAの女性分析官である。最初はその凄惨さに眉をひそめていた彼女も泥沼のような拷問とテロの応酬の中で何かに憑かれたかのようにビンラディン追跡にのめりこんでいく。ロンドンでの爆弾テロなど現実に起きた事件も随所に配されているが、すべてが事実か否かについては私には判断できない。おそらく関係者の協力もしくは内通があったのであろう、機微に触れる内部情報も多く盛り込まれており、実に生々しくビンラディン追跡の内幕が描かれる。外車ディーラーのショールームにおける関係者の買収、携帯電話の電波を用いた容疑者の特定、物語はサスペンスフルというよりむしろリアルである。マヤは様々な情報を分析してパキスタン国内にビンラディンが潜む邸宅を特定し、ゼロ・ダーク・サーティー、つまり深夜0時30分と定められたビンラディン急襲の瞬間へ向かってストーリーが収斂していく。
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 この二つの映画は構成にもよく似ている。つまりいずれの物語も最初から予想されるクライマックスに向かってじりじりと収斂していく。すなわち「アルゴ」では大使館員たちのテヘランからの脱出、「ゼロ・ダーク・サーティー」においてはビンラディンの殺害である。前者はいわば隠密的な作戦であったから、これまで私たちが知るところは少なかったとはいえ、おそらく両者が成功裡に終わることを観客は予想しながら物語の帰趨を見守る。クライマックスはテヘラン空港での尋問とパキスタンにおけるビンラディン襲撃である。考えてみればいずれもアメリカという国家によるイランとパキスタンの主権侵害にほかならない。密出国幇助と秘密部隊による暗殺攻撃、どちらも他国の領土内における一種の軍事行動である。しかし二つの映画の後味は大きく異なる。「アルゴ」において大使館員たちを乗せたスイス航空の民間機がイラン領空を脱するラストシーンからは(私がこの映画を日本に戻る帰路のフライトで見たことも影響しているのであろうが)大きなカタルシスが得られたのに対して、同様に成功した作戦から航空機で帰投するシーンであるにもかかわらず、「ゼロ・ダーク・サーティー」の最後、涙を流すマヤのクローズアップはカタルシスからはほど遠い。これは単に前者の任務が救出に関わり、後者のそれが暗殺であるからだろうか。私は後者があらかじめ一つの不在によって呪われていたのではないかと感じる。
 二つの映画の共通点はほかにもある。いずれも語りの視点が主人公たちの側にのみ与えられている点だ。「アルゴ」においては処刑された死体がクレーンに吊されたまま街頭に放置されている情景など、革命防衛隊の暴力が随所で暗示される。しかし実際に彼らはほとんど画面に登場せず、登場したとしても主人公たちの作戦行動の理由や結果を説明する役割しか与えられていない。「ゼロ・ダーク・サーティー」においてはこの点はさらに明瞭で、マヤたちが追うアル・カーイダの構成員たちはCIAの捜索や拷問の対象、つまり主人公たちの関係においてしか描かれることがない。革命防衛隊やアル・カーイダは焦点化されることがないので、私たちはアメリカの視点と論理に従いながら物語を追うことを余儀なくされる。「アルゴ」に対して反革命のプロパガンダ映画としてイラン政府が強く抗議したというエピソードは十分に理由がある。エンターテインメントの骨格をもつ「アルゴ」においてはこのような単視点がそれなりに機能している。私たちはCIAのエージェントや人質たちと一体化し、偽装工作や脱出工作に立ち会う。相手側の動きを知ることがないため、工作の成否は予断を許さず、このため、私たちは最後の瞬間まで脱出の帰趨から目を逸らすことができないのだ。これに対して「ゼロ・ダーク・サーティー」において私たちは主人公のマヤに必ずしもうまく焦点化することができないように感じる。いくつかのヒントとなる事件やエピソードは暗示されるもののマヤの心理の変化、感情の起伏に同調することは難しい。最後まで見終わってもマヤが見せた涙の意味を理解することは困難である。このような不透明感は実はこの映画の全体に漂っており、「アルゴ」の明快さと対照的である。この由来を問うために私は説話的にほぼ同じ構造を有すもう一つの映画を召喚したい。スティーヴン・スピルバーグの「ミュンヘン」である。
 この不吉なフィルムもまた報復と暗殺の物語である。1972年9月、パレスチナ・ゲリラ「黒い九月」はミュンヘン・オリンピックの選手村を襲撃し、イスラエル選手団を人質にとり、イスラエル政府に仲間の釈放等を要求する。イスラエルはこれを拒否し、ドイツの治安当局との銃撃戦の末、ゲリラと選手団の大半が射殺された。この悲惨な事件を受けて、当時のイスラエル首相ゴルダ・メイヤーは主人公であるアヴナーにヨーロッパ各地で活動するパレスチナ人指導者の暗殺を命じる。アヴナーは数名の仲間とともに次々に暗殺計画を実行する。しかし彼らもまた命を狙われ、アヴナーらは不安と恐怖の中で任務を遂行していく。全編にわたって殺戮の応酬が描かれるこの暗欝きわまりない映画はスピルバーグの作品としては珍しく、カタルシスや救いとは無縁である。きわめて興味深いことに「ミュンヘン」もまた「ゼロ・ダーク・サーティー」と同様に冒頭部で物語の起点が示される。いうまでもなく、それは「黒い九月」のメンバーによる選手村襲撃、正確には選手を偽装したテロリストたちがフェンスを乗り越えて選手村の中に忍び込む情景である。(この場面を物語の起点とみなすことには四方田犬彦から強い異議が呈されているが今は措く)最初に歴史的な惨事が示され、それへの国家的な応答/報復としてストーリーが組み立てられている点は「ゼロ・ダーク・サーティー」と同様だ。最後に任務、つまり関係者の暗殺を果たすも精神を病んだアヴナーが暗殺指令を下した上官とニューヨークで再会する場面がある。川沿いの公園を歩く二人の背後に映り込むのが同時多発テロで倒壊した二棟のビルであることはあたかも「ミュンヘン」から「ゼロ・ダーク・サーティー」までひとつながりであり、我々が暴力の連鎖の中に生きていることを暗示するかのようだ。しかし私が論じたいのはこの点ではない。「ミュンヘン」においてアヴナーを精神錯乱にまで追い込んだのは単なる罪悪感や恐怖ではないだろう。それは冒頭に示されたミュンヘン・オリンピック襲撃と関係者の暗殺という自分たちの任務の間に明確な関係が結べない不全感ではないか。彼らはローマで、アムステルダムで次々に標的を殺害する。しかしなぜ彼らを殺害しなければならないか、その理由は最後まで不明のままだ。このためであろうか、起点となるオリンピック襲撃事件の情景はきわめて不自然なかたちでフィルムの中に挿入される。先ほど述べたとおり、冒頭部ではフェンスを乗り越えるテロリストたちが示されるだけだ。選手村内での虐殺は物語の中途で突然挿入される。さらにこの事件のクライマックスであるミュンヘン空港における銃撃戦にいたっては映画の最後のシークエンス、アヴナーが寝室で妻と性交するシーンに重ねられ、銃撃戦の中で人質たちが順番に射殺される場面はアヴナーの射精の瞬間と同期さえするのである。私は劇場でこの場面を見て気分が悪くなったことを覚えている。このような屈折はこのフィルムが原因と結果という単純な説話の図式に収まらないことを暗示しているのではないか。物語全体が悪夢を見ているように、トラウマとなったシーンが間歇的に物語の意識を襲うのだ。
 ひるがえって「ゼロ・ダーク・サーティー」はどうか。私はこの映画もまた不全感に満たされているように感じる。「ミュンヘン」でオリンピック襲撃事件の後、関係者の暗殺が唐突に命じられたように、この映画でも9・11テロとウサマ・ビンラディン暗殺が国家によって何の説明もなく結びつけられる。この経緯を私たちも事実として知っている。同時多発テロ直後、大統領はあたかも待ち構えていたかのようにビンラディンなる固有名を首謀者として名指しした。しかしその十分な根拠を私たちは与えられたのだろうか。その証拠はすべて告発者たるアメリカという国家の手にあるのだ。むろん私はこれが冤罪であると主張するのではない。「ミュンヘン」にみられた説話論的な不備が「ゼロ・ダーク・サーティー」にも認められることを指摘したいのだ。おそらくこの点がこの映画を見終わった後の疲労感と関わっている。繰り返される拷問はビンラディンの所在を突き止めるための手段であり、パキスタンにビンラディンのアジトと思しき邸宅を発見した主人公たちは様々の方法で本人が潜伏している証拠を発見しようと試みる。しかし最後にいたるまで確証は得らないまま特殊部隊が突入する。当然私たちの関心は映像の中にビンラディンが登場するかという点へと向けられるのであるが、生きている彼の姿は一度も登場しない。唯一ビンラディンらしい人物が映像に留められるのは死体として搬送された担架に横たえられた姿であり、しかも私たちはそれを瞥見するにすぎない。「ゼロ・ダーク・サーティー」は実在するCIAや主人公のマヤではなく、ビンラディンの不在をめぐる物語とはいえないか。そして現実にも私たちは彼の死体を確認していない。報道によれば、パキスタンで射殺された死体の写真はあまりにも惨かったため反発を恐れて公開されず、埋葬地が聖地となることを恐れたアメリカ当局によって死体そのものもアラビア海に水葬されたという。少し歴史を遡るならば、同時多発テロ直後、この人物の引渡しをめぐってアメリカはアフガニスタンのタリバン政権に「対テロ戦争」を仕掛け、無数の民間人が死傷することとなったことが想起されよう。私たちは現実においても映画の中でも不在の人物に翻弄され、大きな代償を払うこととなった。この意味で「ゼロ・ダーク・サーティー」は「アルゴ」以上に現実を反映しているといえるかもしれない。それは人質の奪還によってカタルシスを得るといった明快なストーリーがもはや成立しない時代、存在ではなく不在によってしか自分たちの正義を確認できない私たちの現在を象徴しているかのようだ。
by gravity97 | 2013-04-07 11:31 | 映画 | Comments(0)