「フランシス・ベーコン展」

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 東京国立近代美術館で「フランシス・ベーコン」展を見る。ベーコンを専門とする二人の学芸員が担当しただけあって、力の入った展示である。私は前回、1983年のベーコン展も京都で見た記憶がある。あらためてカタログを取り出してみるとこの展覧会にはトリプティクを含めて45点の作品が出品されており、点数については今回より多く、重複する作品もある。しかしその際にさほど強い印象を受けなかったのはなぜであろうか。83年の展覧会が元々オーストラリアを巡回する展覧会として企画され(結局、オーストラリア巡回は実現しなかった)、マールボロ・ギャラリーとブリティッシュ・カウンシルの全面的な支援を受けて実現された、いわばあらかじめ誂えられた展覧会であったのに対して、今回の展示が学芸員のいささか偏向した熱意によって企画されたことがその大きな理由であろう。
 展覧会は四つのセクションから構成されている。すなわち「移りゆく身体」「捧げられた身体」「物語らない身体」そしてエピローグとしての「ベーコンに基づく身体」である。エピローグの部分のみ土方巽とペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスというベーコン以外の作家の作品を紹介している。タイトルの後には年記が示され、それぞれのパートが扱う時期が50年代まで、60年代、70年代以降の三期に分けられていることが明示されている。したがって展覧会は基本的にクロノロジカルに配置されているが、かかる構成そして各パートのタイトルからしてすでに挑発的である。
 ベーコンの作品を理解するうえで身体というテーマはわかりやすい。ベーコンの多くの作品に共通するのは、捻れ、変形し、投げ出された身体であるからだ。しかしながら身体に関して、先に掲げたセクションのタイトルが意味するところは必ずしも明確ではない。「移りゆく身体」において確かにいずれのイメージもなんらかの移行の相を示しているという指摘はそう言われるならばそうであろうが、果たしてこの時期の作品のみに指摘しうる特質であろうか。むしろ肖像、教皇、そしてスフィンクスといった主題ごとに整理した方がわかりやすい気がする。あるいは「捧げられた身体」という言葉から誰しも想像するのは磔刑図であるが、このセクションには(カタログには参考図版が掲載されているものの)磔刑図の出品はなく、出品作をそのための「スタディ」とみなすことはやや苦しい。「物語らない身体」についてもそこで圧倒的な存在感を示す4組の巨大なトリプティクは作品の形式においては共通するが、描かれたイメージに企画者いうところの「物語の生贄」を認めるには相当高度の専門的知識が必要であろう。したがってここでは設定されたテーマに拘泥することなく、ベーコンの作品について若干の私見を述べておく。
b0138838_932591.jpg ベーコンの絵画を批評する者がしばしば陥る罠はイメージ・ソースの探求である。ベラスケス、ゴッホ、エイゼンシュタイン、イメージの原型をたどることはさほど困難ではないし、それは美術史の学徒にとってはほとんど反射的な態度といえるかもしれない。しかしベーコンがベラスケスの教皇像を連想させる絵画を描いたとしても、作家がベラスケスのイメージをアイコニックに模倣することに何の関心も持っていないことは明らかだ。私たちが問うべきは作家をしてそれらの主題を選ばせ、さらに異様な変形を加えたうえで私たちの前に提示する衝動の由来であろう。イメージ・ソースの探求が常に起源へと遡及するのに対して、私はむしろ同時代の表現と対照することがベーコンの絵画を理解するうえで有効ではないかと考える。具体的にはベーコンとほぼ同じ世代、正確には5歳年上のアメリカの画家、ヴィレム・デ・クーニングとの比較である。それというのも会場で出品作中の一点、フランクフルト近代美術館所蔵の《裸体》から直ちに私はデ・クーニングの「女」シリーズを連想したからである。直ちに言い添えなければならないが、1960年に制作されたこの作品がデ・クーニングと似ている、もしくは影響下にあるというのではない。逆に両者の相違こそが重要であると感じる。今、似ていないと述べたが、《裸体》の醜く歪められた表情、あるいは横向きに押しつぶされたような乳房の表現などは「女」シリーズの一部の作品を強く想起させる。しかし私は両者の間に決定的な隔たりを感じる。それは画家、あるいは観者と描かれた人物の距離である。デ・クーニングの場合、画家とイメージ、観者とイメージは直接につながっている。しかしベーコンにおいて両者は隔絶している。別の言葉を用いるならばデ・クーニングが描く人物は私たちとともにある。しかしベーコンの場合は別の世界にいるかのようだ。まずこのための様々な仕掛けを検分してみよう。今回あらためて感じた点であるが、図版からの印象に反してベーコンの作品は物質性が希薄である。絵具のストロークによって表情や身体が生々しく変形するのではなく、薄塗りの画面に残されたそれらのイメージはあらかじめ変形した身体の映像のように感じられる。この点においてもデ・クーニングとの比較が有効である。デ・クーニングの人物がストロークでずたずたにされるのに対して、ベーコンの人物は変形されつつも静的な印象を与える。出品作品のうち、《椅子から立ち上がる男》において男の足下に白い絵の具の塊が付着し、精液を連想させるというコメントが付されていたが、この点はベーコンにおいて絵具が明確に物質として認知される場合がむしろ稀であることを暗示しているだろう。デ・クーニングの物質的な絵画はイメージが絵具という現実の物質によって構成されていることを自覚させ、絵画が私たちとともに在ることを意識させる。これに対してベーコンのイメージは私たちと隔てられたあちら側に在る。額縁とガラスもまたこのような隔絶に寄与しているだろう。会場に掲出されたコメントによれば、ベーコンは作品をガラスで覆い、大仰な金色の額縁をつけることを好んだという。結果としてベーコンの作品はいかにも絵画然としている。さらに画面に目を向けるならば、ベーコンの描く人物は多くの場合、何らかの枠の中に囚われている。画面の中に描かれた奇妙な矩形、教皇が座るというより身を押し込められたかのような玉座、あるいは奇妙な台や窓枠、これらの形態は多くの場合、その内部に人物を閉じ込めている。これはデ・クーニングが背景をストロークで埋めて特定しえない場所に人物を置くことと対照的である。ニューヨーク近代美術館に収蔵された有名な《女Ⅰ》が最初窓のある室内に描かれながら、次第に塗り込められて背景と一体化された経緯を想起してもよかろう。ベーコンの人物はいずれも何かしらの枠の中に閉じ込められ、さらにガラスと額の中に密封される。彼らはしばしば絶叫するかのように口を開けるが、それはあたかも檻の中に閉じ込められる恐怖の悲鳴のようだ。私たちは彼らに檻の外から眼差しを向けるが、時にガラスの反射にあって不分明な人物たち、暴力的に歪められた肉体からほとばしる絶叫は視覚ではなく触覚や聴覚に痛みのような刺激を与える。この共感覚的なセンセーションはベーコン特有である。閉じ込められる恐怖、ベーコンの絵画は求心的であり、これに対しデ・クーニングの絵画は遠心的といってもよかろう。
 いうまでもなく遠心性とは抽象表現主義絵画に共有された特質であった。ポロックの、ニューマンの、ロスコの絵画は外に向かって開かれ、展示された空間と関係をもつ。先ほど額縁の問題に触れたが、彼らの絵画の多くは額縁をもたず、備えていたとしても存在感は抑制されている。私は絵画という物体が現実と接することによって絵画の現代が画されたと考える。この意味でベーコンは過激なイメージにも関わらずなおも絵画の近代に留まった。むろんこれは否定的な意味ではなく、あえて留まることによって逆に20世紀後半にあって可能ななんとも不穏なイメージを成立させたのである。考えてもみるがよい、ベラスケスの描いた教皇像、これほどまでに西欧絵画の典型と呼ぶべき作品がほかにあろうか。それは一方ではキリスト教という膨大なイメージ・ソースの中心に位置し、一方では肖像画という長い伝統をもつ形式と連なる。それを換骨奪胎してかくも独特のイメージとして結実させるという行為はいわば西欧絵画全体のネガを提示するかのようだ。絵画という形式を踏み越えることなく、近代絵画という枠組の中でこのような取り組みがなされたことはむしろ必然であっただろう。
 会場に不在のデ・クーニング(実際には同じ美術館の常設展示における関連企画の中にも一点が展示されていた)との対比が求心/遠心という対立を導き出すとするならば、最後のセクションに実際に並べられた二つの舞踏とベーコンの絵画との対比は別の対立を導き出す。会場の最後にあえて舞踏の映像を上映する点に展覧会の批評性が明確に示されている。ダンスの中で実際にベーコンが参照されるペーター・ヴェルツ/ウィリアム・フォーサイスはいうまでもなく、土方巽のアーカイヴに遺された資料の中に見出されたベーコンへの言及がこの展覧会の一つの着想源であったことは明らかだ。企画者もセクション解説の中で記すとおり、ベーコンの影響は文学から映画、音楽にいたる広い領域に認められる。私も最近読んだバルガス=リョサの『継母礼賛』に掲出された6葉の名画の図版の中にベーコンの《頭部Ⅰ》を認めて驚いたばかりだ。それにしても舞踏/ダンスとはまことにベーコン的なジャンルではないか。展覧会を一巡するならば、多くの作品の画面上部にホリゾントのような空間が暗示され、画面が一種の舞台として実現されていることが理解されよう。あるいは画面に描かれた窓枠のような空間、それが「移りゆく身体」を保証していることはいうまでもないが、かかる空間はアルベルティ的な窓というより、舞台の書き割りとしての扉に見えないだろうか。マイケル・フリードではないがこのようなシアトリカルな空間に置かれた身体は既に俳優やダンサーを暗示している。ベーコンが描く空間はきわめてあいまいであるが、そこを上下に分割する線は高い位置に置かれているため、私たちはかなり高い位置から情景を俯瞰するような印象を受ける。対象に向けられた私たちの視覚は比較的安定しており、水平方向に向けられる。このような視覚を舞台上の演技やダンスに目を凝らす観客のそれに比すことは容易である。先に私はガラスの反射によって遮られ、絶叫や身体の変形を主題としたベーコンの絵画が共感覚的であると述べたが、今述べた点を考慮するならば、ベーコンの絵画における視覚性はかなり入り組んだ構造をとり、安定した視覚と不安定な視覚が葛藤している。絵画とは本来的に視覚的な営みであるから、西欧近代絵画の伝統の掉尾に連なるベーコンが一連のトリプティクに明らかな視覚的明瞭さを強調した構図を多用する意図は十分に理解される。しかしそれにもかかわらずそのような明瞭さを無効にしてしまうような不穏さを絵画は宿していないだろうか。土方とフォーサイスを参照する時、このような不穏さの由来が明らかになる。会場で上映されていた土方の「疱瘡譚」において土方は舞台の上に何度もくずおれる。この時、観者の視線が向かう画面に向かって奥方向のヴェクトルとは全く異なった軸性が露わとなる。それは重量をもった身体が倒れる際の下向きのヴェクトル、つまり重力の方向だ。土方の舞踏の異様さはその扮装もさることながら、立とうとして倒れる、身体が重力によって変形される過程にある。身体の変容もまた土方の一つの関心であり、ベーコンの絵画に認められる肉体の変形から触発され、土方が舞踏の中に重力という効果を導入したことは大いに考えられる。重力が視覚ではなく身体に関与する力であることはいうまでもない。絵画を一望しようとする水平の軸と重力にとらえられた身体の垂直の軸、ここでも二つの軸が対比される。このように考える時、ヴェルツ/フォーサイスの作品が展示に加えられた意味もまた明白である。フォーサイスは靴と手袋にグラファイトをまぶしてベーコンの絶筆をなぞる。フォーサイスの動きは白い床に残されたグラファイトの痕跡として記録される。ここに重力が関与していることはいうまでもないが、さらに注目すべきはこのような身振りをペーター・ヴェルツが上方、正面、横という三つの角度から撮影して三つのスクリーンに投影することである。ここで重要なのはうずくまるフォーサイスの姿態がベーコンの人物を連想させる点ではない。ベーコンのイメージに潜在的に関与した力、つまり肉体を歪ませる重力がスクリーンに可視化されたことである。そして重力とは身体に働く現実の力であるが、絵画においては表象されえない。(ここではポロックのポアリングまで議論を広げることは控えよう)つまりヴェルツ/フォーサイスはベーコンの絵画における身体という問題に全く新しい観点から光を当てているのだ。
 ベーコンに関して、ここでは絵画の求心性と遠心性、水平性と垂直性という二つの対立に即して私見を述べた。ひとまず議論を導入したにすぎず、まだ論じるべき多くの遺漏があろうし、なおも検討すべき点も多いことを認めたうえで、このうち後者の問題についてはおそらく本展を見ることなくして着想されなかったことを書き留めておきたい。以前にも記したとおり、優れた作家に関する真剣な展覧会は常に多くの新しい発見をもたらすのである。

by gravity97 | 2013-03-31 09:44 | 展覧会 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


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