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「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」

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 ごく最近終了した展覧会であるため、もう少し早くレヴューできなかったことが悔やまれる。福岡県立美術館と福岡市美術館という二つの会場で開催されていた「福岡現代美術クロニクル 1970-2000」について書き留めておきたい。
 タイトルのとおり、福岡を中心としたほぼ30年間の現代美術の動向を紹介する内容である。出品された作品は発表された時期によって機械的に二分され、前半、1970年から80年代初めまでが福岡県立美術館、それ以降が福岡市美術館で展示されている。といっても80年代前半の作品の展示区分はさほど厳密ではないし、スタイルを大きく変えた作家は両方の会場に作品が展示されている。作品のジャンルは絵画、彫刻から映像まで多岐にわたり、注目すべきは美術館や展覧会ばかりでなく、画廊や教育機関、都市開発やネットワークといった美術の周辺にも丹念に目を配っている点である。私はこの時代の福岡の美術状況について雑誌や展覧会カタログを通して漠然とした知識をもっていたが、今回の展覧会を通してこれらの知識が作品とともに整理され、多くの新しい発見もあった。
 1970年という展覧会の起点は別の言葉を用いれば、「九州派」以後ということであろうか。展覧会のカタログに寄せたテクストの中で企画者の山口洋三は「九州派の余韻の中で」という表現を用いている。もちろん九州派の作家たちはこの時期も活動を続けていたが、彼らの直接の影響を受けない新しい世代が登場したということであろう。この点を関西における具体美術協会と比較することは意味があるかもしれない。具体美術協会も1972年まで存続したが、後続する若手たち、具体的には80年代以降に活動を始めるいわゆる「関西ニューウエーヴ」とはほとんど関係をもっていない。いずれの運動も後期にいたるや当初の先鋭さを失って弛緩した(この点は昨年、国立新美術館で開催された具体美術協会の回顧展に関してしばしば指摘された点である)といったやや意地の悪い見方をとらずとも、これら二つの運動が少なくとも活動の核心においては容易に模倣することができない過激さを秘めていた点、いずれの作家たちも少数の例外を除いて、大学や美術学校で後進の指導にあたることがなかったことなどが理由ではなかろうか。福岡市美術館における「九州派展」において九州派が初めて運動として総括されたのは1988年のことであり、具体美術協会の活動が単なる回顧ではなく、より広い文脈で総括されるのは1985年、国立国際美術館における「絵画の嵐」展以降となる。
 展覧期の章立てに従って、おおよそ10年ごとに福岡の美術状況を確認するならば、まず1970年において私の目を引いたのは多くの集団が次々に簇生し、比較的短い期間に活動を終えるという状況である。いくつかを列挙するならば、TR同、グループ玄、WORK PARTY STUDIO、ゾディアックそしてIAFといった集団である。ほとんどが私にとって初めて聞く名前であった。会場にもカタログにもこれらのグループの構成や活動について簡単な紹介が付されており、理解の一助となる。ここで個々の集団について論じる余地はないが、私が興味を抱いたのは、彼らの仕事に比較的穏健な表現と過激なパフォーマンスが同居しているように感じられることだ。福岡県立美術館に展示されたこの時期の作品は平面も立体もそれなりに興味深いとはいえ、微温的で既視感がある。一方でこの時期に繰り広げられた彼らのパフォーマンスはしばしば街頭で挙行され、一般人を巻き込む内容が多い。TR同によるビラの配布や街頭への落書き、あるいは「レスポンス・デスマッチ」と呼ばれる街頭での公開ドローイングはかつて九州派が行った集団示威行為を連想させる。私は黒ダライ児の『肉体のアナーキズム』中で言及されていた集団蜘蛛による過激きわまりない街頭パフォーマンスもこの時期ではないかと考えていたので、展示中に集団蜘蛛についての言及がないことをやや不審に感じたのであるが、あらためて黒田の論文を参照するならば、問題の行為は1970年であり、彼らの活動は展覧会に先行している。市街地での作品発表はこの後も多くの作家によって手がけられているが、これを九州派以降連綿と続く前衛美術の特異な伝統とみなすかどうかは微妙な問題である。
 1980年代の福岡の美術状況も私には大変興味深く感じられた。章のタイトルともなっているとおり、キーワードは「交流」である。この時期、福岡市内に設立されたギャラリーやジャズ喫茶は作家たちの発表や交流の場となる。例えば閉店する際に店内を作家たちの表現の場として解放した「イヴの林檎」というジャズ喫茶のオーナー、高向一成はバリー・ル・ヴァや李禹煥を連想させるガラス割りのパフォーマンスでも知られた作家であった。また当時、久留米の石橋美術館や福岡市美術館で開催された現代美術展もこの地域の先鋭な作家たちが交流する場であり、出品作も多く展示されて当時の気風を伝える。もっともこのような交流はおそらく日本各地で行われていただろう。この時代の福岡において注目すべきは、東京から来た何人かの作家がこの地に大きな影響を与えたことにある。その一人が川俣正である。1983年に福岡市美術館で開催された「素材と空間」展に戸谷成雄、保科豊巳とともに参加した川俣は美術館のみならず近郊のアパートを舞台に作品を設置する。今でこそ既存の施設を使ったサイトスペシフィックな造形は珍しくないが、この仕事は山野真吾が開設したIAFに集う若手たちに強い影響を与えたという。山野もこの企画に深く関わっている。近年、アートプロジェクトのオルガナイザーとして辣腕をふるう山野自身が作家であったことを私はこの展覧会で初めて知った。学芸員と作家、オルガナイザーの幸運な協同が福岡という地域に一つの刺激を与えたといえよう。川俣はこの後も田川市の「コールマイン田川」で持続的に九州と関わりをもつ一方、各地で同様のプロジェクトを続ける中でいわば交流の接点として、地域間ネットワークを作り出し、福岡の作家たちは北海道、東京、関西といった地域とアーティスト・ネットワークという運動体をとおして交流を重ねていった。カタログ中でも触れられているとおり、このような状況は、制度に依拠しながら、フットワーク軽く巧妙にずれていく川俣という傑出した才能によるところも大きいだろうが、ここでは中央で活躍する作家が地方に赴いて教えを垂れるという上からの交流ではなく、地方同士の水平的な交流の可能性が示唆されている点に注目したい。このパートで紹介される作家たち、例えば柳幸典や藤浩志、そして早世した殿敷侃らは皆、このような水平的な運動性によって特徴づけられる。かかる可能性に拘泥する理由はいうまでもない、このような水平性は後述するアジアとの交流においても顕著な特質であるからだ。
 もう一人のキーパーソンは松本俊夫である。私はうかつにも今回の展示を見て初めて松本が80年代に九州芸術工科大学で教鞭を執り、実験映画のメッカとも呼ぶべき時代を築いたことを知った。この経緯についてはカタログ中に収められた松本の文章に詳しい。ここでも松本とかれに師事した学生たち、そして地元で活動を続けていた映像作家たちの協同が認められる。福岡の文化的ポテンシャリティーの高さといってしまえばそれまでだが、地方における文化という問題を考えるにあたって示唆的であろう。ただし映像作品についてはいつも感じることであるが、美術館という場所は必ずしも望ましい上映の場所ではない。短い滞在でそれらを全て見ることはできず、例えば福岡の実験映画の特性や影響関係といった踏み込んだ問題まで見極めることは難しいように感じた。
 1980年代後半より福岡の美術状況はさらに活発になる。1987年、北九州八幡における国際鉄鋼彫刻シンポジウム(これについても詳しいドキュメンテーションが展示されていた)に続いて、北九州に海外作家との交流の拠点が設立され、後のCCAへと展開される。私も当時よりその活動については聞き及んでいたが、中村信夫の幅広い人脈に基づいて海外作家や批評家を招聘し、サマースクールというかたちで国内作家との交流を深めたCASKそしてCCAの活動については今後なんらかのかたちで総括されるべきであろう。一方1990年にはミュージアム・シティ・天神がオープンし、意欲的な作家紹介が始まる。先にも述べた通り、街を美術によって刺激するという姿勢はここでも確認することができよう。この背景にいわゆるバブル景気を指摘することはたやすい。振り返ってみるに確かにこの時代、日本の現代美術はかつてない活況を呈しており、東京や関西のみならずその余波が福岡にも及んでいたことがわかる。森村泰昌の巨大なバナー作品や草間彌生の黄色い南瓜など、世界的に知られた作家の作品が巨大な商業施設に設置される傍らで、地元の作家の作品も積極的に取り入れられたようである。しかしサイトスペシフィックな作品の常として、これらは展覧会の中では紹介しにくい。ミュージアム・シティ・天神では1991年に中国前衛美術家展と銘打った画期的な展覧会「非常口」が開催された。今でこそ中国の現代美術に注目が集まっているが、この時期にかくもラディカルな展覧会を開くことができたのは、キューレーターの費大為の存在のみならず、福岡という土地が福岡アジア美術館の活動をはじめ、長年にわたってアジアの現代美術との親密な交流を続けてきた背景があるだろう。この展覧会を見た後、私は福岡アジア美術館にも足を運び、常設展示を一巡した。あらためてその蓄積に驚く。それは都市としての、美術館としての見識であろう。今回は展示の中にミャンマーの現代美術さえも組み込まれていた。アジアという広い地域を対象に、国によって濃淡をつけることなく、どの国とも平等な、つまり水平的な交流は福岡が「地方」であるがゆえに可能であったかもしれない。
 展覧会を通して30年間の福岡の美術状況を回顧する時、いくつかのトピックが浮かび上がる。一つは地域性と国際性の対立であり、この点は九州派と今回出品した作家たちとの関係として了解されよう。先に述べたとおり、両者はほとんど交差することがなかった。地域主義と国際主義という対立を私はアメリカの抽象表現主義から借用したが、ニューヨークの若手作家にとって国際主義がヨーロッパのモダニズムを意味したのに対して、福岡の作家たちにとっての「国際主義」とは明確なモデルをもつことのない、いわゆる「同時代の現代美術」であった。彼らの表現は明確な運動のかたちをとることがなくまとまりに欠ける。既に発表されていた文章ではあるが、カタログに収録された黒田雷児の辛口のコメントはこの点と関わっているだろう。第二に美術館やギャラリー以外の場所、商業施設や市街といった場で発表される、あるいは深く関わる作品が多いように感じられる。このような特質はどこからもたらされたのであろうか。オフ・ミュージアムの隆盛になにかしらの意味を見出すか、バブルの徒花とみなすかは判断が難しい。60年代のパフォーマンスの伝統を引き継ぐ系譜ととらえることは無理だろうか。このあたりも『肉体のアナーキズム』の著者に問うてみたい問題だ。三番目に福岡という「地方都市」とアジアの関係である。アジアの名を冠した美術館をもち、実際にアジアとの交流拠点として知られる都市の美術はかかる地政学的な位置を反映しているのだろうか。この問題は最初の地域主義と国際主義の対立へと立ち返り、さらに私たちは今やグローバリズムという新しい変数さえ手にしている。福岡の美術にアジア性を求めることは一種逆向きのオリエンタリズムかもしれない。そもそも美術の「アジア性」とは何か。優れた展覧会の常として、展覧会をめぐりつついくつもの新しい認識、そして多くの疑問が生まれた。
 アジアの現代美術の隆盛と反比例するかのように日本の美術界はバブル景気崩壊後、冬の時代に突入する。この展覧会は2000年を区切りとしているから、宴の後、今世紀の状況については触れていない。冬の時代に入ったのは美術館も同様だ。設置された地域の美術状況を展覧会として紹介することは公立美術館としてはごく当然の務めである。しかし今日、このような展覧会さえも決して容易ではないことを私たちは知っている。海外の有名美術館の三流コレクションを展示することは許されても、地元で真摯に制作に取り組む作家たちを紹介することは困難であるという逆説。このような状況の中、県立と市立という二つの美術館がタッグを組んで一つの地域の美術を回顧したことの意義は大きい。展覧会とは選択と排除のシステムであるから、作家や作品の選択は当然議論や反発を呼ぶだろう。しかしそれを恐れず、一つかみの歴史を提示すること、ローカル・アート・ヒストリーの構築は公立美術館の本来の使命であるはずだ
by gravity97 | 2013-02-14 22:08 | 展覧会 | Comments(0)