マリオ・バルガス=リョサ『アンデスのリトゥーマ』

 バルガス=リョサの小説について論じるのは二度目となる。このところバルガス=リョサの翻訳が進み、嬉しいことに読み落としていて入手困難であった『継母礼賛』、そして『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帖』がいずれも中公文庫に入った。少し前には岩波文庫から『密林の語り部』も刊行されている。これらは文庫で手軽なこともあり、近いうちに読むことになるだろう。最近読んだ『悪い娘の悪戯』は一種のファム・ファタール譚であり、世界中の都市を舞台に40年にわたって一途な愛を捧げる主人公とそれを翻弄する娘の物語であった。主人公のもとを出奔した娘はなんと東京でフクダなるヤクザの情婦として登場する。語りの形式という点では比較的単純でありながら、物語を読む楽しさを満喫させてくれる佳作であった。
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 『アンデスのリトゥーマ』は今挙げた二つの「官能小説」、『継母礼賛』と『官能の夢 ドン・リゴベルトの手帳』にはさまれる形で1993年に原著が発表されている。リトゥーマという名前には聞き覚えがあった。バルガス=リョサの出世作で日本でも最初に翻訳された『緑の家』では治安警備隊員、中編『誰がパロミノ・モレーロを殺したか』には警官として登場している。『緑の家』は砂漠の都市と密林の集落、現代と太古が共存するアマゾン川流域を舞台とした神話的な風格をもった小説であったが、私は『アンデスのリトゥーマ』を読みながらしきりと『緑の家』が連想された。それというのもこの小説もまた異なる文明の接触という主題と関わっているからだ。今回は内容にも深く立ち入って論じる。
 治安警備隊員のリトゥーマ伍長はアンデスの山岳地帯にあるナッコスという集落に助手のトマスとともに駐屯している。ナッコスではハイウエーの建設が進められており、インディオと工事の作業員たちが生活している。物語はリトゥーマのもとにデメトゥリオという工事の現場監督が行方不明になったという知らせが届く場面で始まる。失踪したのはデメトゥリオが最初ではない。駐屯所の手伝いをしている口のきけないペドリート、工事現場で働いていたワルカーヤに続いて三人目となる。彼らはどこへ消えたのか。誰が関与しているか。物語は捜査を開始したリトゥーマを中心に展開するから、一篇の推理小説として読めないこともない。登場人物はさほど多くない。今挙げた五人に加えてナッコスで酒場を経営し、リトゥーマが事件の黒幕ではないかとにらむディオニシオと占いや呪いに通じた妻のドーニャ・アドリアーナ、そしてトマスがナッコスに来る前に恋仲となるメルセーデスという娘。物語の中心を占めるのはこれらの人物だ。いつもどおりバルガス=リョサの小説は語りが素晴らしい。この小説は無数の断章の連続として成立しているが、それらは時間的な先後関係においてもメインストーリーからの距離においてもばらばらに感じられながら相互に絶妙の距離を保ちつつ、物語を形成していく。私たちは時にストーリーの帰趨を予想しながら、時に全く新しい物語に当惑しながら小説を読み進める。語りの巧さは例えば次のようだ。リトゥーマがトマスからメルセーデスとの馴れ初めを聞く場面ではひとまずはリトゥーマとトマスの対話として物語が続く。しかし彼らの会話に併記される地の文の中に「若い男」という人物が登場する。初めは誰のことか当惑するが、読み進めるうちにそれはトマスと同一人物であることがわかる。つまりここではリトゥーマにティンゴ・マリーアという町からメルセーデスとともに出奔した経緯を話すトマス(語るトマス)とトマスが回顧する自分(語られるトマス)が分裂して同じテクストの中に登場するのだ。このような構造は物語が本質的に何者かによって語られているという暗黙の前提を私たちに意識させる。
 バルガス=リョサの小説には時に凄惨な暴力が描かれる。前回このブログで取り上げ、独裁者の暗殺とその後の無残な粛正を描いた『チボの狂宴』に顕著であった残虐行為の描写はこの小説では多くレティサンス、黙説法で描かれる。バルガス=リョサとしては珍しくこの小説は全体に緊張感が張り詰めている。それは三人の人間が突如消息を絶つという謎によってもたらされるだけではない。時代を特定可能な固有名詞が少ないため、推測の域から出ないが、例えば物語の中で言及される「センデーロ・ルミノーソ」は80年代から武装闘争を本格化したペルーのゲリラ組織であるから、おそらくこの物語は近過去を舞台としている。物語の中にはセンデーロ・ルミノーソの指導を受けたとされる「土くれ(テルーコ)」と呼ばれる武装集団が登場し、住民や労働者を理由なく殺戮する。多焦点の語りを得意とする作家としては珍しく、ということは明らかに意図的に「土くれ」に属する登場人物が焦点化されることはない。正確には「土くれ」に属する人物は常に匿名的で内面化されることがない。このため私たちは、物語中に突然介入する暴力の意味や由来について、リトゥーマをはじめとする先に挙げた人物たち、いわばこちら側の視点を借りて推測することはできるが、真相を知ることはできない。例えば冒頭近くで私たちはクスコまでバスで移動しようとしたフランス人の恋人同士がゲリラと覚しき集団に拉致され、石で打ち殺される悲惨な場面に立ち会う。しかし今述べた通り黙説法で語られるこの悲劇の理由、殺人者たちの正体や意図を私たちは最後まで明かされることがない。物語の中盤に登場し、国際的な支援機関から派遣された女性も技官とともに石で打ち殺される。彼らはいずれも西欧からの来訪者である。本書において西欧とペルー、二つの文明の接触は悲劇的な結末を迎える。近過去のペルーにおいて大統領候補でもあったバルガス=リョサがこのようなエピソードを記す時、それは何かの暗喩として機能するのだろうか。この点については私もよくわからない。
 焦点化されない人物はテロリストたちだけではない。リトゥーマやトマスにとって自分たちが相手をしている共同体もまた理解を絶した存在である。ペルーの山岳地帯に土着の人々、リトゥーマは彼らを、おそらくは差別的な含意をもつ「山棲み」という名で呼ぶ。「山棲み」の世界は迷信に満ち、人間から脂を抜き取って殺すピシュターコと呼ばれる妖怪やムキと呼ばれる山の精霊が跳梁する。文明から遠い地に住む未開の民と政府から派遣された治安警備隊員、ここでも二つの文明の接触というテーマが浮かび上がる。興味深いことに先に挙げた5人の登場人物はいずれもほかの土地からナッコスに移り住んでいる。次第に明かされる失踪した三人の男の来歴、ティモティオ・ファハルドという男と別れ、ディオニシオと駆け落ちするドーニャ・アドリアーナの物語(解説によれば三人はそれぞれギリシャ神話のテーセウス、ディオニソス、アドリアーネと対応している)さらには思いがけず恋に落ちるトマスとメルセーデスの逃避行はいわば物語の横糸としてメインストーリーと絡み合う。緊張に満ちたテロリストたちとのやりとり、マルケスを連想させる奇想あふれる物語、恋人たちの道行に立ちふさがる障壁、リョサは見事な緩急で物語を繰り出し、それぞれの物語は次々に宙吊りにされながら次の語りへと繰り延べられていく。本書においては複数の語りの同時進行というリョサの得意とする技法が遺憾なく発揮された印象がある。しかし先にも述べた通り、登場人物全てに語りと視点の権能が与えられてはいない点には留意する必要がある。もちろんこの物語では一貫して三人称の語りがとられており、明確な一人称の語りは存在しない。しかしナッコスに寄寓する警備隊員や酒場の夫婦、流れ者の作業員は次々に焦点化されて、それぞれ来歴と現在が明らかにされて物語に再配置されるのに対し、舞台となるナッコスの原住民たち、「土くれ」や「山棲み」そしてインディオたちは顔も名前ももたない。次々に繰り出される物語に眩惑されて見落としがちであるが、おそらくバルガス=リョサは意図的にこのような不均衡、不平等を物語の中に組織している。物語の中心に言葉をもたぬ者たち、主人公たちの理解を超えた存在が位置することも本書を通底する緊張感と関わっているだろう。失踪した三人の男の運命については物語の最後で一応の解明がなされ、ディオニシオの酒場に集う「山棲み」たち、ナッコスの「未開」が関与したことが明らかとなるが、いささか強引な幕引きであり、私にはこの部分はむしろ蛇足のように感じられた。
 常に外部の視点をとおして語られ、自らの言葉をもたない人々。途中に意味ありげに挿入されるフランス人旅行者とヨーロッパ出身の技術者の悲惨な死のエピソードを考慮する時、そこになんらかの意味を見出すべきか、単に私の深読みか、私は判断を下しかねている。物語の終盤で山津波というカタストロフがナッコスを襲う。工事現場は壊滅し、ハイウエーの工事は中止される。労働者たちがいなくなることを見越してディオニシアとドーニャは店を畳んで別の土地へ向かう。リトゥーマとトマスもそれぞれ新しい赴任地が決まり、リトゥーマは単身で、トマスはメルセーデスとともに新しい任地に向かうことが暗示される。つまり主要な登場人物たちは舞台から去る。失踪で始まった物語は語り手たちの退場によって幕を閉じる。町の消滅による物語の終焉、私は反射的に『百年の孤独』を連想した。

by gravity97 | 2013-01-13 21:10 | 海外文学 | Comments(0)
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優雅な生活が最高の復讐である


by クリティック
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