小林紀晴『メモワール 写真家・古屋誠一との20年』

b0138838_16481871.jpg 年末に実に重い内容の本を読んだ。自身も写真家である小林紀晴がオーストリア在住の写真家古屋誠一について記した12章から成るエッセイである。タイトルの「メモワール」とは古屋が発表した何冊かの写真集に共通するタイトルでもある。サブタイトルが示すとおり、小林は1991年に初めて古屋の個展を訪れて以来、その作品に惹かれ、何度となくグラーツの古屋のもとを訪ね、世界各地で開かれた展覧会を訪れ対話を続けた。小林は対話の中で写真という表現についての思索を深め、本書は写真論として読めなくもない。一方で古屋の写真について語ることは写真家の個人的な歴史と関わることでもあるから、本書は一個の評伝でもある。
 私は写真の専門家ではなく、古屋についてもその存在は知っていたが、展覧会を見たことはなく、おそらく作品も図版のかたちでした見たことがない。またこの文章を書くにあたって、あえて私はカタログや写真集を参照することを控えた。古屋の作品には写真という芸術の本質に関わる問題がむき出しで提示されており、私はこの問題を具体的な作品を経由せずあくまでも原理的、抽象的なレヴェルで考えてみたいと思ったからだ。
 小林は古屋について語るに先立ち、プロローグで二つのカタストロフについて論じる。一つは自身がマンハッタンで遭遇した9・11 の同時多発テロであり、もう一つは東日本大震災である。10年の時を隔てて発生した二つの事件が私たちの精神に決定的な影響を与えたことは今や自明であろうが、小林はニューヨークのラボでWTC崩壊直後の瓦礫を撮影した写真に手を加えようとする男との出会い、あるいは震災の被災地に行くべきか逡巡する中で、作品にしてよい被写体と作品にしてはいけない被写体があるのではないかという思いに達する。この発見こそがこのエッセイの出発点であった。先に述べたとおり、小林と古屋の交流は1991年に始まる。しかしこのエッセイが執筆されたのが、震災後であり、小林も述懐するとおり、震災の体験によって初めて執筆が可能となったことの意味は何度注意を促したとしても促しすぎることはないだろう。
 古屋の写真の被写体は多く彼の妻であるクリスティーネであった。本書の冒頭にはクリスティーネを撮影した何枚かの写真が掲載され、続いて小林が2005年にグラーツで撮影した古屋のポートレートが掲載されている。その傍らにはやや異例にも古屋の略歴が掲載されている。古屋の出身やヨーロッパに向かった経緯が簡単に記された後、記事は次のように続く。「古屋は妻となる女性と知り合ってすぐ、その姿を撮り始めた。結婚後も日常的に撮り続けた。やがて妻は精神を病んだ末に、東ベルリンのアパートの上階から身を投げ、自殺。その直後の姿も古屋はカメラに収めた。/1985年のことだ。妻・クリスティーネ・フルヤ・ゲッスラーと共に過ごした時間は7年8ヶ月ほどだった。現在、オーストリア第二の都市グラーツで暮らしている」精神を病んで自死した妻のポートレート。これほど苛酷な被写体を思いつくことは難しい。そして同様に私たちはこれほどに深刻な来歴をもつ作品の由来について写真家を問い質したいとは思わないだろう。しかし小林は最初に古屋の作品に「魅了」されて以来、およそ20年にわたって古屋と密接なコンタクトをとり、残された家族の中に分け入るように(後述するとおり、古谷はクリスティーネとの間に光明という息子がおり、さらに最近までクリスティーネの母と一緒に生活していた)古屋へのインタビューを続けた。私はこのような小林の姿勢にも一種鬼気迫るものを感じる。おそらくそれは小林が写真という営みに関わるうえで、一連のクリスティーネの肖像から逃げることができなかったからであろうし、さらに小林の思考がかくのごとき形をとって結実するためには、今世紀に入って人類が味わった最大級のカタストロフが必要であったという事実もまたきわめて暗示的に感じられる。
 1991年、初めて訪れた個展の会場に置かれた写真集の中に、小林はクリスティーネが投身した現場が撮影されている写真を見つけ、大きな衝撃を受ける。個展の会場に展示されていたのは妻の肖像だけではないが、いずれも「負のエネルギーが充満していた」という。それから数年のうちに二度、小林は帰国していた古屋と短い時間会話を交わし、面識を得る。そして古屋について取材したいことを伝え、承諾を受けて小林はグラーツへ向かう。2000年5月のことである。古屋について何か書きたいという漠然とした思いはあっただろうが、具体的な当てもないままにオーストリアに向かう小林が強い衝迫に追われていたことに疑いの余地はない。この時点までに古屋は「メモワール」と題した写真集を三冊出版していた。最初の『メモワール』(1989)が、小林によれば混乱した心境を露呈させた「過去」の記録であるのに対して、二冊目の『メモワール1995』(1995)は「現在」を感じさせ、必ずしも重くない。三冊目の『メモワール1978-85』(1997)は古屋の文章も添えられ、265枚もの写真が収められているという。この年記は古屋がクリスティーネと出会ってから彼女が自殺するまでの期間であり、全ての写真にクリスティーネが写っている。多く海外で出版されたこれらの写真集を通して、古屋の評価は高まっていった。2002年の『ラスト・トリップ・トゥ・ヴェニス』で古屋は伊奈信男賞を受賞する。精神を病み、突然に頭を丸刈りにしたクリスティーネは病院からも半ば強制的に退院させられ、最後の逃避行のように古屋とともにヴェニスに向かった。文字通り最後の旅、私はこのエピソードからプルーストを想起せずにはいられない。小林は執拗なインタビューを通じて、これらの経緯の詳細を古屋から聞き出す。精神を病んだ妻との生活、このような主題から直ちに連想されるのは島尾敏雄の『死の棘』であろう。島尾の場合は言語を介すことによって現実との間に若干の距離を保つことができたかもしれない。しかし写真という表現はあまりにも直截にクリスティーネの病状を記録する。小林との対話の中で古屋は少しずつ当時の事情について語る。対話を通して、私たちの関心は次第に一つの時間と場所に向かう。1985年10月7日12時30分過ぎ、東ベルリンの彼らのアパート、いうまでもなくクリスティーネが身を投げた地点だ。この直後に古屋はおそらく彼のその後の半生に限りなくその意味を問い返すこととなる二つのふるまいにおよぶ。一つは息子の光明との会話である。母が死んだことを告げる父に対して、光明は「パパがママを殺したの」と問い、古屋は「そうだ」と答える。そしてもう一つ、妻の亡骸を確認した古屋は部屋に戻ってカメラを取り出し、あらためて自死した妻の姿を撮影したのだ。私たちも本書の中でこの時間と場所に縫いつけられる。
 2006年、古屋は『メモワール1983』という写真集を発表する。小林はこの写真集への当惑を隠さない。「私は『1983』を出版された直後に手にした。しかし、最後のページまで進むことができなかった。思わず途中でページを閉じてしまった。それは古屋が踏み込んではならない領域に入ってしまった気がしたからだ」小林の当惑の理由は単純だ。古屋がこの中にクリスティーネが残した多くのメモを収録したためである。それらは半ば狂気の領域にあった妻による走り書きであり、常識的に考えれば文字にせず、ましてや公刊しない内容である。実際に古屋にとってもそれらのメモを読み下すことは困難であり、古屋は(ネイティヴでない古屋にとって妻の乱れたドイツ語の筆記を判読することが困難であったこともあり)二人と関係をもたないドイツ人に依頼してそれらを読み下してもらったうえで活字にする。いうまでもなく誰に宛てた訳でもないきわめてプライヴェイトな文章であり、しかも書き手が精神を病んでいたとするならば、本来公表の必要はない。私はこの写真集を見たことはないが、古屋でさえグラーツを離れたパリでなければ読めなかったというクリスティーネのメモは本書によれば例えば次のようなものである。「この遊びは死ぬまで続く。私は殺人者になる。母かまたは光明の、あるいは二人の、あるいは三人すべての」死者を鞭打つという言葉があるが、確かにこれはあえて公にする必要のある言葉ではないだろう。それではなぜ古屋はあえてこの写真集を出版したのか。この謎をめぐって小林は古屋をよく知る評論家と写真家のもとを訪ねる。飯沢耕太郎と荒木経惟である。亡くなった妻を写真に残すという発想から私も本書を読み始めてすぐに荒木の『センチメンタルな旅・冬の旅』を連想した。少々驚いたことに古屋と荒木は実際に親交があり、それどころか荒木がヨーロッパで受容されるにあたっては古屋の協力が大きかったという。飯沢と荒木はともに古屋の写真に対して興味深い解釈を与える。しかし二人とも『1983』にいたる古屋の仕事にネガティヴな態度をとる。飯沢は古屋とクリスティーネの人生に関わるのはもう引き受けきれないと述べる。荒木の妻、陽子に対する写真を通しての関わりが「一回きり」であるのに対して、古屋は執拗すぎるというのが理由だ。一方、荒木は亡き妻、陽子の写真を撮ったとしても、それを発表するかしないかについては自分の中に明確な一線があると述べる。なぜ古屋は『1983』を出版したか。小林が暗示する解答はきわめてデリケートなものである。実はこの写真集は実は息子の光明に向けて発表されているのだ。古屋はクリスティーネが残した狂気のメモを活字、それも日本語にするにあたって一人だけ許可を求めた。それは息子の光明であった。先に引いたメモから推測されるとおり、当然そこには光明のことも書かれており、狂気に陥った母が子に向けて書いた(発表を前提としない)文章が含まれていた。私はこのあたりの壮絶な葛藤についてコメントできる立場にない。いつか『1983』を光明が見るのではないかという問いに対して、古屋はおそらく既に見ている、自分は写真集をそこらに置いておくから、自分がいない時に見ているはずだと答える。続いて古屋はこの写真集が光明への間接的なメッセージなのかという問いに対して全面的に肯定する。「すべての写真集はそういう意味合いがある。いつか光明が見るという意識がずっとあるわけね。言葉で直接言えないことを、要するに、そういう部分を写真集に託すということ」村上龍の小説であったと思うが、精神を病んで人との直接の対話ができないため、握りしめた人形に話しかけるかたちで他者と会話する人物が登場した。本書から私は反射的にこのエピソードを連想した。他者とは息子、人形が写真である。そして古屋の場合は語り手の精神が失調しているからではなく、語るべき話題があまりにも重いためにかかる間接話法がとられたのではないだろうか。言葉で表現しえないことを伝えるメディアとしての写真。私は写真論に精通している訳ではないが、写真が端的に死の表象であることについて多くの議論が費やされてきたことは知っている。最初に述べたとおり、本書は無数の死を眼前にした震災の経験を介して(しかし私たちは震災の写真を通して一人の死者も見ていない、この問題は考えるべき余地がある)あらためて書き起こされたことはきわめて重要である。小林はプロローグの最後にスーザン・ソンタグが『他者の苦痛へのまなざし』の中で引用したプラトンの言葉、死者を見ることについての言葉を引く。「さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ」かかる主題からはソンタグやバルトはいうまでもなく、絶滅収容所の表象をめぐるジョルジュ・ディディ=ユベルマンの議論までが射程に入るだろう。しかしそこまで議論を敷衍することは私の能力を超えている。
 2010年に古屋は東京都写真美術館などで個展を開き、それに際して新しい写真集『メモワール. 1984-1987』を出版する。メモワールの後にピリオドが打たれていることからわかるとおり、古屋の中では「メモワール」はこれで完結した。写真は厳密な時系列に沿って掲載され、クリスティーネの文章が一篇だけ収録されているという。小林の質問に古屋は「何もわからなかったということが、わかった」と答える。いうまでもなく写真を介して他者を理解することの不可能性を指し示している。写真を生業として、妻のポートレートを撮り続けた写真家がそれによっては何もわからないことを知った時の感慨を私は想像することもできない。このような会話を交わしてグラーツから小林が日本に帰国した直後、古屋は脳出血で倒れ、九死に一生を得るものの、個展のオープニングへ参加することはできなかった。その後の古屋の動静については本書では触れられていない。エピローグで小林は再び震災について、そして自分の父のデス・ポートレートについて語る。同じ写真家として小林は古屋の仕事をとおして写真とは何かという根源的な問いに向き合っている。20年に及ぶ二人の関係は友情と呼ぶにはあまりに壮絶だ。ともに写真という魔に魅入られ、愛する者の生と死の往還の中でその可能性を探る同志と呼ぶべきであろうか。
 私は本書を四日前に書店で求め、ほぼ一日で通読して、年末の二日間という多忙かつごく短い期間で一気にこの原稿を書き上げた。書き足りぬことは多いが、小林をグラーツに向かわせたような衝動、古屋の写真についてなんとか自分の言葉で応接したいという止むにやまれぬ衝動が、読み終えるや直ちに私の中に生まれたのである。これまでこのブログにたくさんの書評を書いてきたが、このような経験はかつてない。今年の読書の最後を締めくくるにふさわしい凄絶かつ喚起的な記録であった。
by gravity97 | 2012-12-31 17:00 | 評伝・自伝 | Comments(0)

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